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PASSING DREAM ~見果てぬ夢~

作者: 北川 圭

初めて公募した作品です。若書きですがそのまま掲載します^^;ビギナーズ・ラックで三次予選まで進み…(←だからその先はないのかと)。当時の自分が抱えていた焦燥感が少しでも伝わってくれたら、と願います。

小雨が降っていた。


わずかに残った都会のぬかるみに足を取られて、僕は前のめりに突っ込んだ。ハデなアクションでギターのケースが宙に舞い、中身が転がり落ちた。


思わずそれをひっつかみ、追ってくる何者かに投げつける。ほんの数分前まで、命よりも大事だったギブソン。


もうこんなものはいらない。僕には必要ない。

こんなものがなくたって、僕は歌い続けられるだろう。欲しけりゃあくれてやる。

相手の動きが少し止まった、ような気がした。

あと、少し。あともう少し。あいつの気をそらすことができたら。

そうすれば、僕は助かる。生き続けることができる。


暗闇の中で、どこからかサイレンが聞こえてくる。思いっきり走り続けている僕のすぐわきを、波が洗っている。人っ子一人いない真夜中の湾岸。


あいつと、僕以外には。


もし追いつかれたら、この海に飛びこんじまおう。心のどこかに、そんな考えがかすめた。今すぐそれをやる勇気はなかった。今はただ。


走れ。


生きることができたら、れーこさんと海に行こう。

約束だった、南の海に行こう。

だから、走れ。

あいつの足音だけが、息を止めた水族館の底のようなコンクリートに響く。

不意に、ゆっくりになり、一歩一歩確かめるような音になった。

僕は巨大な空き倉庫に身を隠していた。

爆発しそうな心音があいつに聞こえそうで、僕は息を止めようと努力していた。

迷うような足音は、やがて確信に満ちたものに変わった!

何も見えない闇の中で、あいつのゆがんだ笑い顔が目に浮かぶ。

一つ、二つ、三つ。出て行くカウントを取る。

もう少し、あと少し、まだだ、まだ。

充分引き付けて、体当たりを食らわせれば、逃げ切ることができるかもしれない。

まだ早すぎる。まだだ。

もう手元には、武器になりそうなものは何もない。

このまま、やられてたまるか。

もう目の前に、足音は来ていた。息遣いまでが聞こえてくる。

ワン、トゥー、スリー、フォー。

いまだ!

飛び出そうとした途端。


閃光が僕の目を灼いた。







「ねえ、れーこさん。それで何杯目?いくら軽いからってそんなに飲んじゃあ」


「うるさいわねえ、あんたみたいなジャリに説教される筋合いはないわよ」


そう言いながられーこさんは、五杯目のモスコミュールを飲み干した。あっという間に空になったグラスが、本来のグリーンの色を取り戻した。


「だいたい、モスコなんてアルコール入ってんの?ねえ、マスター、隠さないでギムレット出しなさいよ」


ジンを切らしているのだと言い張ったのは、もちろんマスターの深い思慮からだった。こんな状態のれーこさんに強いアルコールなんか飲ましてみろ、三十分後には店の様相が変わっちまう。


「いい加減にしときなよ、せっかくのドレスが……」


「未成年が聞いたふうな口きくんじゃないよ」


「かっちゃん、やめときなって。れーこさん、からみ酒なんだから」


マスターは、僕のためにレモンスライス入りコークを作りながら、苦笑いで言った。


「何それ?今は亡きコークハイ?」


確かに、れーこさんの目は据わっていた。分厚い一枚板のカウンターに頬杖をついて、空のグラスを振っている。


「ねえ、もう一杯。あっと、かっちゃんと同じコークハイにして」


「違いますよ、ただのコーラです。まだこれからステージがあるんだから」


「へえ、やっぱりガキよね、かっちゃんも。炭酸飲料なんか飲んでると、骨が溶けちゃって伸びないぞお」


「どうせ僕はガキですよ。まだいたいけな高校生なんだから」


「ねえってば、マスターもう一杯、はやくう」


「れーこさん、やめときなよ。今日はペース早いよ。あ、いらっしゃい」


ドアを開けて、どこか場違いな中年の男が入ってきた。


マスターはほっとしたようにカウンターを離れると、経営者自ら、水とおしぼりを出しに行った。よっぽどれーこさんを持て余していたらしい。


エイティ。


カウンターに、テーブルが四つの、こぢんまりとしたライブハウス。


駅前通りから少し引っ込んだところにある店は、いつもは大人しくジャズがかかっている普通のバーだ。


夜の八時を回った頃から、セミプロの生バンドが入り始め、週末は、わりと名の通ったバンドを引っぱってくる。そのときには二十人も入れば一杯になるこの店が、ぎっしりと人で埋まるが、週半ばの今夜は客よりもバンドのメンバーの方が多いくらいだった。


「何よ、マスターの意地悪。ねえかっちゃん、カウンター入って作ってよ。ねえったら、飯田克彦くん!克彦お!」


「れーこさん、大声出さないでくださいよ。お客だっているんだから」


「なあにがお客よ、あたしだってお客ですからね。あんた達みたいにタダ酒飲んで、その上ギャラもらってるようなのとは違いますからね。それに未成年がこんなとこいていいの?おまわりさんに言いつけちゃうよお?」


れーこさんは、肩をあらわに出したデザインのイブニングのまま、カウンターに頬杖をついていた。軽くかけたパーマが取れかかっていて、顔の半分を覆っていた。右手でかき上げる仕草もグラスを持つ片手も、モノクロの映画そのものだったけど、いかんせん性格がついて行かなかった。

せっかくのイブニングが台無しだ。



れーこさんは、エイティの常連だった。いつも一人で来ては、マスターか、新井さん相手に飲んでいた。肩にかかる髪をかき上げながら、リクエストしたキースジャレットをおとなしく聴いていることもあるし、そりゃはしゃぐこともあったけど、今夜の荒れ方は異常だ。


「ねえ、かっちゃん。こんな若いうちから夜中の生活してたら、不良になっちゃうよお?健全な生活しなよお」


「れーこさんに言われるとは思わなかった」


「馬鹿ね、礼子だから言うんじゃない」


今日ピアノを弾いてくれたカオリさんが、呆れた声を出した。

今夜は僕とカオリさんとベースの変則トリオだった。ドラムの大針さんはまだ来ちゃいない。おかげで速いボサノバはあきらめなくちゃならなかった。


ライブハウス「エイティ」で僕がギターを弾き始めて、四ヶ月がたっていた。

ちゃちな高校生のバンドに飽き足らなくなって、孝太と一緒にあちこちのセッションに顔を出しているうちに、顔中ひげだらけの大針さんと知り合った。四十近い独身男だ。


「いいギターだな。ちょうど前のヤツが抜けちまったところだ。週一でどうだ?」


前のギタリストはバークリーに行っちまったのだ、と大針さんは言った。アメリカにあるジャズ専門の音大だ。

孝太はしきりに僕のレギュラー決定をうらやましがったけど、一つのバンドにドラムは二人いらない。

その日から僕は、セミプロの見習いとしてスタンダードジャズを弾かされるハメになった。


五線の書いてない楽譜、コードすら書かれていない歌判の譜面。紙があるなんてまだいい方で、たいていは、


「イントロピアノおまかせね。トゥーコーラステーマやって、その後アドリブ回す。あいだは倍テンにして、ドラムの合図でテーマ戻るよ」


と、曲の始まる三十秒前に打ち合わせて終わり、だ。


ベースの上山さんは僕より二つ三つ上で、この暗号みたいな曲をどんどんこなしていっていた。僕はと言えば、はでにテーマを外しては、カオリさんのヒールでけっとばされていた。

間違えたときだけじゃない、ピアノがその場でどんどんコードを変えていくのに、ついていけなきゃヒールが飛んでくる。


普段はピアノの講師をしているというカオリさんは、下手な奴は嫌いよ、とはっきり僕に言った。


「歳なんか関係ない。経験なんてなくて当たり前。サバみたいな音弾いたら、その場で仕事が来なくなると思いなさいよ」


生バンドなんて聞こえはいいけど、毎回中間と期末をいっぺんに受けているようなもんだった。胃がきりきりと痛む。

カオリさんが口をきいてくれるようになったのだって、最近だ。未だに音を外せば「音痴」「いも」「サバ」「リーマン」の罵倒の言葉が続く。



「飯田くんも礼子の相手なんかしてないで、次のステージの準備でもしたら?さっきの『枯葉』、コード間違ってたわよ、また」


冷ややかなカオリさんの言葉に、見えないようにれーこさんが舌を出す。同い年なんだ、と前に聞いたことがある。


「カオリちゃんはミュージシャンだもんねえ、いいわよねえ」


「そうね、女の酔っぱらいよりかはマシよね」


「カオリさん!」


僕は思わず声を上げた。今夜のれーこさんには、もっと優しい言葉の方が必要なんじゃないか、そう思えたからだ。しかしカオリさんは、僕の気持ちを知ってか知らずか、もっと冷たく言い放った。


「いいのいいの、本当のことだから。いい加減にしときなさいよ礼子。いくらあんた好みの浅野くんが結婚しちゃったからって、八つ当たりだけはしないでね。あたしもう一回大針さんのところに電話入れてみるわ」


カオリさんが立ち上がるのに、あわてて僕は後を追った。



「礼子のことはほっといた方がいいわよ」


「何かあったんですか、れーこさん」


「いつものこと。ちょっと気に入ってたギターの子がね、今日結婚パーティー開いたのよ。それでぎゃあぎゃあ騒いでるだけ。みんなに甘えてんのよ、二十七にもなって」


「あの、僕らの次のステージは?」


「大針さん、きっと寝てるんだわ。すぐ自分のステージ忘れちゃうんだから、困ったバンマスよね。電話のベルで叩き起こしてあげる」


そう言うと、カオリさんは珍しくにっこりと笑った。



カウンターに戻ると、れーこさんは鼻をぐしゅんぐしゅんさせていた。


「友達がいがないって、ああいうのを言うんだわ。ほんと、カオリちゃんて冷たい。だからプロのミュージシャンってイヤよねえ、高飛車なんだから。かっちゃんはあんなふうになんないでね」


