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四卿伝  作者: 風見 新
序章  始まり
1/43

プロローグ




「はあ、はあ・・・」


 暗く深い森の中をただ一人でひた走る。


「はあ、はあ、はあ…」


ガサガサと地面に落ちている枝葉を無造作に踏みしめながら、ただひたすらに

足を進める。


美しい金色であったろう長い髪の毛は今や枯葉と泥で汚れまみれとなり見る影がない。

また処女雪のようにきめ細かい繊細な肌には至る所に擦り傷や打撲が目立ち見るも無残な有様となっている。


そんな今の彼女には、一国の姫だったという面影は微塵もなかった。

 

 額を一筋の血が流れる。

 王宮に居る時はほとんど外出をせず、室内に籠りっぱなしの彼女は流血をするどころか、全力で走った事すらもないに等しい。

 

ドクンッ ドクンッ


激しい胸の鼓動とガクガクと震えが止まらない足。

そしてこれまでに経験したことないような疲労感が必死の行軍を妨げようとする。

 

 それでも足を止めることはしない、いや出来ないというのが正しかった。

今ここで少しでも足を止めてしまえば、それだけで背後から迫ってくる追手に捕まって首を斬られるかもしれない、そんな恐怖で身がすくんでしまうからだ。それが幸か不幸か背中を押して体を無意識に動かしていた。


 森の中は月の光が全く刺さず、まさに深淵というに相応しい暗寂で支配されている。また動物の嘶きや虫の声も聞こえてくる事無く、その静寂が恐怖感を一層に引き立てていた。


 どこからか遠くの方で剣を打ち付け合う鉄の音が木霊する。

今も自分を逃がすために臣下の兵が戦っているのだろう。

その別れ際の最後の不意に思い出され、怯える心に一筋の勇気を与えた。


(そうだ、自分はまだ死ねないのだ!)


 恐怖に呑まれそうになる自分の心情に無理やりにでも激を飛ばして足を止めないようにする。

命を賭けて此処までついてきてくれた若き兵士に老成した兵士。誰もかれもが皆良い臣下達だった。

人懐っこい笑顔で空気を和ませる護衛隊のハンス。穏やかな振る舞いで時には若き兵士たちを諌めるジデロバ、そして護衛隊の中で父親のような存在で宮殿にいる頃からの知り合いだった護衛長のマードック。

