3-6
まぁ、目の前の老婆からすれば俺たちなど子供同然だろう。
俺は促されるままに部屋の中へ入る。すると老婆は指をパチンと鳴らした。
するとどうだ、部屋の中には老婆とジンが座っている他に椅子はなかったのだが、いきなり何もないところから椅子が3つ現れたではないか。
さらに長椅子までも現れると、老婆は「そのお嬢ちゃんを寝かしておやり」と言った。
「あ、ありがとうございます」
俺は恐縮しながらリベルをそこに寝かせる。
「便利、なものだね。魔法、って」
レミがポツリと漏らす。それは俺も大いに頷くところだ。
こんなに便利なことができるなんて、リベルもいずれこんな魔法が使えるようになるのだろうか。
「魔法なんてものじゃないよ。これはあたしが魔法を使ったわけじゃないからねぇ。なんとも大それた遺産さ」
気のない様子で老婆が言った。
「遺産、ですか」
クラッセが、よくわからない、といった表情になる。
俺にしても魔法というもの自体すらどういうものなのかわからないのだから、なんとも言いようがない。
呪文を唱えると炎や竜巻を生み出すことができるのだと聞いたことがあるが、なにぶん俺は誰かが魔法を使っているところを見たことがない。
そんな俺とクラッセにとっては、今のが魔法ではなく遺産と言われても、目の前に椅子が突然現れるなんてことは魔法としか思えないのだ。
「遺産でもなんでもいーからよ、ばあさん、とっととリベルを診てやってくんねーか? 今にもおっちんじまいそーでまいってんだ俺ら。ばあさんならなんとかできんだろ? このチビスケがそう言ってっからきたんだよ」
リンリンを見てジンが言った。
すると老婆はジンを見て口の端を上げる。
「口の聞き方を知らない坊やだねぇ。ヒキガエルになりたいっていうのはあんただね?」
「えっ?」
思いもよらないことを言われてジンは組んでいた足を下ろす。
それもそうだ、ヒキガエルにされる、だなんてジンが言ったのをリンリンが教えたのかと思ったが、リンリンにはそんな素振りなんてなかったからだ。
「冗談だよ。ヒキガエルにはしないけどね、あんたには少しばかり付き合ってもらおうかねぇ。ま、お嬢ちゃんのためさ、あんたみたいな坊やが適任でねぇ」
俺はこの老婆が何を言っているのかわからなかった。わからなかったが、ジンになんらかの災難が降りかかるだろうことは、老婆の不気味な笑みを見ていれば誰の目にも明らかだ。
「ど、どーゆーことだよ!」
身の危険を感じてジンが立ち上がる。
老婆はぶつぶつと呪文を唱えたかと思うとリベルの体がうっすらと光った。
「リンリン、先導しておやり。魔法陣の部屋までだよ」
「えっ、なになに?!」
楽しそうにリンリンが部屋中を飛び回る。
「ちょっ、なんだそりゃ! おい、待てって!」
驚いて後ずさるジンの前に現れたものに、俺たちも目を見開いた。
これこそが本物の魔法というものなのか。
老婆がさらに呪文を唱えると、リベルの全身が赤みを帯び始めた。
赤みを帯びた光がだんだん炎のように揺らめき始めるたかと思うと、それは思いもよらない姿へと変貌を遂げていった。
真っ赤なドラゴン!
それはまさにドラゴンの形をしていた。
リベルの全身を纏っていた炎のような光が収束すると、一気に紅蓮の炎となりみるみるうちに真紅に染まるドラゴンの姿を模り始めた。
「これってドラゴン……ですよね?!」
腰が抜けたようにへなへなと座り込んでクラッセが言った。
「あ、ああ。これが魔法の力なのか……?」
狭い部屋いっぱいに長い尾を揺らすドラゴンに圧倒されて、俺も言葉を失った。
どう見ても生きた本物のドラゴンではないようだが、実在するとしたらこんな感じなのだろうか。
しかし、こんな魔法を使えるこの老婆は一体何者なのか。
真っ赤なドラゴンが老婆の前で宙からジンを見下ろす。
「さぁ、逃げるんだよ坊や」
老婆はいつの間にか杖を持っており、その杖がジンの方へ向けられると、ドラゴンはジンへと大きく口を広げた。
「ジン!」
俺は思わずジンの身を案じて叫んだ。
「なんで俺なんだよぉ!」
椅子を倒したジンが背を向けて走り出す。
「早く逃げてください、ジンさん!」
「言われなくてもわかってるっつーの!」
「こっちこっち〜」
リンリンが手招きをする。
ドラゴンに追いかけられ、足を滑らしそうになりながらもジンが扉から飛び出す。
リンリンの足元でさっきのロウソクたちが道を照らし、走るジン、次いでドラゴンが飛んでいく後を俺たちも追いかける。
魔法陣のある広間に辿りつくと、ジンが悲鳴を上げながら走り、ドラゴンがその後を追ってぐるぐると広間を追いかけっこしていた。
