6-2
ジグザールが呪文を唱え始める。
闇がさらに膨れた。
白目が膨れ上がる闇に飲まれて消える。狭い路地に収まりきらないほど膨れ上がった闇は、やがて異形へと姿を変えていった。
闇の塊から左右に1本ずつ、新たに闇が伸びた。それは大きく広がり翼のような形状へと変えると、ひとつ羽ばたきをする。顔にあたる部分から胴体と思える部分までがでっぷりと太ったような形になると、顔の部分が上下に裂けて牙を剥き出して咆哮をあげた。
俺たちを見下ろすように翼を羽ばたかせているそのシルエットは一見するとドラゴンにも見える。しかし腕がない代わりに翼の生えたその姿は、ドラゴンの中でも知能は低いが郡を抜いた狂暴さで知られ、ワイバーンと呼ばれる翼竜のようだった。熟練の冒険者でも倒すのは至難とされるワイバーン。本物のワイバーンと違うのは、それが"闇に憑かれた者"が生み出した闇の塊でできているということだ。ワイバーンの狂暴さに加え、散々俺たちを苦しめた魔法までも使ってこられたとしたら、本物以上にやっかいな相手に違いない。
「おめぇの剣でもあれを叩っ斬るのは難しいんじゃねぇか?」
ジンが引きつった笑みを浮かべる。
「やってみなきゃわからないさ」
そう言いながらもさすがに自信はない。
「じ、ジグザールさんが呪文を唱え終わるまでの辛抱ですよ!」
自分を奮い立たせるように声を張り上げるクラッセ。その手に持つショートソードの剣先が小刻みに揺れている。
「へいへい、なんとかやってみやしょーかね。つっても俺にできるこたぁ、さすがにねーな」
一応はダガーを両手に構えながらもジンが後ろに下がる。
「リベルたちに近づけさせるな! 俺がどうにかして引きつけるから2人は援護を頼むぞ!」
「わかりました!」
「あいよ」
掛け声に2人が返事をする。俺は走り出した。
と、漆黒のワイバーンが、ぶわっ、と羽ばたいた。
その動きは予想以上に早かった。俺がワイバーンへと走り出すのと同時に、口を大きく開いて突進してきたのだ。俺は反応しきれずにブロードソードで受けるのが精一杯だった。
「うおおぉぉぉっ、ジン! クラッセ! 俺から離れるんだ!」
かろうじてブロードソードをつっかえ棒のようにしてしのぐが、俺はワイバーンの口に挟まれたまま体ごと持ち上げられた。一瞬のうちにリベルやジグザールの位置から遠ざかっていく。ジンとクラッセが走ってくるのが見えた。
「ディールさんっ、今助けます!」
「む、無理だ! 逃げろクラッセ!」
しかしクラッセは俺の制止を振り切ってショートソードを振り上げる。
「坊主! あぶねぇ!」
ジンの声に、クラッセのワイバーンを見上げる顔が信じられないものを見るような顔になった。ワイバーンの胴体からいきなり腕が生えてきたのだ。その腕は正確にクラッセを捉え、彼を地面へと叩きつける。
「世話のかかる坊主だ……ぜっ!」
ジンがダガーを投げつけるのが見えた。宝物庫から持ってきたダガーのうちの1本だ。ジンはレミの杖と同じような、なんらかの効果を期待していたのだろうが、
「なんだよ! 俺のダガーには魔法とかかけられてねーのかよ!」
ワイバーンの腕へと真っ直ぐ放られたダガーは、俺たちの期待とは裏腹に闇に吸い込まれるようにして消えていく。
ジンは「ちくしょう!」、もう1本のダガーも投げつけるが同じように闇に消えていくのを見て、成す術なくワイバーンを見上げる。
「ディール……!」
遠くからレミが叫びが聞こえた。俺は視線を目の前へ戻す。
(うっ……ま、まずい!)