ここまでの逃避行の中で彼らとは必然的に言葉を交わすことが多くなった。

その人となりや家族の事や故郷の事。今まで知ることのなかった多くの事を知ることになった。

それ故に、今こうして彼らを囮にして逃げる自分が不甲斐なくなる。


ここまで敵の苛烈な追撃を受け、多くの護衛達が命を落とした。

ついさっきも隊の中で最も若かった青年兵士とその友人だという兵士の二人分の若き命が自分を逃がすために犠牲になったのだ。

自分が守られるべき立場にいるとは言え、こうして長年信頼してきた家臣を見捨て一人だけが逃げ去るのは途方もなく心が痛む。 

 人一倍、愛情深い彼女であればなおのことだった。


 しかし、それでも彼女は逃げなければならない。

たとえ自分のために若き護衛が命を落とそうと……

たとえその度に自責の念に押しつぶされそうになっても……

そして後ろを追う敵の恐怖に怯えつづけようとも……


 彼女が一国の皇女であるという事実に比べれば些末なことでしかなかった。


 「はあ…はあ…」

 この森に入って早三日。

 いくら走っても一向に切れ間は見えてこない。

執拗な敵の追手から逃れるためとは言え、この人の手の全く及んでいない森はまるで人の行く手を阻むかのように生い茂る。

古くから神聖で不可侵とされていたその森の名は『神淵の森』。

 高い魔力と瘴気が充満し人はおろか動物すらも碌にいない。

 いるのはただ魔力を喰らい瘴気で息をする悪しき伝説の生き物である『魔獣』だけ。

 しかしそんな森だからこそ、彼女はここまで生き延びられたのかもしれない。

険しい森の中はそれだけに身を隠す場所も多く、月夜すら差し込まないほど陰惨している。そのおかげで逃げ惑う亡国の姫君は何度もその命を拾うことが出来た。

 それも一重にここに逃げ込もうと提案した衛士長のマードックの作戦によるものだろう。


 彼に対し深い敬意を抱くと共に、もう一つ彼の最後の言葉を思い出す。

それは森に入って三日目の夕刻の事。

 かつて二十はいた衛兵団はここにきて既にその数を片手に数えるほどにし、誰もが疲弊しきっていた。当の彼女自身、敵に捕まってなぶり殺しに合うくらいならばと、いよいよ覚悟を決めようとしてちょうどその時、マードックは切り出した。

「姫様、このたびはここに至るまで数々のご無礼をお許しください。本来ならばその罪、姫様の親衛隊長である私がこの命に代えて償うはずなのですが、残念ながら今はそれが叶いませぬ。」

 違う、彼女が聞きたいのはそんなことではない。何か言い返してやろうと口を開こうとするが、それを遮るようにして彼は続けた。

 「今まで、畏れ多くもこのような事はとても口には出来ませんでしたが、我々親衛隊一同は姫様のお傍に最後までこうして立てたこと本当に誇りに思っています。

それは私が皇国軍の一員であることは別に一人のカーマイル皇国の国民としてであります。だから、一国民として言わせてもらいます。」


 どうか生き延びてください。

 

そう言って護衛長は強く皇女の目を見つめた。

 「この先をもう少し行けば森が途切れ山の麓に着きます。そこまで行けばなんとか逃げ果せることが出来るはずです。ですから、どうかそこまでお逃げください。私達はここで姫様のご生還の最後の御一助をさせて頂きます。」

 その言葉を最後に皇女は遂に一人になった。


 そこから先はあまり記憶がハッキリしていない。

 歩き慣れない山道を無我夢中で走り続けた。

着ていたドレスの端々は破け、履いていた靴の底も外れ今では裸足同然だ。

 まるで裏町に住む孤児のような出で立ちに、限界まで擦り切れボロボロになった心身。そうまでしても皇女は走る。

母国が滅びた今、たった一人だけ皇族として残った彼女がその命を落とせば真なる意味で母国は亡国となるからだ。

 だから皇女は走り続けた。

走って走って走り抜いた。


 「はぁ……はあ、はあ……」


 どれくらいそうしていただろうか、不意に林立する木々の隙間から僅かに光が覗き見えた。

 暗闇の中で一点だけ輝く光。

皇女は夜光に惹かれる羽虫のようにユラユラと足を向ける。もはや彼女にとってその光が何であろうとも関係なかった。ただこの暗い森の中に差し込むその光は彼女にとっても、そして今は亡き祖国にとっても最後の希望の光であることは確かだった。

 光が近くなるにつれ早くなる足取り、そして逸る気持ち。光は徐々に大きく、数も多くなっていく。周りの木の密度も見るからに小さくなっていき、この森の終わりを暗示していた。

 そしてついに完全に森が途切れ視界が開けた。

 皇女は足を止め、目の前の光景を凝視する。

 「う・・そ・・・」

そして足の力が抜け落ち、がっくりと地に膝をついた。

見えた景色はそれほどまでに絶望的だった。


 雪のように白い岩肌に天然に出来上がった物とは思えないほど凹凸がない岩壁、そして何よりも目を引くのはその大きさだ。

 高さは自分の身長の優に十倍、壁の長さに限っては皆目見当もつかない、少なくとも見える範囲でこの岩壁を抜けられるような隙間はない。岸壁は来る者全てを拒むように立ち塞がっていた。

 そんな光景に愕然としながら護衛長の言葉を思い出す。

 (もう少し行けば森が途切れ山の麓に着きます。そこまで行けばなんとか逃げ果せることが出来るはずです)