「僕は、ただの素人ですから」


本当は僕自身がお客に金を払って、聴いてもらいたいくらいだった。プロだなんて思っちゃいない。


「なに言ってんのよ。いいなあかっちゃんは、そんだけ弾けて」


れーこさんが吐息混じりのため息をつく。僕はどぎまぎして視線を外した。


「毎回、ステージのたびにカオリさんからにらまれてますよ」


「かっちゃんくらいの歳で、そんだけできりゃあいいじゃない」


「歳は関係ないでしょ?」


僕はだんだん不機嫌になってきた。


「だって高校生でそのぐらい弾ける奴はなかなかいないでしょ?いいなあ、あたしもそんなにできたらなあ」


「今からやればいいじゃないですか、れーこさん。三十で始めた人だっていっぱいいますよ」


彼女はスタンダードを歌っていた、と聞いたことがあった。どこかの店で、今の僕のように。


でもそれを言うと、れーこさんは、あたしのなんて、カタカナジャズだもん、と寂しそうに言った。


「何で?いいじゃないですか。セッションしましょうよ。今からでもいくらでも出来ますよ」


「かっちゃんにはわかんないの。あんたみたいに力のある奴にそんなこと言われたら、立つ瀬がないよ。もう無理だもん」


「何でですか?歳のせいにしなくたっていいじゃないですか」


何もかも歳のせいにする考えが嫌いだった。もう歳だから、若くないから。そう言って努力しないことへ言い訳をする大人が嫌いだった。

れーこさんまでそんなことを言って欲しくない。

でもれーこさんは、いいなあかっちゃんは、と言い続け、そのうちカウンターに突っ伏してしまった。


少し青白い、疲れた寝顔。


本物のジャズ歌手のようなブルーのイブニング。今日のれーこさんはいつもよりずっときれいだった。



わけ知り顔のマスターが目で僕を呼ぶ。起こさないようにピアニシモの内緒話。


「浅野くんってね、大針バンドでギター弾いてた子でね」


「じゃあ、あの、バークリーに行ったって人ですか?」


「それは杉本くん。その前にいたブルース弾きが浅野くん」


いつのまに帰ってきたのか、ふりかえるとカオリさんだった。


「大針さんつかまらなかったわ。今日のステージはもう無理ね。礼子、落ち着いた?」


「寝ちまったみたいだ。でも何で関係があるんですか?れーこさんがあれてんのと」


「決まってるでしょ。そういうことよ」


「へっ?」


僕は本気で訳がわからず、間抜けな声を出した。カオリさんとマスターが苦笑い。


「礼子、ギター弾きに弱いから」


「それだけじゃあないんだな」


マスターはさらに声をひそめた。


「パーティーでスタンダードを歌ってくれって言われたんだそうだ、彼女」


「それで!?歌ったの?」


驚くカオリさんに向かって、マスターはうなずいて見せた。


「あたしでさえ、この三年は聴いてないわよ、礼子の歌なんて」


「そんなに重大なわけ?れーこさんが歌を歌うってことが」


思わず声を大きくした僕に、マスターは苦笑いを返しただけだった。


「おまえにはわからんよ。その歳でそれだけやれるおまえには、な」


まただ。

マスターもれーこさんと同じだ。何だかマスターにまで拒否されたようで、イヤな気分で僕は口をつぐんだ。

この歳なのは、僕のせいじゃない。全然弾けてなんかないのは自分でもよくわかる。

なのにどうして、マスターもれーこさんも僕に同じ言葉を投げつけるんだろう。彼らだけじゃない。ここに来るお客のほとんどが、まず僕の歳を訊き、いつからここで弾いているのかを訊き、ギターを始めた歳を訊き、最後には「いいねえ、その歳で」と言うのだ。


「歳なんか関係ない、そう言いたいのよね飯田くんは」


カオリさんだけだ。僕にそう言ってくれたのは。


「でもね、飯田くん。この歳になってみればわかるわよ。自分が何者でもないってことの辛さが」


何だか突き放された気がした。


「ピアノを教えるのが好きな訳じゃないけど、食べて行くにはしょうがないのよね。でも、普通の人からはそっちがあたしの本業だと思われているし。あたし自身、どっちが自分なのかと言われたら、もしかしたら人にピアノを教えているときが本当のあたしの実力なのかも知れない。最近そう思い始めているのよね。日常の自分と真夜中の自分とが、年とともに逆転していって、当たり前の生活をしている時間が多くなってくるのは、何だかイヤよね。でも、それが現実」


カオリさんの端正な表情がわずかにくもる。瞳に浮かぶ自嘲気味な光。いつもの強気なカオリさんじゃない。


突然彼女は、顔を上げると、わざとなのか明るい声を出した。


「なんて言っても飯田くんにはきっとわかんないわね。さってと、次のステージ始めよっか。またドラムレスだけどね」


少しずつ混み始めていたエイティの中で、僕は一人取り残されたような気分を味わっていた。


夜が本当の顔を見せるのは、これからだった。



「いらっしゃい。ん?何だ、かっちゃんか」


大針さんの経営するドラムショップは、いつものように客がいなかった。

窓を大きくとった明るい店で、大針さんはいつものようにジルジャンのシンバルを磨いていた。裏には貧乏学生御用達の格安スタジオを併設している。今日も赤茶色いギターケースを肩にかけた制服どもがたむろしていて、うっとおしそうな表情で僕らをにらんでいた。


「相変わらずスタジオ続けてるんだ?」


「ん?ああ、いろんなのが来るよ。パンクもあり、ハードもあり。着るもんからして違うからね。最近はぼろジーンズに普通の髪のが多いな。あんまりおっ立ててんのは来ねえなあ」


「でも、商売にはならない」


「はん、高校生にゃあ二十五万のシンバルは高かろうよ」


これまたいつものことで、大針さんは儲かろうが何しようがどっちだっていいって顔でタバコをふかしていた。ありきたりのマイルドセブン。急に顔をこちらに向ける。


「バイトの話、どうする?」


「えっ?エイティの?」


「違うよ、ここでバイトしねえかってっつっただろ。平日の一時五時」


「健全な高校生は、学校行ってる時間ですよ」


僕はちょっとだけむっとしてそう反論した。


「おまえ、学校行く気なのか?」


心底驚いたように大針さんは顔を上げた。反対にだから、僕の方がドギマギして言葉につまった。


「エイティ、週二日に増やすって言ってなかったかマスター。それに、こりゃあまだ話進めてなかったな。仕事入りそうなんだよ、本町のJAMって店」


「だからって、学校はまだあと一年あるし」


思わずしどろもどろになる。大針さんの言いたいことがよく見えずに僕は混乱していた。


「辞めちまえよ、高校なんざ」


彼はあっさりと言い放つ。


「どうせ本気でギターやるんだろ?学歴不問だよこの業界は。ハコバン紹介してやってもいいぜ」


「ちょっと待ってよ、そんなことできるわけないですよ。僕のギターなんてたかが知れてる」


「その歳でそんだけ出来りゃ十分だ」


また、だ。僕は何も言い返せない。

「うまい、うまい」とプロの選手に頭をなでられたリトルリーグのサッカー少年のように、僕は無性に腹が立った。まあその程度できりゃあ上出来だ、と言われているようなもんだ。

本物の世界で評価されることのないいらだち。

いま僕がエイティで使ってもらっているのは、歳の割に動く指のせいなのか。同じ歳の他のヤツらよりも、ちょっとブルースを知っているからなのか。本当の実力じゃないのか。


「おまえは欲張りなんだよ、克彦」


あるとき大針さんから言われたことがあった。


「最初からすごいプレーをするヤツもたまにはいるけどさあ、普通はステージこなしながら覚えていくもんだろ?それをしょっぱなからできないからって、悔しがるなよ。おまえの実力なら、この先もっといい音を出すようになるさ」


いくらそう言われても、僕は本当の実力から年齢分を差し引かれているような気がした。いや、年齢分かさ上げされて、上げ底の自分を見せているような気がしてならなかった。誰も本当のことを言ってくれない。


僕は今、何者なんだ。


僕が持っているのは、本当の音なのか。それとも、ただ他人より少しばかり早くできるようになっただけ、それだけのことなのか。


「おまえは、今に世の中に出ていくよ。そのギターで」


大針さんの言葉を、僕自身が一番信じられないでいるんだ。


僕が知りたいのは、今の音。この音がどこまで通用するのか、だ。僕が知りたいのはそれだけなのに。

でも大針さんもれーこさんも、決して僕にそのことを教えてくれはしないんだ。


「おれんとこのバイトじゃ不服か?」


大針さんはちょっと深刻そうな顔で言った。


「そうじゃないですよ、でもまだ学校には行きたいから」


どうにか普通の表情に戻して、僕はあわててそう返事した。


「そっか。まあ気が変わったら連絡してくれや」


相変わらずのんびりと、大針さんはまるで独り言のようにつぶやくとスタジオの方へと向かっていった。

いつ磨くのか、パールのドラムセットが外の光を浴びて輝いていて、たまに通りかかるドラム少年の目を引いていた。大きなガラスに憧れと諦めをふくんだ眼差しが写る。

僕はボンゴの入ったケースに腰掛けると、今頃退屈な現国を受けているであろう孝太のことを考えた。そして、真面目にノートを取り、頬付をつきながら先生の話に相槌を打っているであろうクラスの連中を思い浮かべた。


エイティに通う前にはかろうじてあった、ヤツらと過ごす時間も、リハーサルと打ち合わせと、酒を飲むことでつぶされていった。

もう彼らとは話も合わないだろう。

僕はテレビも見なくなったし、担任の悪口を言えるほど学校に行かなくなったし、合唱部のあの子のこともほとんど忘れかけていた。

それでも、僕は学校に行きたいのだろうか。

勉強にはとっくに興味を失っていた。きっとこのまま、ギターを弾くことで食っていくんだろう。それがプロのミュージシャンになることになるのか、その辺のステージをこなしてあとはバイトで食いつないでいくのか、それともフォークギターでも教えることになるのか、それは今の自分にはわからない。

わからないけれど、普通に大学に行き、普通に就職し、あたりまえのようにギターを捨てていく生き方だけはできないと思う。

僕には無理なのだ。


それでも、僕はまだ、学校に行きたいのだろうか。


ガラスの向こうに見える制服達。明日になれば僕もまた、何もなかったかのよう同じ物を着るだろう。ギターを担いだ光景も、今はそう珍しくない。

僕は何かにいらだちながら、きっと大針さんのように、いくつになっても音楽だけは捨てられずにいるのだろう。


その先に何があるのか。


いくら考えても答えは出なかった。



ショーケースのドラムに視線を移すと、こちらをのぞき込んでいた何かと目が合った。

背の高い男。

僕はびっくりして立ち上がった。

後ろで束ねた髪と、同じくらい伸ばしたあごひげ。ジーンズの膝は抜けていてぼろぼろだった。肩にかけた本革のギターケースだけが真新しい。


「大針さん、いる?」


低い声、無表情な。


「あ、あの。裏のスタジオですが」


とまどいながら僕はそう返した。ぶしつけな視線が僕の足先から頭のてっぺんまでをじろっと見やる。


「新しいバイトか。ずいぶん暇そうなバイトだな」


「違います、僕は大針さんに用があって。あなた誰ですか?」


思わず出した僕の声はかなりむっとしていたのだろう、相手は斜めに顔を傾けた。ふと僕のギターケースに目をやる。それまでの冷たい表情が、ほんの少し緩んだ。


「ああ、あんた飯田くんか。エイティの新しいギター」


いきなり僕の名前が出たことにとても動揺して、僕は持っていた音楽雑誌を取り落としてしまった。誰だ、こいつ。


「杉本!いつこっちに帰ってきたんだ?」


大針さんがあわてて走ってきた。


「杉本、さ……ん?」


バークリーに行ったっていうギタリスト?彼が?

