『僕の彼女』
彼女は、僕が帰ってくる時間を知っていた。
夕方になると必ず玄関へ行った。
そして、僕の帰りを待った。
「まだ帰ってこないよ」
そう言われても、彼女は動かない。
玄関に座っている。
車の音がすると、顔を上げる。
違う車だと分かると、また伏せる。
それを何度も繰り返す。
僕が帰るまで。
彼女の名前は、ミミ。
一緒に暮らしているうちに、いつの間にか家族になり、友達になり、そして恋人のような存在になっていた子。
朝、僕が出勤するときには、少し寂しそうな顔をする。
「行ってくるよ」
頭を撫でると、仕方ないな、という顔をする。
けれど僕が出ていこうとすると、玄関までついてくる。
僕が振り返る。
ミミは座っている。
「待っててな」
そう言うと、尻尾を一度だけ振る。
まるで、
――早く帰ってきてね。
と言っているようだった。
僕が他の犬を撫でて帰った日は、少し機嫌が悪かった。
いつもなら飛びついてくるのに、その日は僕の顔を見て僕の匂いを嗅ぐだけ。
「どうした?」
近づいても、そっぽを向く。
「怒ってるの?」
すると、ちらっと僕を見る。
その顔があまりにも人間らしくて、僕は笑った。
「もしかして、嫉妬してる?」
ミミは答えない。
ただ、僕の膝に背中を向けて座った。
僕はその背中を撫でながら言った。
「大丈夫。僕が一番好きなのはミミだよ」
すると、ゆっくり尻尾が動いた。
まったく。
恋人みたいだった。
歳を取ってからは、少しずつ歩けなくなった。
散歩の距離も短くなった。
以前は僕の前を走っていたのに、最後の頃は僕の後ろをゆっくり歩いた。
僕は何度も立ち止まった。
「ゆっくりでいいよ」
僕を見る。
そして、また一歩進む。
僕のところまで来る。
それだけで嬉しかった。
ある夜、僕が帰るのが遅くなった。
玄関を開けると、ミミがいた。
もう立つことも難しいはずなのに、玄関まで来ていた。
「ミミ……」
僕は慌てて抱き上げた。
僕の胸に顔を埋めた。
その体は驚くほど軽かった。
「待ってたのか?」
小さく尻尾が動いた。
「ずっと?」
もう一度、尻尾が動いた。
僕は何も言えなくなった。
抱きしめたまま、何度も頭を撫でた。
「ごめんな」
「寂しかったよな」
「もっと早く帰ってくればよかった」
ミミは僕の手を舐めた。
まるで、
――帰ってきてくれたから、いいよ。
そう言っているようだった。
それから数日後。
ミミは僕の膝の上で眠った。
いつもと同じように、僕の手のひらに鼻先を押しつけて。
僕はずっと撫でていた。
「ミミ?」
返事はない。
「僕のこと、好き?」
静かな部屋。
時計の音だけが聞こえる。
僕は笑った。
「僕はミミが大好きだよ」
ミミの体は、もう動かなかった。
それでも僕は、しばらく手を離せなかった。
彼女がいなくなった翌朝。
目を覚ますと、反射的に玄関を見た。
いつもの場所。
そこには誰もいない。
「……そうか」
声に出した瞬間、胸が痛くなった。
会社から帰ってきても、玄関には誰もいない。
「ただいま」
言ってみた。
返事はない。
いつもなら尻尾を振って走ってきた彼女がいない。
僕は靴を脱いで、暗い部屋に入った。
そして、ふと思った。
僕はこれまで、誰かにこんなふうに愛されたことがあっただろうか。
遅く帰っても待っていてくれて。
機嫌が悪くても、最後にはそばにいて。
何も持っていなくても、何もできなくても。
ただ僕だから好きだと言ってくれる存在。
そんな人は、いなかった。
ミミは僕を疑わなかった。
僕がどんな一日を過ごしていても、どんな顔で帰ってきても、
「おかえり」
と言ってくれた。
言葉は話せなかったけれど、僕には分かっていた。
彼女は僕を愛していた。
きっと、僕が思っていた以上に。
だから今でも、家に帰るときは少しだけ玄関をゆっくり開ける。
もしかしたら、
いつもの場所に座っているんじゃないか。
耳を立てて、僕を待っているんじゃないか。
そんな馬鹿なことを考える。
もちろん、いるはずはない。
それでも僕は玄関を開ける。
そして小さな声で言う。
「ただいま、ミミ」
返事はない。
だけど僕は知っている。
あの子が最後まで僕を待ってくれたことを。
そして僕の中では、
あの子は今も、
世界で一番僕を愛してくれた彼女のままだ。