 何度も頭の中で復唱し、今見ている光景と照らし合わせる。

 確かに森はここで途切れ、目指していた山も壁の向こうに頂きを覗かしている。

だから一応は条件を揃えているためここが山の麓であること間違いないだろう。

 しかしこんな壁があるとは全く聞いていない。


 そこで公明な彼女はここで一つのことに気が付いた。

 (出来るはずです……)

 重要な逃亡方法を告げるにはえらくあやふやな表現ではないだろうか。まるで誰からか聞いてきたかのような、そんな物言い。

 そこまで考えていると、唐突に背後の草村から音がする。皇女は咄嗟に近くの木の裏に隠れ身を潜めた。


 ガサガサ・・ガサガサ・・


敵の追手か、それとも生きていた護衛達か、もう一つの可能性が頭裏に過ぎった時、それは姿を現した。


「~~~、~~~~~~、~~」


 その唸り声は皇都へ向かう時によく聞く馬の嘶きでも、ましてや荷運びに使われる牛の鳴き声でもない。

 今よりもさらに幼かった頃に一度だけ入ることを許された国立図書館の動物図鑑で見た獅子という動物と、たまに宮殿に招かれる吟遊詩人の歌に出てきた狡猾な狼に特徴が似ている。どちらも姿形はほとんど知らないが、ただ今見ている獣ほど恐ろしくはないだろうと宮女は確信した。

 禍々しい出で立ち、鼻を塞ぎたくなるような獣臭、そして全身から発せられるおどろおどろしいまでの迫力。

紛れもなく今目の前にいるのが『魔獣』だ。皇女はそう確信した。

 魔獣は首を右に左に振ってなにかを探しているような素振りを見せる。

 彼女にはそれが探しているのが自分だとすぐに理解し、下手に動かず口をしっかり手で閉ざし呼吸音すらも漏らさないように心がけた。


魔獣はゆっくりと草をかき分け周囲を物色する。


ガサガサ・・ガサガサ・・


 額にじんわり汗を掻きながら、恐怖で声が漏れないように必死で心を落ち着かせる。口元からは粘着質な唾液がこぼれ、その奥には灰色の獰猛な牙、細長い両足の先には自分の持っている短剣程の鋭い爪。

 そんな凶暴な武器を備えた魔獣は近くの草に顔を近付けては、クンクンと鼻をならす。まるで犬のように何度も草木に顔を寄せては鼻を鳴らす。そして時折顔をあげて人がするように首をひねる.。

 どうやらさほど鼻はよくないらしい、だがその分だけ行動力があった。

成長した牛程の巨躯を持つ魔獣はずんずんと重い体を揺らし、あちこちを物色する。

そしてついに魔獣がこちらに向かってきた。

 正面から真っ直ぐこちらに歩み寄る魔獣は吸い寄せられるように皇女の潜む草村を目指している。それはもう、どうしようもないほど正確に彼女の命運を暗示していた。

 ここにきて一番の窮地に皇女を張り裂けそうな程の無念と諦念が襲う。

 自分はこんなにも簡単に捕えられてしまうのか。何もできず死んでしまうのだろうか。咄嗟に今までに命を落としていった臣下達の顔を思い出す。

誰も彼も別れる時は自分に負担をかけないようにと笑顔を作って去っていた。そんな彼らに自分は何も報いることが出来ないのだろうか。

……そんなはずはない!

自分の立たされている立場と命を落とした家族のことを思い出し、皇女は最後の勇気を振り絞った。

目元に迫る涙をこらえ、未だ混乱する脳内で彼女は状況を整理する。深い森の中にはいくつかのヒントが転がっていた。

(危険はあるけど、やるしかない!)