だって何だか貧相な体格で、着ているもんもその辺の安売りのシャツみたいだし、裏の高校生の方がずっとミュージシャンらしい格好をしている。


エイティのみんなが噂する杉本さんは、それはうまかったらしい。一緒にセッションをした週末のプロ達も思わず本気を出すほど、繰り出すフレーズは本物だったって。僕のギターを聴くたび、常連の瀬尾さんあたりがいつもこぼしていた。


「大針バンドは、いつからアートブレイキーバンドになっちまったんだい?」


新人を売り出しては、また新しいシロウトを入れるのか、と。

もちろん杉本さんは狭いエイティなんかじゃ飽きたらずに、ボストンにあるジャズ科を併設する音楽大学に留学したと聞いていた。


バークリー・カレッジ・オブ・ミュージック。


渡辺貞夫も小曽根真もここの出身だ。そこに行きさえすれば、一流のプレーヤーになれる気がする。憧れない方がおかしい。でも目の前にいる杉本さんは、そんなことにはあんまり興味がなさそうだった。


「学校はどうだ?まだ行ってるか?」


懐かしそうに彼の肩を叩きながら、大針さんは形相をくずした。


「追い出されてはいないですよ。授業料払ってるから、今んとこはまだ。授業はまあ、半々ってとこですかね。当たればすごいけどスカもあるから。それよりストリート出て向こうの連中とセッションした方が、ずっと面白い」


僕のことなど眼中にないらしい。二人は未知のボストン話で盛り上がっていた。


「じゃあ僕、これで。大針さん来週のライブは出てくださいよ。ドラムなしでボサノバなんてできないんですからね」


「おっ、わりいなあ、かっちゃん。杉本、これが前に言ってた……」


「飯田くんだよな。いい音弾くって言ってた。帰る前には一度エイティに寄るから、そのときは一緒に何かやろうよ」


無口そうな杉本さんの精一杯のリップサービスに、愛想笑いで答える。

こんなところでうぬぼれてたら、カオリさんに蹴られるのがオチだ。何となくドキドキしながら、店を出る。

制服達は、相変わらず不機嫌そうな顔でスタジオが開くのを待っていた。この時間にここにいるってことはこいつらもサボり組か。ほんのちょっと安心して、僕は肩にかけたギターを持ち直した。


そのとき、彼らの向こう側に場違いなドブネズミスーツが見えた。


補導員?まさか。


僕はとっさに角を曲がって身を隠そうとしながら、どこかで見たことのある顔だと思った。それもつい最近だ。どこにいても場違いな、世の中の誰も信用できないとでも言いたげな目つき。常に二人組。

最初は見えなかったが、もう一人の方はなぜか僕の方をじっと見ていた。視線がべっとり背中にまとわりつくようで気持ち悪かった。そのまま振り向かず、僕は駅に向かって駆けだした。




それから一週間。


まとわりつく視線は消えなかった。それどころか、日ごとに強くなっていった。エイティでのライブの帰り、大針さんが車でカオリさんを送ってったので僕は一人だった。上山さんは、バンにウッドベースを積み込むと、さっさと帰ってしまった。

とっくに十二時を回っている。駅までの道がこんなに遠く感じられたことはなかった。

足音がいつまでついてきた。こんな時間、普通の人間なら出歩くはずのない時間。ここは都心の盛り場でもないしコンビニもないし、今日は水曜日だ。

頭の片一方で、偶然だと思い込もうとしていた。もう片方で、かなりの確率で僕の予感は当たっていると確信していた。

あの二人組が僕をつけているのだ。

何のために?

金目当てのはずがない。ただの変質者でもなさそうだ。これで一週間、大の大人が二人も僕をつけ回しているのだから。車のときもあったし、一人だけで学校の門に立っていたこともあった。

僕はヤツらに全く気づかないふりをしていたが、彼らはつかず離れずの状態をずっと続けていた。

恐怖感だけだった。

いつヤツらが本性を現して僕に襲いかかってくるのか、いつやられるのか、どうして僕が狙われるのか。わからないことがたまらなく怖かった。

ポケットに入れたスパナを握りしめる。

誰もいない今なら、何か行動を起こすだろう。今日こそ決着をつけたくて、わざとこの道を選んだ。

少し足を速めてみる。案の定二人はついてくる。

角の細い路地を曲がる。予定の行動だ。

やっぱりついてくる。

思い切って走り出す。おとりなんだからわざとゆっくり走るつもりが、知らず知らずのうちに加速していき、気がつくと僕は全速力で走っていた。


この先は緑地公園で、行き止まりだ。

目をつけておいた塀に軽くジャンプして飛び乗った。そのまま方向を変えてヤツらの方へ向き直る。


「誰だおまえら!僕に何のようだ!」


でかい声を出したはずが、ところどころファルセットになるなんて、何て情けない。

だが、振り向いた路地には誰もいなかった。

そんなバカな。


「か、隠れてないで出てこい!卑怯だぞ!」


しげみの方に目をこらす。物音一つしない。さっきまで僕にまとわりついていた視線が消えていた。確かにこの路地に誘い込んだはずだった。少なくともここに入るまで、ヤツらは確かにいたのだ。

辺りを見回しても何もない。街灯の下に集まる虫の音だけが響く。


無防備にさらした僕の背中を、ふいに誰かがたたいた。


「うわあっ!」


文字どおり、僕は飛び上がった。


「何してるんだ、こんなことで。まだ帰らなかったのかい?」


大針さんが、車のキーを片手にそこに立っていた。


「脅かさないでくださいよ!び、びっくりするじゃないですか!」


「いやあ、一人で何運動会してるのかなって思ってさ」


それってずっと見てたってこと?つくづくうちのバンマスも性格が悪い。


「そんなのんびりしたこと言わないでください。こないだから、僕をつけ狙うヤツらがいるんですから」


「つけ狙う?」


「気づきませんでしたか?ドブネズミスーツを着て二人連れの」


「……本当かい?」


大針さんの顔色が変わった。


「いつからだ、それ」


「ほら、先週大針さんの店に行ったでしょ、杉本さんが来て。あのとき気がついたからきっとそれよりも前……」


「かっちゃん、急いで!ここにいちゃ危ない!」


急に僕の腕を引っぱると、大針さんは駆けだした。様子が変だ。


「何か知ってるんですか?ねえ、大針さん!」


「車で送ってってやるよ、いや、店の方が安全か」


「あいつらのこと、何か知ってるんですね?誰なんです?何で僕のあとなんかつけてるんですか?」


「いいから来い!」


あとは無言だった。真夜中の住宅街をわざとみたいにあちこち回り道して、僕は口をきく気力さえ萎えてしまった。

もうこれ以上走れない。

そう思った頃、大針さんのシトロエンの助手席に僕は押し込まれた。かすかにカオリさんのコロンが香る。車が走り出しても、しばらくは肩で息をしていた。


シトロエンのスポーツタイプは、時折タイヤをきしませながら住宅街を抜けていった。いつ車を変えたんだろう。前は確か、ドラムセットが十分入る軽のワゴンだったはずだ。でも、大針さんに話しかける隙もなく、僕は舌を噛まないようにダッシュボードにしがみついていなくてはならなかった。


数えきれないほどの交差点を曲がり、信号を無視し、小一時間かけて僕らは大針さんのドラムショップに着いた。


「大針さん!あいつらいったい何者なんです?」


「コーヒーでいいかあ?」


「大針さん!」


ゆっくりとコーヒーメーカーに豆をセットする大針さんの手が、心なしか震えていた。声の調子はいつもと変わらなかったけど、右手に持ったカップがかちかちと音を立てた。


「ねえ、知ってるんでしょ?あいつらのこと」


しばらくの無言。彼が息を飲む。わざとらしいあっけらかんとした声。


「……地上げ屋、だよ。ここの土地が欲しくてさ」


「地上げ屋あ?じゃあ何で僕なんか追い回すんですか?」


「それはなあ……それは」


大針さんは言葉に詰まる。必死に次のセリフを探している。どんなに鈍感でも僕にもわかる。


「あんたを監禁して俺を脅そうって魂胆なんだよ」


「か……んきん?」


「何が何でもこの土地が欲しいんだろ。いくら積まれたって親からもらった大事な店を、誰が譲れるかってんだ、なあ?」


「ふう……ん」


僕は無理矢理納得したような表情をして見せた。大針さんが嘘をついていることは明白だった。正直な人だから僕の顔をまともには見られない。

ただ、熱いコーヒーをもらうと、少しは僕も落ち着いた。



真夜中のドラムショップは、ほんの少しの月の光を集めて無機質に光っていた。どこかでバイクのエンジンを吹かす音が響く。


「大針さん、アメリカでドラム叩いてたんですか?」


「何で?」


「いや、こないだボストンのこと、やけに詳しかったから」


「そう、と言いたいところだけど、残念ながら楽器の買い付けにね。それほどの腕はねえな」


大針さんはどこか投げやりな表情でそう言った。暗かったからそう見えたのかも知れない。


「なあ、かっちゃん。今から英語少しはやっとけよ」


ふいに大針さんが真面目な顔でこちらを向いた。


「えっ?どうしてですか」


「これからは向こうでプレイできなきゃダメだ。こんなところでぐじぐじしているくらいなら、思い切ってニューヨークにでも行っちまえ」


「大針さん!」


「おまえならできるよ、いくらでも通用する。そうだ、そうしろよ。な?バークリーに行きたいなら、向こうに行ってる友達紹介してやってもいい。なあ、そうしろ」


「ちょっと待ってください。どうしたんですか?突然そんなこと言い出して」


「突然じゃねえよ、金なら貸してやる。俺は独りで住んでてどうせ使わねえし、親父の残してくれた土地もある。いいプレーヤーになってから返してくれればいいからさ」


僕の面食らった表情にもお構いなしに、大針さんはそうまくし立てた。僕の心に広がる疑問、不安、イヤな予感。


「どうして、そんなこと言うんですか。僕がここにいるとなんかまずいんですか」


しまった。


思わず口に出してしまったことを後悔しても、もう遅かった。

大針さんの動きが止まり、飛びかからんばかりに僕をにらみつけた。その視線にひるみつつも、僕の言葉はもう歯止めが利かなかった。


「あの男達は何者ですか。僕じゃなくて、大針さんに関係しているんでしょう?地上げ屋なんて嘘だ。本当のことを教えてくれなきゃ、僕は朝一番に警察に行きます。本当は、ヤツらは誰なんですか!?」


「おまえにゃあ、関係ない」


「関係ないなら、どうして僕を追っ払おうとするんですか?」


「巻き込んじまってからじゃ遅いんだよ!!」


かしゃん。

コーヒースプーンが音を立てて床に落ちた。


「頼むから、何も訊くな。あんたが何かを知ろうとすれば、あいつらだってただじゃおかない。ドブネズミなんざどうだっていいんだ。それより怖いのは……」


「どうだっていいってどういうことですか!?ねえ、大針さん!」


大針さんは次の言葉を続けることができなかった。目は見開かれ、窓の外を凝視していた。思わずつられて振り返ると、何かが店に向かって突っ込んできた。


バイクだ!