「一体どうなっているんだ?」
誰にともなく俺は呟く。
「それに……」
「なにか変なこともあったんですか?」
俺の呟きにクラッセが気付いて言った。
「いや、リベルの体が光っていたこととなにか関係があるのか、ってさ」
そういえばあの老婆はリベルのためだと言った。
リベルの具合が悪くなったことと、目の前で繰り広げられているジンの災難とはどんな関係があるのか。
ただの風邪ではないとは思っていたが、俺の理解の範疇を越えることばかりが起きる。
冒険者とは皆こんな不思議な体験ばかりしているのだろうか。
「そういえばリベルさんはメイジでしたっけ。魔力があることとなにか関係があるのかもしれませんね」
神妙な顔つきでクラッセが言った。
「あれ? そういえばレミは?」
黒いローブ姿が見当たらないことに気付いてクラッセに聞く。
「え? 一緒にこなかったんでしょうか?」
クラッセと顔を見合わせていると、頭の中に声が響いた。
『その坊やは平気さ。別に取って食われるわけじゃないよ。説明するから戻っておいで』
老婆の声だった。
『この声はあんたたちにしか聞こえないよ。あのドラゴンは一見、炎でできているように見えるけどね、触れても燃やされるなんてことはないんだよ。さっきも近くにいても熱くなかったろう?』
老婆の声に俺は思い出す。
確かに驚きの方が先行していて気が付かなかったが、あれだけの炎なのに熱気が一切感じられなかった。
そうなると、今はパニックに陥っているジンも追いかけられているうちにいずれ気が付くかもしれない。
「よくわからないが戻ろう。どうやら悪い人ではなさそうだ」
俺が言うと、
「そうですね。ジンさんには気の毒ですけど、たまにはいいんじゃないですかね、少しくらいお灸を据えられても」
クラッセは淡々ときついことを言う。
初めて出会った時と比べると随分あかぬけてきたようだ。
俺は苦笑しながら頷く。
「早くバァバのとこにもどろっ」
ジンが逃げ回る様子を楽しげに眺めていたリンリンが広間から扉をくぐって廊下へと入る。
俺とクラッセも後に続くと、扉がバタンッと閉まった。
「てっ、てめーら、覚えてろよー!」
ジンの情けない叫び声が扉の向こうから聞こえた。
部屋に戻るとティーカップ片手にちょこんと椅子に座るレミがいた。
「遅い、よ」
レミは小さく手を上げる。
「紅茶をごちそうになってたのか」
俺とクラッセも椅子に腰をかける。
あんな状況でこれほど冷静でいられるレミは案外シーフに向いているのかもしれない。
シーフはどんな時でも落ち着いて周囲を見渡せるようでなければならないそうだ。
とはいえジンが不向きというわけではないとは思う。
いきなり炎のドラゴンに追いかけられたとあっては、彼が取り乱してしまうも無理からぬことだろう。
「紅茶でも飲んで落ち着いたら話をしようかねぇ」
老婆に言われてティーカップを見る。
湯気が立っている。
「あ、いただきます」
クラッセがカップを手に取る。俺もカップを口の前に運ぶ。
(いい香りだ)
気が休まるような優しい香りが俺の鼻をくすぐる。
口をつけてひと飲みする。俺たちが最初にこの部屋へ訪れてから、炎のドラゴンと共にジンを追いかけたりしてだいぶ時間をくったはずだったが、まるで煎れたてのように紅茶は熱かった。
「これも魔法、ですか?」
思い切って聞いてみると、
「そうだねぇ、魔法でできたカップでね、煎れた飲み物の熱が逃げないようにする永続魔法がかかっているのさ。まず市場ではお目にかかれない品物だろうね。あたしだってこんな魔法をどうやればできるのかさっぱりだしねぇ。魔力をひとつの場所に留めるというのは本来あってはならないことなのだからね」
老婆はまるで人事のように語った。
俺はそれがどういう意味なのか聞こうかと少しだけ考えたが、魔法に疎い俺が聞いてもさっぱりだし、まずはリベルのことを聞いておく方がいいだろう。
そう思い紅茶を飲み干すと、俺が聞くより前に老婆が口を開いた。
「あたしの自己紹介がまだだったね。あたしはゼンさ。ゼンばあさんとでも呼んどくれ。見ての通り、森の奥で細々と暮らしているだけの年寄りさ。ただ、魔法は少しだけかじっていたことがあってね、俗世との関わりを断ってからあんたたちのような若者に会うのも久しいことだし、力になってやらんこともないね」
俺たちは簡単なおつかいの依頼を受けただけのはずだった。
だが意に反して俺たちに降りかかる非日常的な数々の出来事。
妖精に出会い、ゼンと名乗る魔法使いの老婆に出会い、いつしか俺たちは大きなうねりの中に巻き込まれていようとは、この時は思いもよらなかった。