イントロダクション
俺は橘健二、今年で36歳になる。
仕事は清掃やメンテナンス関連。
まあ普段はマンションの管理や駅清掃のスタッフの管理。
仕事が終わると、密かな趣味であるフィギュアの製作をする。
そんな毎日だ。
俺も若い頃はなかなかイタイ男でな。
夢は努力すれば必ず叶う。
なんていう価値観に踊らされて、真剣にフィギュア製作に打ち込んだもんだが、結局は「上手な素人」レベルで終わってしまった。
プロになるには、もう1歩足りなかったんだよな。
そんなこんなで、流されるまま清掃会社に入社。
不況でブラック企業が増加している昨今だが、どうやら俺は当たりを引いたらしい。
そりゃ、時間が不規則だったり休日出勤があったりするが、サービス残業も少なく、給料も悪くは無い。
この不況の中でも業績を拡大して、去年なんか社員旅行で海外なんかも行ったりした。
なんか自分でやる気を出して頑張ったことは、挫折を繰り返して上手くいかず。
状況に流されるままに生きると案外上手く行く。
まっ、人生なんかそんなものかも知れないな。
結局モテなくて、この年まで女とも付き合ったことも無い。
もう36なので結婚は無理かも知れないが、今さらそんなことどうでもいい。
取りあえず生きていけるだけも俺には十分だろう。
この年になると、徐々に肉体が衰えてくるのも分かってくるし、よく宗教の本とかに出てくるフレーズ、「生かされていることに感謝する」という言葉も、実感として理解できてくるな。
まあともあれ、今日も仕事だ。
今日は地下鉄線路の排水溝の清掃と点検だ。
最近の異常気象で、短時間で大雨が降り注ぎ、地下の排水溝がよく詰まる事態が多発するようになった。
電気系統の故障も目立つ。
というわけで急遽バイトと社員が、電車が動いていない時間に排水溝の清掃をすることになったのだ。
俺はお休みだったんだが、バイトが一人欠勤したおかげで、急遽出勤することになった。
地下鉄の終電が通り過ぎてから、深夜1時~5時の間。
これが作業時間なわけだが、やってみると案外短い時間に感じる。
だから効率よくしないと予定が間に合わないので、皆でどんどん作業を進めていく。
と、4時ごろに異変が起きた。
遠くから電車の接近音が聞こえてくるのだ。
「ええっ電車。まだ始発まで1時間はあるぞ?」
同僚が困惑する。
清掃作業の許可は受けているので、こんな事態になるとは想定していなかった。
電車がどんな風に運行しているかは把握していない。
だがこちらが混乱している間にも、接近音は大きくなる。
「まずい、こっちの線路だ。逃げろ!」
薄暗いなか、現場責任者が叫ぶ。
その声に弾かれるようにして皆が安全地帯に走り出す。
もう電車のライトは見えていたが、カーブなので本体は見えない。
俺も反射的に駆け出したが、足元は暗く線路でつまづいてしまった。
立ち上がろうとしたが、その時には電車が目の前に迫っていた。
警笛がけたたましく鳴る。回避は不可能。
その時俺は、去年のスペインへの社員旅行を思い出した。
走馬灯かと思うが、どうせ過去の記憶を思い出すなら、
もう少し役に立ちそうな記憶を思い出せばいいのに。
頭の中に巡る記憶は、闘牛、サグラダファミリア、マドリッド。
次の瞬間、俺は電車に轢かれて即死した。
俺こと橘健二は、ここで確かに死んだ。
これで俺の人生は終わりだと思っていたんだがな……