「危ない!!」


途端に大音響が響いて、一瞬僕の耳が麻痺した。


僕の足元に、トップシンバルが転がってきた。


バイクは、店の中で反転すると、飾ってあったメイプルウッドのドラムセットに突っ込んだ。店のショウウインドウがめちゃめちゃに砕かれ、破片が頭上に降り注いだ。


「かっちゃん!大丈夫か?」


辺り一面、まっ白できな臭い煙に覆われてしまっていた。大針さんの姿も、煙にまぎれてよく見えない。どこかでシュウシュウと気体のもれる音がした。


「大針さん!どこですか大針さん!」


「大丈夫か?よかった。早く外に出るんだ、ここは危ない」


ようやく声のする方へ向かい、僕は大針さんを捜し当てた。


「人は?バイクに乗っていた人、どうなりました?」


「いいから早く、早く出ろ!」


大針さんに無理矢理引っぱられる格好で、僕は通りに出た。片方はいつのまにか裸足だった。


「大丈夫か、かっちゃん。ケガは?歩けるな?」


「腕を少し、切ったかもしれない。骨は……大丈夫みたいです」


呆然としたまま僕が答えた。耳はまだわーんとしている。


「よし、じゃあ走るぞ!」


突然、大針さんは僕の腕を取ってかけだした。何が何だかわからないまま隣の貸しビルに飛び込んだとき、爆音がもう一度響いて、僕の記憶はそれきりなかった。



「無人?人が乗ってなかったんですか、あのバイク」


「ごていねいにも盗難車だそうだ。ったく、なんてこった」


目が覚めたら病院だった。僕は特有の消毒液の匂いに囲まれながら、硬いベッドに寝かされていた。丸一日僕は意識がなかったらしい。駆けつけてくれたマスターは、吐き捨てるように言った。


「博史んとこのドラムショップは大破だ。まあ、真夜中だったから他にけが人が出なかったのは、不幸中の幸いだな。家の人にはこちらから連絡しておいた。もう間もなく来ると思うよ」


マスターはそう言うと、丸イスに腰掛けてマルボロを取りだした。


「すみません、両親は泊まりがけで出かけるって言ってたから」


僕は思わず目だけで返事をかえした。身体がうまく動かせない。


「あのなあ、謝るのはこっちだよ。未成年をあんな時間まで働かせて、その上ケガまでさせちゃな。親御さんに何てわびればいいか。頭打ってるし、今夜も、もう一晩病院に泊まりだぜ」


「そんなに酷かったんですか、大針さん」


「アホ!頭打ったのは、おまえだよ!」


「えっ?」


あわてて僕は自分の頭に手をやった。ごつごつとした包帯でぐるぐる巻きにされていたなんて気づかなかった。


「飛んできたバイクの破片が、ちょうど当たったらしいんだな。気化したガソリンに引火したんだろう」


気のせいか、急に頭がズキズキしてきた。右腕にも大きなガーゼが当ててある。指先に少し力を入れてみる。大丈夫だ。左腕をゆっくりと動かした。Cのスケール。


「あたっ」


「どうした?頭痛むか」


「いえ、今度のステージはできるかなって思ったんだけど、ちょっと無理っぽいかなって」


「バカか、ステージなんてどうだっていいよ。どうせ博史もいないんだし」


僕の症状はたいしたことはないのだろう、それでも一応腕には点滴の針が差し込まれていた。

廊下をせわしなく人が走りすぎる。


「大針さん、いないってどういうことですか?」


「事故現場から消えちまったんだよ」


どうして?僕は声にならない声を上げた。


「こっちが訊きたいよ、全くよお。直前までかっちゃんと一緒にいたんだろ?」


うなずく代わりに僕は黙り込む。あのときの会話をゆっくり反芻する。


「盗難車ってのも怪しくてな、誰かが店の前でエンジンをかけて突っ込ませたらしい。タイヤの跡が見つかってな。計画的な犯行ってヤツだ」


「何のために?」


「それを知りたいヤツらがいっぱいいるぜ、廊下に」


マスターの視線を目で追うと、刑事らしい目つきの鋭い男達が三、四人、僕の様子をうかがっていた。どうやら彼らは僕をずっと見張っておくつもりらしい。

いい気持ちはしなかった。


「まあ、ゆっくり休んでくれ。楽器も新しいのを手に入れにゃあならんだろうしな」


「へっ!?あの、僕のギターは?」


「爆発でおしゃか。ネックが折れてるってよ」


煙が僕にかからないように、マスターは横を向いた。

僕はがっくりと気落ちして、思わず浮かせた背中からベッドに倒れ込んだ。これでまたバイトだ。ちっきしょう。

それにしても、大針さんはいったいどこへ行ってしまったんだろう。頭の傷よりも腕のケガよりも、胸がちくりとした。


「飯田さん、検温の時間ですよ。あらだいぶ顔色もよくなって、やっぱり若いから」


母親の年代の看護師さんが僕の腕を取る。枕元でタバコをふかしていたマスターを叱りつける。

彼女の口調がふいに変わり、だめじゃないの、とするどい声が飛ぶ。僕らにじゃない。すみません、と言う高くて綺麗な声に、僕は目を向けた。


途端に極彩色が目の前に広がる。


花束だった。


「これをお預かりしたんです、ほら綺麗でしょう?こんな大きな花束、ちょっとやそっとじゃ作れませんよ」


花束を持つ若い看護師は、そう言ってにっこり笑った。先輩の小言も耳に入っていないようだ。


「患者さんの鼻先にこんなきつい匂いの花を突き出すなんて、無神経ですよ!」


年配の彼女はまだ怒っていたけれど、僕も若い看護師も、マスターでさえ、その花に見とれていた。


「でも、これ誰が?」


「それがわからないんです。あわててこれを押しつけて帰ってしまわれたので」


「爆弾でも入ってんじゃねえの?」


マスターの物騒な発言に、外の男達がわずかにざわめいた。そんなことこれっぽっちも思っちゃいなかったけど、一応二人で中をのぞいてみた。


「冗談じゃない、こんなところで爆発に巻き込まれてみろ、誰がエイティのローンを払うんだ、と。何だこりゃ?」


マスターは花束の中から細長い紙切れを取りだした。伝票だった。


「ずいぶんそそっかしい見舞客だなあ。ほ……しくき?星久喜?何だこれ、礼子ちゃんだよ」


「れーこさんがここに?」


伝票には星久喜とサインがしてあった。珍しい苗字だから、おそらくれーこさん本人だろう。


「でもこれ、店側の受け取りのサインでしょ?」


「店の売りもん持ち出してきたんじゃねえの?礼子ちゃんならやりかねねえ」


「れーこさん、花屋さんなんですか?」


心底びっくりして、僕は大声を上げた。


「知らなかったのかい?まあバイトだけど今んとこはまだ長く続いているみたいだよ。それにしても、来たならちょっと寄っていきゃあいいのにな」


マスターはそう独りごちた。いつになくしんみりとした表情。花屋、か。


「あの、これもお預かりしたんですけど……」


若い彼女がおずおずと口を出す。差し出したのはごついギターケースだった。古ぼけちゃいるが、僕の持っていたヤツの二十倍はしそうな高そうなギブソンだった。


「最初、お花を持ってらっしゃった若い女性を病室までご案内するつもりで。そうしたらギターをお持ちの男の方が女性の腕を取って行かれてしまって、あの」


叱られると思ったのだろうか、先輩に聞こえないように小声で僕にそう告げた。


「このギター、杉本が持ってたヤツに似てるなあ。でもあいつ今、ボストンだろうし」


彼となら会ったことを伝えると、マスターはじゃあそうだ、と頷きながらケースの蓋を開けた。


「ほら、メッセージカードまで入ってるぜ。あんなヤツでも外国かぶれするのかねえ。もういらないから使ってくれ、だってさ」


「このギブソン、僕がもらえるんですか!?」


痛みも忘れて思わず僕は起き上がった。こんな高級品、バイトじゃ絶対買えやしない。動く方の手で楽器の表面をなぞる。深みのある光沢に僕は見とれた。

浮かれまくっていたそんな僕の視線に、何かが引っかかった。


見慣れたドブネズミ色、数は二人。


「あっ!廊下見て!マスター!廊下!」


彼らのことを教えようとしたそのとき、当の本人達がこちらの病室に入ってくるのが見えた。冗談じゃない!


「あ、あいつら!」


僕は必死にマスターにしがみついた。


「マスター!あいつらが犯人の一味なんです!」


僕のでかい声に、ネズミ達がぎょっとした様子で顔を見合わせた。


「君、あのねえ……」


「寄るな!こっち来るな!おまえ達が僕をずっとつけてたことはわかってたんだ。大針さんがいなくなったのだって!」


「落ち着きなさい、あのね、私たちはね……」


僕はポケットに入れっぱなしになっていたスパナを振り回して抵抗した。爆風にも幸い、飛ばされなかったらしい。


「きゃあ止めて!点滴が外れちゃう!」


若い看護師さんは大声を上げた。だけど僕だって命がかかってるんだ!


「来るな!こっちくんな!」


「君!止めなさい!我々は!」


スーツのボタンを外して、中から何かを取り出そうとしている。外の刑事どもは何をやってるんだ?マスターは事情を飲み込めず、とにかく僕をかばうように身を寄せている。

撃たれてたまるか!