 皇女は自分の傍に落ちている小さな木の枝を手に取る。

これを自分がいる場所とは別の所へ投げ飛ばして、魔獣の目をそらす。

そして、その隙に木に登って身を隠すかそのまま背後に向かって走り逃げるのだ。

どちろも、それなりに危険はある。

木登りなんて今の今までしたことがなし、足も決して速いわけではない。もしかしたら逃げ切ることが出来ずに背後から襲われてしまうかもしれないが、それでも今はもう立ち止まっている場合ではないと腹を括った。

 グッと思い唾を飲み下して、木の枝を握りしめる。

 (っよし)

 出来るだけ音を立てずに手を持ち上げ、肩に全霊の力を込める。

そして、そのまま力の限り枝を投げようとしたその時、

 目の間の魔獣が急にこちらに向かって全力疾走を始めた。

「えっ」

思わず声を皇女は何も出来ずに固まってしまう。

唖然とばかりに目を見開き、動かない足が震える。

いつ気がつかれたのかは分からない。ただ魔獣は一目散にこちらを目がけ駆けてくる、目を爛々と輝かせ。

 (死ぬんだ…)

 咄嗟にそう思った時、もはや何も感じる間もなかった。

ただ、気づいた時には目の前にあった巨体は一瞬で消え去り、頭の上を生温かい風が抜けていった。

 そのすぐ後に背後から

ぎゃあああああああああああああ

と甲高い金切り声が鳴り響いた。

皇女は音源に目向ける。するとそこには全身を黒いローブで覆った人影が魔獣の下敷きになっていた。そして必死に両の手でその牙に抵抗している。

どうやら、魔獣は自分の潜んでいた草村を飛び越え、そのさらに後ろにいた黒衣の男に飛びかかったのだろう。そしてその男の腕には今まで幾度となく目にすることになった追手の徽章。いつの間にか、追手を背後にまで寄せ付けていたらしい。

 魔獣に襲われている男に一時茫然としていた皇女はすぐに我に返りその場を立ち去った。

 見放したとばかりに思っていた神の情けかそれとも運命のいたずらなのか、二つの敵が今こうして対立しあっている。まさに不幸中に起きた数少ない幸運を彼女は無駄にはしなかった。

すぐにその場から立ち上がり、走り出す。

心なしか周りに人の気配が増えたような気がする。

 急いで森を出て、白壁に近づく。 

 (今はあの壁をなんとかしないと!)

 息せき切って、走り寄るとその壁が明らかに天然に出来上がったものとは思えないほど不自然であることが分かる。もはや人の手でつくられたものとも思えないくらいだ。

 そんな感想を抱きながら皇女はその壁の前でひたすら打開策を考える。

 (どうしたら・・どうしたらこの壁を・・)

 ぐるぐるとさまざまな考えが渦巻くが上手くまとまらない。

焦る気持ち、滞る思考、迫る危機。


  ガサガサ……


 森の方からまた草音がなる。

さっきの魔獣か、それともさっきの男の仲間か。どちらにしてもここで止まれば自分はもう終わる。せめてここで舌を噛んで命を落としてしまおうか。

 諦観と自嘲交じりにそんな事が浮かべはじめ、疲労で倒れそうになり、何気なく目の前の壁に手を付いた。

天然物のものとは思えないほど温もりを持ったその岩肌は不思議の彼女に親近感を持たせた。

 すると……

目の前が急に光に包まれた。触れた指先には電撃のような強い衝撃が走りそして全身に広がった。体中が空気の様に軽くなり感覚が遮断される。

まるで自分の存在がこの世のすべてから切り離されたような、そんな感覚に陥る。


 激しい痛みと目眩に襲われながら、皇女は自分の最後を悟った。

 これは無事に逃げ果せることが出来なかった罰なのだろう。

 あんなにも尽くしてくれた臣下に自分が何も返すことが出来なかった罰なのだろう。そう思うと少しだけ救われたような気がした。

これで許されることは無いが、せめて弔いくらいは出来る。                                                           

皇女はそっと目を閉じて最後に神に一つの思いを願った。


 せめて、あの臣下達が黄泉でも笑顔で居られるようにと……


大陸歴九九五年

カーマイル皇国第四皇女カーマイル・ゴットフリート・メルリーゼ

神淵の森にて行方をくらます


2015年6月18日 更新

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