ワイバーンの口の奥で闇が渦巻いていた。
全身の汗が引く。どんな攻撃なのかはわからない。だが、これをくらったらとてもまともではいられない、体が直感的にそう感じ取って硬直するのがわかった。
なんとか逃れようともがく。しかし、俺を咬みちぎろうとせんばかりのワイバーンの口をつっかえ棒代わりにして押さえているブロードソードをたとえ手放したとしても逃れられそうにない。ワイバーンの周囲の闇が、まるで獲物を捕らえる蜘蛛の巣の糸のように俺にまとわりついているようなのだ。
「ディ、ディールさん……!」
「ディール! くそっ、ディールを離しやがれこのイビル野郎!」
闇が渦の中心に収束する。もはや逃れることはできないように思えた。ブロードソードの柄を握る手の平から力が抜ける。
『もう諦めるのか?』
誰かが耳元で囁いた気がした。
『おまえはモンスターに襲われ、それがおまえの手に余るモンスターだったとき、勝ち目がないからといって諦めるのか? 村にはまだおまえが守りたいと思う人たちがいるのではないのか?』
亡き父の声だった。走馬灯のように昔の光景が浮かぶ。あれは剣の稽古をつけてもらっているときのことだった。コテンパンに叩きのめされ剣を放り出そうとする俺に言った父の言葉が蘇る。
『いつかきっと私も他の大人たちもいなくなる。そのとき、守りたい人たちを守ることができるのは、いつだって最後まで諦めない者だけなのだぞ。剣を手に取れ、最後まで踏ん張ってみせろ! おまえが諦めてしまって、誰が大切な人を守るというんだ!』
知らずに俺は瞼を閉じていた。時間が止まったかのように眼前の闇も動きを止めていた。
『ディール! 腹に力を込めて剣を手に取れ! おまえの仲間たちを守ることができるのは常に自分だけなのだと思え!』
指先で柄の感触を確かめると、ブロードソードはほんのりと熱を帯びていた。柄を握り締めると、まだ腕にも力が入った。
そうだ、ここが俺の人生の終着点ではないはずだ。俺にはまだ守りたい仲間たちがいる。ジンもリベルもクラッセもレミも、あの兵士の青年もジグザールもブュッフェの街の人たちだって、まだ死にたくないはずだ。
時代の節目に現れるという"闇に憑かれた者"をここで倒すことができなければ、もっと多くの人たちが命を落とすかもしれない。
父の言葉を思い出す。
『おまえの仲間たちを守ることができるのは常に自分だけだと思え!』
この言葉の意味を小さかったあの頃の自分ではわからなかった。だけど今ならわかる。いつだって父や村の大人たちは、村を襲うモンスターから命がけで自分の大切なものを守ってきたんだ。それは決して誰かが守ってくれるのではない、大切なものを守りたいのなら自分自身が立ち上がらなければならないのだと、人に頼るばかりでは守ることができないのだと、そう教えてくれていたのだ。
俺は知らず知らずのうちに、この魔法がかかった剣の威力、リベルやジグザールの魔法に頼っていたのではないか? それ自体は悪いことではないのだと思う。手と手を取り合わなければ乗り越えられないことだってたくさんあるはずだ。そうしたときに仲間がいてくれるのはとても心強い。だけど、助け合うのと、助けをあてにして頼り切るのとでは全く違う。いつだって自分自身が最後まで諦めずに全力を尽くすからこそ、仲間たちだってそれに応えてくれるんだ。俺は仲間たちを守りたい。だからこそ今だけは最後の瞬間まで諦めてはいけないんだ!