思わず目をつぶった僕に、ヤツらは叫んだ。


「怪しいものじゃない!我々は、厚生労働省の者です!」


「こ、こうせい……ろうどうしょう?」


僕の思考は、完全にそこで止まった。



「ありがとうございました。あっ、いらっしゃいませ」


僕は店から少し離れた路地で、しばらくそのフラワーショップを眺めていた。

何人もの店員達が、次々とやってくるお客をさばいていた。店先に咲きそろった、名前も知らない花ども。

なんだか明るく、健康的で、僕にはまぶしかった。お仕着せのエプロンを着けて髪を一つに縛ったれーこさんも、僕には酷くまぶしすぎた。


エイティで見る彼女とは全くの別人のようだった。

手慣れた様子で花束を作り、レジを打ち、挨拶を交わす。当たり前の生活がそこにはあった。


カオリさんの言う、日常という現実。


僕は僕で制服とタイに学校指定の学生カバンだったから、人のことは言えない。海を渡ってきたギブソンのギターだけが、違和感を生じていた。


これが現実。


エイティでの出来事はきっと集団幻覚か何かだったのだ。

本当は存在しない何か。そう思わせるものが陽の光にはあった。

きっと誰もがこの現実の中をしっかりと生きていて、ほんの数時間だけ非日常に浸りたいと思ったときだけ、エイティに行くのだ。

あるいは他のどこかへ。


いつもふわふわとしてとらえどころのないと思っていたれーこさんの生の姿を見せつけられたようで、僕は立ちすくんでいた。


彼女が視線を何気なく店の外に向ける。僕と目が合った。普段着のメイクの瞳が大きく見開く。


「克彦、くん?やだ、かっちゃんじゃない!どうしてここに?」


「あ……あの」


「あはは、こんな格好見られちゃったね、恥ずかしいなあ。でもかっちゃんの制服もなんか似合わないね」


れーこさんは明るい太陽の下がふさわしいような声を出した。


「もうちょっと待っててくれる?早番だったからもう少しで上がれるの」



天気がいいから公園を回っていこう。れーこさんの声はあくまで明るかった。ブランコに腰掛ける。


「どうしてここがわかったの?」


「伝票、あの花屋の伝票置いてっただろ?届けに来たんだ」


ありがとう、と彼女は照れくさそうに笑う。なぜだか僕は真正面かられーこさんを見ることができなかった。


「こうしてみると、本当にかっちゃん高校生なんだね。その制服、明和高のでしょ?」


答えたくなくて思わずそっぽを向く。


「頭の包帯取れたんだ。もう平気なの?」


「なんてことなかったから。大げさだったんだあの医者」


「でも、頭は怖いっていうでしょ?用心するにこしたこたないよ」


僕らはいったい、こんな所で何を話しているんだろう。

普通の生活ができないから僕らはジャズをやり、バンドをやり、歌って生きていこうとしたんじゃなかったのか。

こんなふうに穏やかに普通の会話ができないから、僕らはエイティに居座り続けているんじゃなかったのか。

これじゃまるで当たり前に学校に行き、当たり前に就職して、何も起こらないのが一番、他人と同じであることを金科玉条としているヤツらと変わらないじゃないか。

昨日と同じ今日が来たことを喜び、今日と同じ明日が来ることを望み、僕らが一つのフレーズ、一つの音に神経をとがらせるのを理解できないといって受け入れないヤツらと。


黙ってしまった僕を持て余したかのように、れーこさんはため息をついた。


「どこか行く?何か食べたいものでもある?」


答えたくなかった。


「どうしたのかっちゃん。いつもと違うよ?」


いつもと違うのはれーこさんの方だ。

モノクロ映画とはほど遠い、魔法が切れ、ごく普通の二十七の女。



「何で歌わないんだよ、れーこさん!」


僕の声はとがっていたのかも知れない。れーこさんはびっくりしたように顔を上げ、僕を見た。それからゆっくりブランコをこいだ。小さい子があちこちを走り回っている。母親に連れられたよちよち歩きの幼児、大きな犬を連れた老人。絵に描いたような平和な光景。


「何であんな仕事してんだよ!辞めちゃえよ花屋なんか」


「辞めないわ」


ささやくように、けれどきっぱりとれーこさんは言った。


「辞めろよ!歌えばいいじゃないか。似合わないよあんな花屋なんて仕事、れーこさんにはもっと!」


これは嘘だった。


れーこさんにとってもよく似合っていたんだ。エプロンも、笑顔も。

だから僕にはそれが余計にイヤだった。


「一緒にやろうよ、バンド組んでさ!エイティじゃなくたっていいだろ?どこかもっと小さくていいから。ねえそうしようよ!」


僕の勢いづいた言葉をそっと彼女はさえぎった。視線をふっと外す。


「歌わないわ」


「何でだよ!髪なんか縛るなよ!いつものエイティにいるときのれーこさんの方がずっと綺麗だよ。止めろよそんな格好!」


もういいの、あきらめたから、れーこさんのつぶやきに僕は唇を噛む。訳のわからない怒りがわき上がる。


「何であきらめるんだよ!れーこさんずるいよ。やりもしないであきらめるなんて。やればいいじゃない!こんな所で花売ってるよりもジャズが好きなんだろ?歌いたいと思ってたんだろ?下手でも通用しなくても、やらないよりマシだよ!なんで、なんでこんな所で!」


「思うだけで音楽をやっていけるなら苦労しないよ、かっちゃん」


僕の大声と正反対に、冷静な落ち着き払った声。れーこさんの声はいつもよりずっと年上に聞こえた。


「やればできるってのは、勝者の言い分なんだよ。かっちゃんだからできるんであって、あたしにはできない」


「どう……して、そんなこと」


僕はふいに悲しくなって、彼女から目をそらした。れーこさんの寂しげな物言いに思わず言葉を失った。

僕はまた、一人になった。そんな気持ちが僕を支配していた。



「あたしが高校卒業してから、何になったと思う?」


ふいにれーこさんが立ち上がった。ステージの真ん中でソロを取る時みたいに。


「今の仕事始めてまだ一年経ってないの。いろんなバイトはしたけどね。一番最初はあたし、看護師だった」


えっ?驚く僕にいたずらっぽくれーこさんは笑いかけた。


「想像もつかないでしょ。学校を出て、それでも三年勤めたよ。田舎だったけどそれなりに楽しかった。今でも思う、あのままでいたら……って」


僕の目をのぞき込むれーこさんは、いつのまにか髪をほどいていた。あでやかな微笑み。


「歌えるなんて知らなかった。自分がこんなにも歌が好きで声が出るなんてそれまで気づかなかった。ジャズだって聴いたこともなかったんだよ、こっちに出てくるまで。歌えることを知ってから、歌いたいって思った。毎日でもいいから、どんなことでもいいから歌っていられるなら何でもやろうってね。あんたの言うとおり、ダメでもともと。もしかしたらあたしはステージのセンターで歌えるようになるかも知れない。今からだって間に合うかも知れない。今しかチャンスはない。そう思い立ってすぐ仕事を辞めて出てきた。この東京に」


そっと彼女がブレスをする。次の歌い出しはベルベットボイス。周りの音がすべて消えてゆく。


「レッスンについて、もちろんバイトをしながら、それでも歌うことが面白くて仕方なかった。このままきっとどこかでずっと歌っていける。そう信じていた。センターじゃなくてもいい、コーラス隊の端っこでも何でも。負け惜しみじゃないよ、本当にそう思ってた」


じゃあ、何で辞めちゃったんだよ、僕のつぶやきには力がなかった。れーこさんの饒舌が逆に辛くて、僕はうつむいた。


「さあ、なんでかな」


「れーこさん!」


「本物のボーカリストを見たからかな、きっとそう」


静かに彼女がそう口にする。僕の感情が吹き出す。何で?


「そんな!そんなこと言ったら僕なんかどうしたらいいんだよ!レコードで聴くようなプレイなんかできっこないし、いつもカオリさんに下手だ下手だって言われ続けてるんだよ?本物のギタリストを前にして、すぐに同じようになんかできない。それは誰だって最初はそうだろ?」


僕のいらだちを軽くいなすように、彼女は視線を向けた。寂しい瞳。


「そうじゃないの。名前も知らない、それこそエイティの平日に出てくるような歌手で。その当時、本当にプロだったのかも怪しいなあ。でも、その程度のプレイでもあたしには真似できなかった。理解できる範囲を超えていた。あたしは、いくら練習してもイミテーションにすらなれないのか、ってそのとき思ったの。偽物にさえなれないんだもん、救いようがないじゃない。三流でもプロはプロ。何かを作り出してる。あたしのはただの真似。ううん、真似すらもできない。認めたくなかったけど、それが現実。だからあたしはもう歌わない」


「じゃあ僕だって同じだ!」


「かっちゃんは違うわよ、全然違う。あんたはちゃんとできる人だもん。それくらいあたしにだってわかる」


「どうして?」


思わず僕は食い下がる。

どうして僕は違うんだ?大針さんもマスターもカオリさんも、そしてれーこさんまでなぜそう言うんだ?


「こんなこと言って失礼だとは思うけど、大針さんもカオリちゃんもかっちゃんとは違う。そりゃ、ちゃんとギャラとって演奏活動してるんだからあたしと同レベルだなんて言わない。でもあんたは違うのよ、かっちゃん」


「どうしてさ?どうしてそんなこと言えるんだ!僕がまだ高校生だから?十八だから?二十になっても三十になっても、何も変わらないかもしれないよ!進歩なんかしないかも知れない。そんなのわからないじゃん」


「わかるわよ」


「わかんないよ!!」


僕の大きな声に、近くの子どもが振り返る。怯えた目。気にしてはいられなかった。何で、何でいつも僕だけ。


「わかるわよ、あたしだってジャズが好きなんだもん。本当に好きで他に何もいらないくらい。ううん、なければ生きてゆけないほど好きだから、あたし達にはできない、かっちゃんならできるってわかる」


僕は口をつぐむ。なぜかわからない悔しさに。れーこさんが言葉を続ける。


「本当に好きなの。だからわかるの。自分じゃダメだってことが。あたしもカオリちゃんも、そして大針さんも」


れーこさんの口調が穏やかなことにさえ、僕は腹を立てていた。

また一人、僕は取り残されてしまった。

せっかく自分の居場所が見つかったっていうのに、仲間だと思っていたみんなは僕に背を向けて、おまえは違うのだと言う。

もう、エイティでれーこさんには逢えないんじゃないだろうか、そんな気さえした。


「れーこさんあのね……」


僕の声が聞こえないようなふりをして、彼女はのびをして立ち上がった。


「あーあ、いい天気。ねえ、南の島にでも行かない?」


「へっ?」


僕がよほど間抜けな顔をしたのだろう、れーこさんはくすりと笑った。


「ボサノバとかいいなあ、歌いたいなあ。ずっと浜辺に寝っ転がって、かっちゃんがギターを弾き続けるの」


「僕って、BGM係?」


「あたしも教えてもらおうかな、ギター。そしたらツインでストリートで歌っちゃおうか?」


いたずらっ子のようないつもの瞳。顔を僕に近づけて耳元でささやく。僕の頬が知らず知らず朱に染まる。

そんなことにはお構いなしに、れーこさんは僕の髪にそっと触れた。頭を引き寄せる。


「ねえ、聴かせて?かっちゃんのギターが今聴きたい」


僕は黙って杉本さんからもらったギブソンのギターケースを開ける。錆が出ていてなかなか開かなかった。

チューニングをしようとすると、かちっと音が鳴って動かなくなった。


「あれ?壊れてんのかな」


「はん、杉本くんもずいぶん古いのくれたんだね」


目を見合わせて、思わず笑う。


「ちょっとくらい音が狂ってたっていいや。リクエストは?やっぱボサ?」


れーこさんは軽く首を振ると、甘い声でつぶやいた。


「マイ・ワン・アンド・オンリー・ラブ」


めいっぱい甘いスタンダード。


「ひゅう、ただ一つの愛?」


最初のコードを弾くと、弦がきしんだ。かすれた声でれーこさんが歌い出す。しっかりとした発音によく響く声。ステージでの彼女は、おそらくもっと輝いていたはずだろうに。でももう、僕は何も言わなかった。

