6-6
黄昏の空を思わせるような紫色の毛並み、ちょっとした民家であればまるで泥の塊でも握り潰すように破壊してしまえるほどの巨人。ギョロリとした大きな目玉がおぞましくも悪意に満ちた双眸。それが、針山のような牙が並んだ口元に笑みを貼り付けて俺たちを見下ろす。
「やれやれ、効くわきゃねーけど、こんなもんでも武器を持ってねーと落ち着かねーぜ」
ため息と共にジンが胸元からダガーを取り出す。高く売れると言っていた豪華な装飾が施されたダガーだ。もちろん彼としては後で売ってしまおうと思っていたのだろうが、さすがにこの状況にあって、武器として使うのがもったいないなどと言ってはいられないだろう。
「あのでかいのは、さっきまで声が聞こえていた魔法使いたちなのか……?」
見上げて呟く。
しわがれた老人のような声、甲高い女性の声、そして少しの間だけ俺たちの前に姿を現していた色黒の男。紫色の巨人から聞こえた声は、そのどれにも似ていて混じりあっているようだった。
「きっとそうなんでしょうね。人を幸せにしたり助けたりするために魔法使いになったはずなのに、どうして他人を苦しめたりするのよ。あんなの間違ってるわ」
リベルの握り締めた杖が悔しさで、ふるふると震えている。彼女にしてみれば、自分よりもはるかに優れた技量を持つ魔法使いたちが揃って街を襲うということが信じられないのだろう。そして、そんな者たちが闇に身を捧げてしまったということも。
「闇は私たちが思っているよりもすぐ近くに潜んでいるのだ。より強い力を持つ者ならば、なおさら己を律することができねばならぬのだがな……」
そう言って押し黙ったジグザールは、紫色の巨人を睨みつける。その間にも紫色の巨人は崩れかけの民家の屋根をまるでそこにあるのが邪魔だと言わんばかりに握り潰して捨てる。
「んで? どうするよ。ジグザールのとっつあんはもうヘットヘトに疲れちまって魔法が使えねーんだろ? そんじゃーリベルに頼らざるをえねぇってことになるけど、もういっちょ魔法をぶっぱなす余裕はあんのかよ?」
「その呼び方はよさんか!」
この状況でも人をおちょくることを忘れないジンに肩をすくめつつ、俺はリベルを見た。リベルは少し考えた様子だったが、すぐに決意を瞳に宿した顔を上げて、
「やってみるわ。あまり自信はないけど、なにもしないでやられちゃうよりはずっとマシだものね」
杖を胸の前で握り直して頷く。
そうだ、なにもしないで脅えているだけで道が拓けるはずがない。言葉を変えれば、何かを成すためには失敗を恐れずにあえて立ち向かう勇気が必要なんだ。決意を秘めたリベルのまなざしに、俺は自分の中で芽生えたなにかにそっと手を添えた。
「よっしゃ、レミは武器もねーし、なんだったらあのおっかねーやつが魔法でも使いそうになったら大声で叫んでくれや。そんで俺らは」
「僕とジンさんとディールさんで、リベルさんが魔法を使うまでの時間稼ぎですね」
「そゆこと」
「モンスターじゃ、なくても、きっと魔法以外にも、弱点は、あるはず。探してみる、よ」
「そうしてくれりゃ助かるぜ。おっと、そろそろやっこさんも調子が出てきたみたいだぜ。腕をぶんぶん回してらぁ。あの調子で1本くらい腕がもげる勢いでぶん回せばいいのによ」
「私も魔力が回復し次第、援護しよう」
「助かります! ジグザールさん」
「期待しねーで待ってら」
「ちょっと! 集中するんだから黙ってなさいっ、ばかジン! いい加減に少しは成長してよね!」
リベルが眉を吊り上げて怒鳴ると、ジンは「へいへい、んじゃちょっくら逃げまわってくっか」、わざとおどけたふりをしながら肩を回して、ダガーをひとつ素振りする。
軽口がつい口をついて出てしまうのは、恐怖を紛らわすためでもあるのだろう。彼もわかっているのだ、いくらリベルの魔法があるとは言っても、さきほどの漆黒のワイバーンのように簡単に倒せる相手ではないだろうということが。
なにせ、リベルの魔法と俺たちが力を合わせてようやく倒すことのできた漆黒のワイバーンや、ジグザールを魔力の尽きるまでに疲弊させ、レミの杖の秘められた力でなんとか倒すことができた毒の炎を吐く大蛇ですら、やつらの様子からすると下っ端の扱いらしいのだ。だが、リベルもまだ、そう何度も魔法を使えるほど魔法の扱いには慣れてはいないし、レミの杖だって失われてしまった。ジグザールだって魔力がそんな簡単に回復するかどうかは俺たちにはわからない。
そして今度こそはやつらも本腰を入れて俺たちを打ちのめしにやってくる。それもすでにわかっているだけでも3人以上の強い力を持つ魔法使いたちの成れの果てというか、きっとあれが闇の力を存分に奮うことのできる姿なのではないだろうか。そう思わせるような恐るべき変身を遂げたのが、今まさに俺たちの目の前にいる紫色の巨人だということだ。
そして俺も知っている。今から俺が試みようとしていることは、きっと無謀なことなのだろうと。だけど、きっと無駄ではないと思う。
人は時にそれを愚かな行為だと笑うかもしれない。失敗に終わってしまえば、責められるかもしれない。無理に決まっているのだから、やるだけ無駄だと。それでも俺は試してみたい。
人はきっと、どんなに姿が変わり果ててしまっても、たとえ闇に堕ちてしまったとしても、ほんの1パーセントでも心のどこかに大切なものが残っているのだと。
誰か1人くらいは最後まで信じてみてもいいではないか。
「どんな姿になったって、あれが人間であることには変わりはないんだ」
ブロードソードを鞘に納めて前に出る。
今までは、ただ自分たちの身を守ること、ブュッフェの街や街の人たちを救おうとするだけで精一杯だった。今この瞬間だってそのことには変わりはない。だけど、ただただ恐れるばかりで姿の見えなかった"闇に憑かれた者" だって、俺たちの前に現した姿は人間のものではなかったか。あんな姿になったって、元は俺たちと同じ人間だったのだ。
"闇に憑かれた者"の一部だったダーレスという男は、俺たちの目の前で砂のように崩れて消えていった。たとえそれが闇に手を染めた代償だとしたって、あんな紫色の巨人になった姿が自ら人間であることを捨てた代償だとしても、ダーレスのように人間であったことの証さえ残らずに消えていくだなんて、そんな悲しいことがあるだろうか。
「ディールさんっ、ど、どうしたんですか?!」
背中に焦るクラッセの声を受けても、俺は踏み出す歩みを止めはしない。
「おまえっ、剣もしまっちゃって、なにするつもりなんだよ!」
「こんなこと、もうやめるように説得する」
振り返らずに俺は答えた。
「はぁっ?! ば、ばか、おまえの言うことを聞くようなやつなら最初からこんなことしねーって! だいたいあのバケモンは街の人間をたくさん殺したんだぞ!」
「そうですよ! そんな無防備に近づいたら殺されちゃいます、ディールさん!」
「そうなったらそうなったで、かまわないさ。それに闇の力に操られているのかもしれない。だから呼びかけてみることで正気を取り戻させることができれば……。俺は彼らに人間の心が残っていると信じてみたい」