ギュッと柄を握り締める。カッと閉じていた目を見開く。止まっていた時間が動き出した。
「こんなところで……諦めてたまるかぁぁぁ!」
手の平が熱い。ブロードソードの刀身がうっすらと赤みを帯びているのが見えた。その時、
「大いなる大地神よ、その深緑と生命の輝きを以って不浄なる闇を打ち滅ぼせぇぃ!」
ジグザールの叫びがこだまする。
その叫びに呼応するように左右から緑色の光が幾本も地を裂いて立ち昇る。立ち昇った緑色の光はまるで蔦のようにたちまち漆黒のワイバーンに巻き付くと、それを縛り上げた。
「私にできるのはここまでだ! あとは頼む……ぞ」
息粗くジグザールが地面に膝をつくのが見えた。
ワイバーンの巨体が緑色の光に締め付けられて歪む。クラッセを押さえつける腕がちぎれて消えていった。それでも口の中で渦巻く闇はさらに収束し消えることはない。
「今だっ、ディール!」
わずかにワイバーンの口元が緩むのを見逃さなかったジンが叫ぶ。俺は思いっきり右腕に力を込めた。
ブロードソードがワイバーンの口をまとわりつく闇ごと斬り裂く。体が解放されて宙に投げ出される。その瞬間、渦巻いていた闇が一気に放出された。
「ぐぅあああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
左半身にひりつくような痛みが走る。直撃は免れたものの、漆黒のワイバーンが吐き出した漆黒のブレスは宙に投げ出された格好で避けることはできなかった。
すぐに重力の手に引かれ、俺はそのまま地面へと全身を強く打ち付けた。鈍痛に顔が歪む。
「ま、まるで効いてませんよ!」
ワイバーンの腕から逃れることのできたクラッセが痛みを堪えた表情で叫ぶ。クラッセの言うように、ワイバーンは緑色の光を打ち破り、一層大きく翼を羽ばたかせていた。
「いや……ダメージは確かにある! 見るんだ、向こうの景色が透けて見えてる!」
俺はなんとか上体だけ起き上がって指をさす。翼を羽ばたかせる勢いを増すワイバーンだが、先ほどまでの奈落の底を思わせるような漆黒の巨体は、それを維持できないのかうっすらと透けて向こう側が見えるほどになっていた。
「お、おいディール! 大丈夫なのかよ……げっ! 腕が焦げているみてぇに真っ黒だぜ!」
駆け寄ってきたジンに言われて左腕を見たとたんに眩暈がした。続けて激痛がやってくる。あまりの痛みに気を失ってしまいそうになるが、ここで気を失うわけにはいかない。ワイバーンをまだ倒せたわけではないのだ。
「逃げてくださいディールさん、ジンさん!」
ワイバーンがさらに大きく口を広げる。「や、やべぇ!」、ジンは慌てて俺を背に担ごうとするが、ワイバーンの動きが早い!
「間に合わない……ジンだけでも逃げろ」
痛みを堪えながらなんとか声を絞り出す。
「ばかやろう、そんなわけにいくかよ!」
ジンが怒鳴る。
「や、やめろぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
クラッセの悲鳴が遠くに聞こえる。目の前が真っ暗になった。漆黒のワイバーンの影が俺とジンに覆いかぶさるほど近づいた。
(誰でもいい……俺に仲間を守る力を貸してくれ!)
俺は心の中で叫んだ。
その時、力強い声が聞こえた。それは俺の心の叫びと重なるようにして、まだ明けぬ夜を高らかに照らす光となった。
星も見えないほどの闇夜の空に青白い光を放つ満月があった。いや、満月に見えるそれは似て非なる光の球体だった。
漆黒のワイバーンが俺とジンに覆いかぶさったまま固まる。ワイバーンの巨体に光が降り注ぎ、砂山の砂が風にさらわれていくように少しずつ闇の塊が崩れていく。
「み、見ろよ。腕が……」
迫るワイバーンに、2人して倒れ込んでいた俺とジンだったが、ジンに言われて腕を見ると、焦げたように真っ黒になっていた左腕からは少しずつ黒色が引いていくのがわかった。しびれはまだ残っているが、黒色が引くのと同じで痛みも和らいでいく。
「リベルの魔法、か?」
呟いてふと手元を見ると、ブロードソードの刀身がまたもほんのり赤い光を帯びていた。
「おめ……その剣、どうしたってんだ?」
赤い光を帯びるブロードソードに気付いたジンが息を飲む。
「わからない。さっきからやけに熱いんだ」
ジンに答えて再び刀身の光に目をやるのと同時にリベルの声が聞こえた。
「聖なる月よ! 蒼き清浄なる杯を受けて滅びなさい、闇!」
リベルの言葉に応えるように青白い満月からは青白い光の雫が溢れ、滴り落ちる雫が闇を溶かしていく。
漆黒のワイバーンが軋んだ悲鳴を上げる。俺たちはその光景をただただ見ていた。