ただ、彼女が歌いやすいようにとバッキングに徹した。呼吸を合わせる。気持ちが一つになってゆく。


いつのまにか、周りには誰一人いなかった。


このまま世界中が止まってしまっても惜しくはない、そんな気がした。



でもきっちりと時は過ぎ、音楽はいつか終わる。

アドリブを終え2コーラス目にさしかかろうというとき、道路の向こうから誰かが叫んだ。

孝太だ。


「大変だ!!おーいかっちゃん!克彦ー!」


「何したんだよ、そんなにあわてて」


せっかくのセッションが台無しだ。僕のあからさまな不機嫌な顔にも、孝太は何も気づかなかった。

よほど急いで駆けてきたのだろう、息が上がっている。


「落ち着けよ、何があったんだ?」


「エイティが……」


「エイティがどうしたの?」


思わずれーこさんも口を挟む。


「店が、エイティが、めちゃくちゃに荒らされてる!!」


僕らは顔を見合わせた。



「すごい……な」


まるで他人事のようにマスターがつぶやく。洋酒棚は倒され、原酒がほとんど割られていた。高価なカットグラスもみんな粉々だ。

CDもあちらこちらに散乱している。ただ、こっちの被害はそれほどでもない。


「レコードは、もう無理だろうなあ」


未だにLPで聴かせていた名盤も、あるものは欠け、あるいはひび割れていた。イスとテーブルは壁に叩きつけられたように倒れている。


「どうしてこんな」


僕は呆然としてつぶやいた。れーこさんは青ざめた表情のまま無言だった。


「鍵がこじ開けられていたよ。泥棒に入ったはいいけど、めぼしいものがなかったんで腹いせにやったんだろ」


マスターがどこか投げやりにそう答える。


「それにしたって何もこんなにめちゃくちゃにしなくたっていいのにな。あーあ、このレコードなんかもう売ってねえぜ?」


店を開けるとき居合わせた孝太とマスターが第一発見者だった。すぐ警察に届けたけれど、頭の固い彼らは現場保持と主張して譲らず、何とか片付けを始められたのは夜の八時を回っていた。


「こりゃあしばらく休業だな」


知らせを受けて駆けつけた常連の瀬尾さんが、マスターの肩に手を置く。


「ホントに取られたものはないんですか?」と僕。


「ああ、ない。警察にもしつこく訊かれたけれど、金庫は無事だったし、オーディオ関係でなくなった部品すらない。そういったもんに興味がなかったんだろうな」


マスターはどこから手をつけたらいいものかと思案顔でそう言った。


「エイティへの嫌がらせとか」


「それにしちゃ酷すぎねえ?」


僕らが口々に勝手を言い合う。


「マスターへの個人的な恨みってとこですかね」


「あのなあ、かっちゃん!こんな善良な市民をつかまえてだな!」


「痛て、僕がやったんじゃないですよ!じゃあ、何だろう。こんなにハデにかき回してってことは……」


思わずみんなで顔を見合わせる。何かを、探すために?口には出さないが、みな思い浮かべたことは同じだったらしい。


「片倉ちゃん、幻の名盤とか持ってたの?」


「あのさあ、ここはガンコ親父がジャズのうんちくをたれるような高尚な店じゃないよ?あくまでも生が売りもんなんだから。店にあるCDもLPも、どこにでもあるありふれたもんだよ。はあ、みんな腹減ったろ?何か作るよ」


ため息をつきながらマスターは立ち上がった。


しばらく誰もが無言だった。


僕らは立て続けに起こったイヤな事件に相当ダメージを受けていた。あれ以来大針さんの行方もわからない。何らかの事件に巻き込まれた可能性もある、とだけ言って警察は何も教えてはくれなかった。


「まさかこのエイティ荒し、博史ちゃんと関係あるっていうんじゃないだろうね?」


瀬尾さんが心配そうにマスターにささやく。静かすぎる店内では、それでも十分みんなの耳に届いた。


「そりゃあないでしょう。まあ、ドラムショップの方も音沙汰無しみたいだけど」


マスターが食器類を出す音が聞こえる。そちらは無事だったのか。

瀬尾さんの顔がくもる。大きなため息。マスターとも大針さんとも古くからの付き合いだと聞いている。


「博史ちゃんも前はハデにやってたからなあ」


その口調に僕は何か引っかかるものを感じた。反射的に問いかける。


「えっ?ハデにってどういうことです?」


「ボストンにいた頃にね手を出してたらしいんだよ、あっちの方に」


「瀬尾さん!克彦にゃ関係ないっすよ!」


マスターの声は鋭かった。瀬尾さんが口をつぐむ。


「どういうこと?ねえ瀬尾さん!マスター!」


「いいのいいの。かっちゃんは知らなくていいことだよ」


取り繕ったようななだめ声のマスターに、僕は食ってかかった。


「大事なことかも知れないんだ!マスター、何か知ってるなら教えてくれよ!」


「……バンドマンの遊びさ。昔の、ね」


苦々しくマスターがつぶやく。


「それって、こないだの刑事さんが言ってた逮捕歴ってヤツ?」


マスターは僕の声が聞こえなかったかのように、黙って作業を再開した。

とても声をかけられる雰囲気じゃなかった。大人の事情だ、察しろと言われているようで僕は唇を噛む。


嫌な沈黙を切り裂くように電話のベルが鳴り響いた。

はっとしたように皆の視線がカウンターに注がれた。受話器を取った瀬尾さんが、声を落としてマスターに話しかける。


「杉本からだけど、どうする?」


「そうか、今日里帰りライブでもやるかって言ってあったんだ。こういう事情だからって言っといて」


小声のやりとり。みんなやりきれないという顔。こんなことがなければ今夜は賑やかに盛り上がれただろうに。


「杉本、いつ帰ってきてたんだ?まだバークリーは授業がある時期じゃねえの?」


「なんでも親戚に不幸があったらしくって、一週間でとんぼ返りだって言ってましたよ」


新井さんが、みんなの分のコーヒーを配って歩く。


「それじゃあ、店が復旧するまでには間に合わねえな。かっちゃんは杉本知ってるの?」


瀬尾さんの問いかけに、僕は答える変わりに肌身離さず持ち歩いているギブソンを持ち上げて見せた。


「へえ、こりゃ見覚えあるぜ。杉本ご自慢のターギじゃねえか」


「もらったんです。僕のはこないだの事故でばらばらになっちゃったから」


僕の言葉に瀬尾さんはしんみりとした表情になった。災難だったよな、と。


「何か曲でもかけようか」


オーディオは壊れてないと言っていた。わずかながらでも無傷なCDはありそうだ。イヤな雰囲気を振り切るかのようにれーこさんがそうみんなに声をかけた。

立ち上がりかけた彼女を制して僕はCDラックに近づいた。


「いいよ僕がかける。何がいい?」


「ハデなのないかい?こう、ぱあっとにぎやかなヤツね」


「へいへい、ハデなのね」


僕は残っていたケースの背を指でたどる。


「カウントベイシーなんてどう?」


「最高だねえ」


瀬尾さんがすかさず合いの手を入れてくれる。こんなときには大人数の分厚い音が聴きたい。

トランペットパートの高らかな響きを期待して、僕はビッグバンドのCDをかけた。


CD特有の静けさのあと、出てきた音はしかし弦楽器のゆるやかなメロディだった。


「何じゃこれ?おいおい、エイティは何か?クラシック喫茶か?」


期待をそがれてみんなががっくり来るのが感じられた。僕は一人焦って言い訳をする。


「えっ?えっ、だってこれジャケットは確かにアトミックベイシーだよ?」


「でも、これはどう聴いたって、モーツァルトだと思いますよ。弦楽四重奏曲ですね」


いつも冷静沈着な新井さんはクラシックにも明るい。その言葉にマスターが声を荒げる。


「冗談じゃねえ!この店には一枚たりともクラシックなんぞ置いてねえぞ!」


むかーし音大すべってから片倉ちゃんさ、クラシック嫌いなんだよ。小声の瀬尾さんの解説にマスターは憮然とする。


「じゃあ何で、こんなものがここにあるわけ?誰かが置いてったってこと?」


「誰かって、誰だよ?」


「そりゃあ……、犯人?」


自分でもなぜそう思ったかわからなかった。でも思わず僕はそう口にしてしまっていた。


みんなが顔を見合わせる。いや、ただ一人を除いて。


れーこさんはこれ以上ないくらい悲壮な表情で立ち上がると、表に飛び出した。


「れーこさん!」


僕の叫び声も届かず、彼女は階段を駆け下りていく。僕はそのあとを必死に追いかける。

なぜ?なぜ彼女が?どこに行く気なんだ?

あと少しで手が届かない。僕は見失うものかと彼女の背中を追い続けた。



表へ出ると、煉瓦敷きの舗道がうっすらと濡れていた。

雨か。

その中をれーこさんは大通りに向かって駆けていた。客待ちのタクシーにそのまま乗り込む。僕は必死にその車めがけて走り寄る。


「本町にやって!」


れーこさんの叫ぶような声だけを残して、車は無情にもスタートしてしまった。すんでの所で置いてかれた僕は、すぐ次のタクシーに乗り込もうとした。しまった、全くの手ぶらだったんだ。一銭も持ってやしない。


「お客さあん、乗るの?」


不審そうな運転手にひきつった愛想笑いを返すと、僕は今来た道を猛スピードで戻った。そのうちにも、れーこさんを乗せた車はどんどん遠ざかってゆく。


「ちっきしょう!」


れーこさんのあのあわてよう、尋常じゃない。何かに気づいたんだ、きっと。彼女も何か知っている。

本町。れーこさんはどこへ行こうとしているんだろう。ほん……ちょう。


三段抜かしで階段を駆け上がりエイティに飛び込む。みんなの視線が一斉に僕をとらえる。


「誰か!タクシー代!早く早く!」


僕は店に飛び込んで叫んだ。


「おいおい、どこに行く気だ?礼子ちゃんはどうしちまったんだい」


そんなのんびり話している暇なんてない。僕は新井さんが差し出した万札をひったくるとドアを思いきり開けた。


「行き先ぐらい言え!」


僕の背中にマスターの怒鳴り声。


「そんなの僕にもわかんないよ!れーこさんは本町に行くって!」


「本町ったって広いぞ!ただ闇雲に行ったってしょうがないだろう!」


瀬尾さんの冷静な言葉に僕は思わず振り返った。唇を噛み、肩で息をする。こんなことをしている間にもれーこさんは。


「本町で礼子ちゃんの行きそうな……JAMか、それとも、大針の……」


ドラムショップ!僕らの心の中の叫びが一致した。

そうさ、もともとそこから始まったんだ。何かある、きっとある。そこに行けば何かが。


彼女にはこのエイティ荒らしの犯人がわかったんだろうか。もしそんなことでもあったら、あのバイクが彼女を襲うとも限らない。あいつらの得体の知れない怖さを知っているのは僕だけだ。

夜更けの駅前をタクシーを探して走った。


だめだ、れーこさん。一人で戦うなんて無理だ。


やっと見つけたタクシーを脅しながら猛スピードでドラムショップへと向かう。

ビニールシートがかけられ、寒々しい大針さんの店にたどり着いたときは、あかり一つ見えなかった。


見当違いか?

ドラムショップ自体はもう使い物にならなくて、取り壊しを待つばかりだった。

シートをめくって中に入る。もしれーこさんがいるとすれば、無傷で残ったスタジオの方だろう。


案の定、地下の第三スタジオへのドアが開いていた。ほんの少し十センチほど。


「れーこさん。れーこさんいるんでしょ?ねえ……」


小声で呼んでみる。返事はない。

僕らも使ったことのある第三スタジオ。ミキシングの機材も入っていてデモテープぐらいなら軽く作れる。

十人編成でもたっぷりと使えるだろう。だが、その広々としたスタジオの中には誰もいなかった。

れーこさんのあのエプロンだけが、床に落ちている。


やっぱりここにいるんだ!


