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しかし、ディールたちの姿を見失ったと思われていたケイオスだが、そうではなかった。
ディールたちの誰もが、クラッセの持つ飛翔の剣で空に浮かんだ自分たちのそのまた上空にケイオスの目があることを忘れていたのだ。この時、ディールたちの誰か一人だけでももう少し早くそのことに気付いていれば状況は変わっていたのだろうか。否、もし誰かがそれに気付いたとしてもすでにディールたちの居場所を捉えているケイオスが先に仕掛けたに違いない。ケイオスがそうとしなかったのは、自分がディールたちの姿を見失っているように見せかけて、彼らを一網打尽にしようと謀ったからである。
と、轟く雷鳴がその場にいた者たちの鼓膜を揺らし、稲光がケイオスの口元を白光の元にさらした。その口元がニタリと歪む。
「……ッ! だめ、ディール!」
叫んだのはレミ。ジンが眉根を寄せた。
漆黒の空に浮かぶ魔法陣を見上げたレミは、ふと思い出したのだ。黒い蝶を通してケイオスに自分たちの姿が見られているという可能性を。
初めて黒蝶を通して得体の知れない存在を感じたあの森での出来事から、ケイオスが闇の魔道師たちにとって変わる今に至るまで、彼らは黒蝶を通して見られていたというのに。
さらに恐ろしきことは、レミたちがディールに注視しているその瞬間だった。彼女らを一網打尽にすべくケイオスがとった手段は、その死角からの攻撃である。
最もレミらの視線が集中する瞬間といえば、もちろんディールがケイオスへの決死の突撃を試み、そしてケイオスの反撃を受けて無残な死を遂げた瞬間であろう。その時はきっと背後への警戒が薄れるに違いない。
すでにケイオスはディールたちをたかが冒険者風情などとは考えてはいなかった。ただの冒険者が闇の魔力を得た者相手にここまで渡り合えるとはずがない。特にファイターの男が持つ剣など見ているだけでも気分が悪くなってくるではないか。
それならば全霊を持って仕留めるべきではあったが、目の前にあるご馳走も捨てがたかった。邪悪の化身たるケイオスにとっては人間の恐怖や死に際の後悔といった感情は、悪意や憎悪と並んで極上の馳走である。そのためにわざとディールたちの姿を見失ったふりをしていたのだ。
異変に気付いたレミが二の句を次ぐよりも早く、飛翔の剣の力を借りたディールが猛スピードでケイオスに迫り、思い切り両腕を振りかぶる。
ピシリ。
ディールがケイオスの頭上に到達した時、彼は薪が爆ぜるときのような音を聞いた。
不自然な音にディールがいぶかしむ暇もなく、突然ケイオスの紫色の体毛は背中から滅茶苦茶に破けた。剥き出しになった茶色の岩肌に亀裂が入る。
ディールが目を見張った時には大粒の岩石がもう、彼目がけて放たれていた。
飛翔の剣を持つクラッセが岩石からディールを回避させようとする余裕などない。
岩石をまともに受けたディールは激痛の中で、なんとか手放すまいと痺れる両手に力を振り絞って剣を握り締める。彼が岩石をしたたかに受けて耐えることが叶ったのは、ひとえに彼の持つ剣の力が防御膜を張り、衝撃を僅かでも和らげてくれたおかげだろう。
気を失いそうになりながらも意識を保てたディールの視界に入ったもの。それは二つの刃が螺旋に絡まり合った槍の切っ先だった。
大量の岩石を放出し、大きな空洞のできたケイオスの背中から現れた螺旋の槍。それが、まるで死神が持つ断頭の鎌を喉首に突きつけられたかのようにディールを錯覚させた。
「コ、ココ、コレデ終ワリダ! ギャーッギャッギャッギャッ!」
自らの勝利を確信する黄昏の王の雄叫び。螺旋の槍がディールの胸元を抉らんとしたその時、
(仲間を信じろ。剣を振り下ろすんだ!)
どこから聞こえたのかはわからない。自分の心の叫びにも思えるし、別の誰かのようにも思える。ただ、ディールにとってはそのどちらでも違いはなかった。「仲間を信じる」、この一点において彼は疑うべきではないように思えたのだ。
「終わるのは貴様だ! 闇へ還れっ!」
ディールが叫んだとき、彼らを包み込む景色の明暗が反転した。
頬がひりつくような熱気。夜そのものを燃やし尽くしてしまいそうなほどの灼熱。
ディールの振り下ろした剣の刀身すら見えなくなるほどの炎が周囲の闇ごと螺旋の槍を飲み込んだ。
「リベル、おまえ……」
全員がその光景に目が釘付けになっている中、ジンは赤髪の少女を見た。
それまで目を閉じたままだったリベルがしっかりと杖を握り締め、眼光は眼下の敵へと据えられていた。
その表情は彼が今まで見たこともないほど別人のように大人びていて、赤橙の灯りを受けて美しささえ感じさせた。
リベルは唇を一言二言、まるで何者かと対話しているように動かすと、次には再び静寂を取り戻さんとする夜闇を裂いて力強く叫んだ。
「真紅の名において命ずる! 今ここにその真の姿を現し、太陽の名を以って闇を滅せよ!」
彼女の力ある言葉を受けて、ディールの持つ剣は実に幾年もの眠りから覚めた喜びを表しているかのように輝きを深めた。代わりに炎は次第に剣からケイオスの全身へと燃え移っていき、炎の中から現れた刀身は太陽を象った紋様が描かれていた。
「本当にシギルの剣だったとは……信じられん」
目を細めてジグザールが呟く。
だが、彼が感慨にふけるよりも早く、野獣のような咆哮がジグザールの思考を中断させた。
灼熱の業火に焼かれて苦悶の声を上げるケイオス。全身を包み込む炎はケイオスの身体を作る岩石を徐々に溶す。それでもまだケイオスに致命傷を負わせたわけではない。もしディールがシギルの剣を真に使いこなしていたなら、また、シギルの剣の目覚めがもう少し早かったなら、あるいは今の一撃で終わっていたかもしれない。
全身を焼かれながらケイオスは、大きな目玉をギョロギョロと回した後、ジンらの方向を見定める。