「れーこさん!どこ?ねえ、返事して!」


ガタンという音と、かすかな声がその向こう側から聞こえてきた。小さなドア。壁の色と同化していて普段気づきもしなかった。あわてて飛びつき、思いっきり引いた。


「れ……いこさん」


ドアの向こうには、手を血だらけにしたれーこさんが呆然と突っ立っていた。

髪が乱れ、だらんと下げた左手首から血がしたたり落ちていて、防音の絨毯に血だまりができている。

無造作に置かれたテーブルの上には、何に使うのかもわからない実験道具みたいな器具とばらまかれたCDケース。


「どうしたのこれ、いったい何があったんだよ!れーこさん!」


僕の叫び声にれーこさんはうっすらと目を開けた。


「ちが……う。そうじゃない。何でもないの」


言いかけたれーこさんの身体が崩れ落ちた。僕は手を伸ばしてあわてて支える。とにかく手首の出血を止めるのが先決だ。

近くにあったシールドできつく縛る。


「何が、何でもないだよ。こんな酷いケガ、誰がこんなこと」


「誰でもないの、自分でやったの。勘違いだったのよ、本当に何でもないって」


「れーこさん!」


僕は彼女をかかえ込むようにして抱いた。僕のシャツが赤く血で染まってゆく。


「救急車を呼ぶよ、ね?」


「お願い、そっとしておいて」


僕は周りを見回す。スタジオの裏に隠された部屋、棚には整然と並んだ小さな箱たち。不似合いな金庫。


「この部屋は何なの?何でこんなものがあるんだ」


「何も聞かないで、何も起こらなかったんだから」


れーこさんのつぶやき。息が苦しそうだ。僕は見知らぬ誰かに酷く腹を立てて怒鳴った。


「起こってるよ!これだけあれば十分だろ?」


「あなたを巻き込みたくない、かっちゃん!」


れーこさんは吐き出すようにそう言った。苦しげに目をつぶる。そのセリフはもう聞き飽きた。


「大針さんもそう言ったよ。僕はそんなに頼りないわけ?足手まといなわけ?でもね、僕はもう十分巻き込まれてるよ。何も知らない今のままの方がずっと危険だよ。そう思わない?」


シールドが効いてきたようだ。れーこさんの顔色が少しずつよくなってきた。エプロンを引き裂いて包帯代わりにする。出血のわりには傷口は大きくないようだ。


「違ってたらゴメン。大針さんってもしかしてここで麻薬とかの精製をしてたんじゃないの?」


ためらいがちに口にする僕の言葉に、れーこさんは自嘲気味に片方の頬だけで笑った。


「あの人にそんな度胸があるわけないじゃない。せいぜい、流されたブツを小分けにして売りさばく程度」


やっぱり。僕は息を飲んだ。


「それって、覚醒剤?それともヘロインとか?」


知っているクスリの名前を挙げてみる。僕には縁のないものと思っていた世界がゆっくりと扉を開けてゆく。


「……コカイン、よ。それと大麻。若い子にはほとんど大麻だった」


何で、何でそんなこと。訳のわからない悔しさに、僕はこぶしを握りしめた。



「大針さんが、どうして」


やりきれない思いに僕は首を振る。れーこさんは顔を上げる。力のない瞳。


「バークリーに留学してた頃に覚えたらしいよ。向こうじゃ当たり前だったようだし」


「バークリー?大針さんもそこ出身なの?」


だって彼は、それほどの腕はねえってあんなに寂しそうに言ってたじゃないか。


「行くだけだったら誰でも行けるんだよ、かっちゃん。英語が話せて学費さえ払えれば、ね」


自嘲気味なかすれ声。それが大人?僕にはわかりたくもなかった。麻薬Gメンの言っていた言葉は本当だったんだ。だからって……。


「でもね、大針さんもいい加減辞めようとしてたの。もう若い高校生たちに流すのはイヤだって。だけどせっかくできた販売ルートをあっさりと手放すほど組織は甘くないよね。連中は大針さんに代わるバイヤーを探して、こっちはこっちで口を封じようとした」


「代わりの……バイヤー?」


「あんたよ!かっちゃん!」


声にならない声でれーこさんが叫ぶ。なんて切なげな目で僕を見るんだ。思わず僕は顔をそむけた。何でこんなことに。


「連中はあんたに目をつけたのよ。この先のJAMって店、知ってるでしょ?」


「大針さんが僕の仕事を入れたって言ってた」


「そこを根じろにしてあんたを子飼いのミュージシャンにして。大針さんはそれに気づいたから」


「だから僕に、バークリーに行けって言った……」


れーこさんは今にも泣き出しそうな表情で、声を荒げた。


「そうよ!何で行かないのよ!あんたは本物のプレーヤーになれる。こんなとこでバカなことに巻き込まれてる場合じゃないのよ!」


どうしてそんなことまで、僕のつぶやきは途中でかき消えた。答えは聞かなくてもわかっている。僕の腕の中でれーこさんの身体が震えている。


「もう、やめたわよ。あんなもの」


かすれた彼女の冷たい笑い声。


「コカはやらなかった。大針さんが止めたの、絶対にやるなって。二度とマイクが持てなくなるって。向こうでいくらでも見てきた。サラボーン並みのボーカルの声が、クスリのせいでだんだんにやせ細っていくのをって。だから一度しかやってないわよ。バカみたいでしょ?笑いたければ笑いなさいよ」


「れーこさん、わかっているならどうして!」


「かっちゃんにはわかんないよ」


「わかりたくもないよ!そんなこと!」


れーこさんが僕に向き直る。辛そうな苦しげなその瞳に、僕は目をそらせなくなっていった。


「わかんないよ、今のかっちゃんには何でもあるんだもん。大針さんが何で売やってたかなんて。大針さんはね、本当にミュージシャンになりたかったの。ううん、今でもそう思ってる。真剣に、心から。

でもね!力がないの!どんなに音楽が好きでもわかんないの!何の音を使えばいいのか、どう歌えばいいのか。あの苦しくなるほどすごい音はどうやったら出るかなんて。ねえ、かっちゃん教えてよ!あたしたちにはわかんないのよ!」


僕は何も言い返せなかった。ただ一人、また置いて行かれた。僕にあるのはただ、誰にも見えない未来という時間だけだというのに。


「あんたくらいのときに歌えることに気づいてたら、こんなあたしでもイミテーションくらいにはなれたかも知れない。そうすれば今は偽物でも、いつか本物に変われるかも知れない。胸を締め付けられるようなあの音が、自分のものになるかも知れない。でも、もう遅いのよ。今からじゃ間に合わない。」


堰を切ったように流れ出る感情。甘えん坊で陽気なれーこさんの心に隠されていた激しい思い。

僕に受け止められるのだろうか、ただ聞くしかできなかった。ただただ、黙って。


「カオリはね、すべて承知で、それでもステージに上がってる。辛くても、自分に力がないことを知りつつも。すごい精神力だって尊敬するわよ。本気でね。あたしはとっくに逃げ出したってのに。


大針さんだけ、それに気づかないのよ。あの人はまだ音を追いかけている。ひょっとしたら本物を見つけられるかも知れないって信じてる。それを誰が止められるっていうの?止めろって言える?おまえには才能はないのだからって、はっきりと面と向かって言わなきゃいけない?」


「だからって……」


「だから、辛い現実を忘れてしまいたい。ううん、忘れたいのは今の自分じゃない。あんたぐらいの頃の間抜けな自分。自分がどれほど選択肢を持っていたかも知らずに、何にでもなれたのに、選ぼうとも選べることすらも知らなかった自分。大嫌いよ。今からじゃ何も選べない。もう何も考えずにバンドをやれる歳じゃないし、現実の自分を持たずに生きていくことは許されない。あたしはただの自称ジャズシンガーではいられない。花屋の店員、ピアノ講師、そうでなきゃいけないのよ。儲かりもしないスタジオを経営して、趣味で楽器を売って、腕もないのにミュージシャンごっこなんてしてちゃいけないのよ!」


思わず抱きしめた腕にそっと力を入れる。それ以上しゃべらないで、傷に障るから。


「大針さんはミュージシャンごっこをしていただけなの。自分では気づいてないけれど。大の大人がごっこ遊びをするために払った代償よ。だってしょうがないじゃない、いくら頑張っても本物にはなれないんだもの」


れーこさんの言葉が一瞬途切れる。僕はそっと辺りを見回す。ごっこ遊びの代償にしては、失うものが多すぎる。バカだよ、大針さん。頼りない気弱なバンマス。僕はみんなはそれでも彼が大好きなのに。



「誰かがここに来たんだろ?」


れーこさんは答える代わりに小さくうなずく。


「ここで取り合いになって、あたしが自分で手を切ったの。全部持ってかれちゃった」


「証拠にでもなるものがあるの?」


僕は思わず息を飲む。そんなものがここにあったのなら。


「CDにね、書き込んであったの。全部で四枚あったはず。コカインの取引先リスト。危なくなったらそれを持って警察に行くんだって、大針さんはいつも言ってたから。でも相手も同じこと考えてたみたいで、先を越されちゃった。一番重要な取引先を書いたヤツはもうここにはなかったから」


「れーこさん、どうしてそれを?」


「あんたがかけたアトミックベイシー。確かあのケースに入れてあったのよ。でも中身はモーツァルトだった」


そうか、れーこさんはそれであわてて。そりゃ、普段ベイシーなんてかけることはめったにないけれど。あれだけの枚数のCD棚を一枚一枚探そうなんて誰も思いやしないだろうけど。


「証拠のCDはもうあいつらに渡ってるでしょうね。大針さんも危ないかも知れない。これさえ無事ならって思ってたんだけど」


すり替えられたCDケース。代わりに入っていたモーツァルト。もしかしたら。


「ねえ、もしかしたら無事かも知れないよ」


僕がささやく。ほんの少し芽生えた、奇跡の大逆転への道。


「大針さんがってこと?」


「彼も、その証拠のCDも。れーこさんを追いかけてたのは誰?」


「あんたには教えない」


「大事なことなんだ、教えてくれよ」


幼い子に諭すように、僕はれーこさんに語りかける。でも彼女は頑なに首を振った。


「ダメ、言えない。もういいよかっちゃん、知らなきゃそれで済むかもしれないんだから」


「そんなに組織は甘くないんだろ?攻撃は最大の防御。ねえ、教えてよ」


れーこさんは口をつぐんだままだった。


「……わかったよ、じゃあ訊かない。でもね、れーこさん」


僕が来ていたジャケットをそっと彼女にかけてやる。

今度こそ一緒に歌えたらいいね、どこかのステージでさ。

大針さんとみんなでボサをやろう。心の中で約束した。


「救急車を呼ぶよ、動かないで」


「どこへ行く気なの?ねえ、かっちゃん!」


れーこさんも警察につかまるかも知れないな。いいさ、長期計画でやるだけのことさ。僕らにはこの先、いくらでも時間はある。どんなヤツにだってたくさんの未来はある。今が一番新しい過去、その先はいつも、何も決まっていないただの未来だ。


「かっちゃん!」


ギブソンを肩にかけ直す。


れーこさんの叫び声を背に、僕は歩き出した。


どこへ?



エイティへ。




簡単な引き算だった。

僕の根拠はそれぐらいだったから、あんまり自信はない。でもきっと、この店のどこかにある。

CDを持ち出したのがヤツらとは限らない。この店を荒らした犯人と同じでない可能性だって。

ひょっとしたら大針さんかも知れない。だとしたら彼はどこに隠そうとしたのだろう。

中身の違ったケースだけのアトミックベイシー、あるはずのないクラシックのCD。


なら、モーツァルトのケースには、何が入っているんだろう?


棚からはみ出しているCDの残骸をていねいに探る。英語で書かれた背表紙は虫眼鏡が必要なほど細かくて、どれがどれだか判別しにくかった。


モーツァルト弦楽四重奏曲。


壊される前はABC順に並んでいたんだろう。律儀にもモンクの横に捜し物はあった。ケースをゆっくりと開ける。

中身はやはり、弦楽四重奏曲でも何でもなかった。


無表情な銀色。何も書かれていないレーベル。

この中に納まっているであろう、すさまじい威力を発揮する情報。


警察に行こう、これを持って。

ヤツらが気づく前に。


僕はCDケースをかちりと閉めた。



「まさか、そんなところにあるとは、ね」


僕の背中で冷たい声が響いた。


「こっちに渡してもらおうか。そうすれば見なかったことにしてやる。さあ」


声の主が誰だか、知るのが怖かった。そう、僕は知っている。それでも知りたくはなかった。


「これを渡せば大針さんを返してくれるのか?」


僕の身体がわずかに震えて、ビブラートがかかる。


「ああ、約束するよ」


相手に気づかれないように腕を下に下げる。僕はCDケースをそっとポケットにしまうと、小さく息を吸った。

振り向きざま、反対側に入れっぱなしだったスパナを振りかざす。


「誰がそんな言葉信じるかよ!悪者のセオリー通りのセリフじゃん!似合わないよ杉本さん!」


僕は渾身の力を込めてスパナごと彼に向かっていった。鈍い音がして、痩せこけた杉本さんがふっとんだ。お返しにナイフが飛んでくる。


「うわあ!」


僕がひるんだ隙に、杉本さんが体勢を立て直す。

目だけがギラギラ光っていた。餌を横取りされた野良猫のようだ。


「よこせ」


もう一本のナイフを片手に、杉本さんが一歩踏み出した。思わず僕は後ずさりする。


「い、いやだ!」


「素人には扱えない、よこせ」


僕の背中がでかいアンプにぴったりとついた。

もう後がない。


「あんたを殺したくない。それをよこせ!」


杉本さんの声も心なしか震えている。痛々しそうな歪んだ表情。僕は精一杯の力を込めて彼をにらみつけた。


後ろ手に回した左手で少しずつアンプのボリュームを上げてゆく。音量マックス。そのままスイッチを思いきり入れる。


エイティご自慢の大スピーカーから、周りを轟かす大音量がはじけた!


無音からいきなり部屋中へなり響く音に、彼の身体がびくんと反応する。


行け!


僕はその隙にカウンターに滑り込むと、引き出しを開けてマスターの四百のキーを取りだした。


スピーカーのすき間を抜けてドアから外へと走り出る。転がるように階段を駆け下りると、路上駐車のカワサキに飛び乗った。

マスターのバイクは、いつも整備完璧だ。


背の低い分だけ僕の方が小回りが利いたようだ。杉本さんが道路へ出てくる前に僕は何とかバイクを発進させた。


普段乗り慣れてないバイクは、ちっとも進路が安定しない。それでも必死にハンドルを握りしめ、大通りから海岸へと向かう。

もちろん、免許なんて持ってない。


…警察が来て、僕をつかまえてくれたら…


だが、火曜日の夜中に取り締まりをしようなんて仕事熱心な警察官などいなかった。

土曜の夜ともなれば、路上レースの車が大挙して押し寄せる湾岸の道路。僕は少しばかり、この道を選んだことを後悔した。爆音を立てて猛スピードでバイクを走らせれば、パトカーが飛んでくるだろうと思っていたんだ。でも、高速道路並みの片側三車線を誇るこの道路付近では、この程度の騒音など慣れっこになっているのかも知れない。


ようやく車の音が近づいてきた。パトカーか?

淡い期待でバックミラーをのぞいたが、そんな甘い話はやっぱりなかった。


真っ赤なRX。


RXはやがて僕のバイクにぴったりつくように並ぶと、開けられたウインドウから何かを突き出した。

杉本さんの横顔がうっすらと見える。手にしているのはモデルガン?


違う!オモチャじゃない。本物だ!


ゆっくりと引き金を引くのが僕にもわかった。冗談じゃない!必死にバイクを蛇行させる。めいっぱいスロットルを回すのに、ちっともスピードが上がらない。


逃げろ、逃げろ、逃げ切れ!


僕はただただまっすぐな湾岸道路を、力の限り駆け抜けていった。



杉本さんが身体をひねり、僕の乗ったバイクに向かって発砲してきた。


一発、そして二発目。


動く標的に当てるのが難しいのか、それともわざと外しているのか。僕にはわからなかった。


横を見る余裕もなく、猛スピードで前だけを必死に見つめている。これだけの速度を出して走ったことなんてもちろんない。ほんの少しバランスを崩せば、僕は自爆だ。


三発目。


がつんと衝撃が走った。


タイヤに当たったんだろう、僕とバイクはそのまま緑地帯の草むらに突っ込んでいった。ガリガリと車体のこすれるイヤな音。僕は身体を反転させると思い切り走り出した。痛みなんか感じている暇はない。動いているということは少なくとも骨に異常はないんだろう。

麻痺した頭でぼんやりそう思う。とにかく逃げろ、あの車から。


工場地帯のまっただ中、誰も人なんていやしない。巨大な倉庫群が僕の行き先を阻んでいるようにも思えた。


無人の街。助けなど来ない。


もう、足が動かなかった。


建物のすき間に沿って僕は歩き出した。杉本さんも車を捨てたのだろう、エンジン音が聞こえなくなった。


なぜだ。


僕なんかより夢にもっと近いはずの人が、どうしてこんなことをするんだ!


杉本さん!


肩が重くて仕方がなかった。こんなときでさえギブソンのギターを手放さない自分がおかしくて、僕は笑い出した。


何に期待していたんだろう。


このギターなら、いい音が出るとでも思っていたんだろうか。バークリーに憧れ、ギターを弾くことに憧れ、生バンドのバイトをして、いっぱしのミュージシャンを気取り。


笑いは止まらなかった。


知らないうちに僕は、笑いながら涙を流していた。壁に寄りかかると、そのままずるずると座り込んだ。


もう、どうでもよかった。


大針さんは日常の生活があるってことを知らなかったんだ、きっと。回らない頭でぼんやりそう思う。


テレビドラマや雑誌でのミュージシャンの記事は、虚構でしかない。その裏にある平凡でみっともなくて、きたないけれど一番大切な日常ってものから、わざと目をそらして。


平凡な毎日、花屋の仕事、ピアノのおけいこ。


でもそれがあるからみんな生きてゆけるんだ。


どんなにすごいミュージシャンでも、毎日の生活なんて地味でまともでありきたりの繰り返しなんだろう。でもそれを、ステージやレコードという枠で切り取って、はりつけるからかっこよく見えるだけなんだ。


ジャズは別に、特別でも何でもない。


特別なことなんて、この世界に何もないんだ。



僕はもうじき死ぬんだろうか。



息のしすぎで肺が痛かった。


特別じゃないからみんながわかるんだ。だからこそあんなすごい音が出るんだ。バークリーになんか行かなくても、ジャズはできるん……だ。


「行くだけなら、誰だってできるよ」


ふいに思い出した、れーこさんの言葉。


この世界に存在さえしない何かを期待するから、ありもしないかっこいい非日常を手に入れようとするから。それが手に入らないもどかしさと焦りで大針さんはクスリに頼るしかなかったんだろう。


おそらく、杉本さんでさえも。


れーこさん、約束してたボサノバができなくてゴメン。



かつ……ん。



足音が近づく。

杉本さんが僕を見つけたのだろう。


そういえば僕はまだ、一度も彼のギターを聴いたことがなかった。プロでさえ本気を出したという彼のプレイ。いくらいい楽器をもらったって僕では決して出せない音。

一緒にセッションしようといったのはいつのことだったっけ。



聴きたい!



弾かれたように僕は立ち上がった。

聴きたい、彼のプレイを。まだ間に合うことを教えてあげたい。まだ僕らはいくらでもやり直せる!


途端に恐怖心が僕に戻ってきた。


そうさ、弾き残していた音が僕にだってまだたくさんあるんだ。


僕はまた、思い切り走り出した。一瞬遅れて足音が追いかけてくる。その影に向かってギターを投げつけ、倉庫に逃げ込む。



まだ間に合うんだよ、杉本さん!



パトカーなのか救急車なのか、遠くからかすかにサイレンが聞こえる。パトカーなら僕の勝ちだ。


杉本さんに向かって駆け出した瞬間……。




辺りが百個の太陽を集めたかのように光った。

最初僕は、コンビナート群の一つが爆発したのかと思った。けれどいつまでたっても爆発音一つ聞こえない。





倉庫群の固まりから見えたのは、巨大なスタジアムだった。一斉につけられたナイター照明。どよめく歓声。


ここまで僕らは来ていたのか。二人とも思わず足が止まる。


そして、僕らの周りに次々と現れるツートンカラーの乗用車。中から十数人もの警官が飛び出してきた。


「杉本!」


音質の悪いスピーカーから流れる怒鳴り声。彼がいかつい警官たちにねじ伏せられる。


僕の……勝ち、か?



僕は思わず力が抜けて壁に寄りかかる。肩で大きくため息をつく。両手を見る。僕はまだ、生きている。

誰かが僕に向かって駆けよってきた。


「かっちゃーん!」


れーこさんだった。


「大針さんも無事だったの!麻薬捜査官の人たちが、ヤツらのアジトにもうちゃんと張り込んでたんだって!」


僕のそばまで来ると、彼女はいつもの明るい笑顔を見せた。照明の下で輝くれーこさんの瞳。


「もう大丈夫だよ、かっちゃん」


僕は黙ってれーこさんにCDを差し出した。笑顔のまま、彼女は涙を流した。何度もうなずきながら。

包帯を巻いた両手で僕の頬を挟み込む。

泥だらけの腕で、僕は力いっぱい彼女を抱きしめた。

れーこさんの身体はほんの少し花の香りがした。



生きている。


ちゃんとこうして、生きているんだ。



髪を縛り働くれーこさん、イブニングでジャズを歌うれーこさん、そして僕の腕の中のれーこさん。


僕の中ですべてのれーこさんが一つになった。



これでいつかきっと、約束が果たせる。いつになるかわからなくても、この先の未来は僕らにちゃんとある。



マリンスタジアムのナイター照明の中、僕はいつまでも彼女を抱きしめていた。



          (了)


北川圭 Copyright© 2009-2010  keikitagawa All Rights Reserved

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