蟻
今日も憂鬱な朝がきた。
私は洗面台で、顔に水を叩きつける。
バシャバシャという水音と、泡を洗い流す蛇口の水流の音が混じりあった。
タオルで顔を拭き、ふと目の前の鏡を見る。
私の顔には蟻が一匹、這い回っていた。
蟻は私の顔の上を散歩するようにうろつくと、そのまま左目のまぶたの裏に消えていく。
私はますます憂鬱になって、小さくため息をついた。
私がこの『呪い』にかかった経緯を説明しなければなるまい。
私は小さい頃、虫を――特に蟻をよく殺していた。
いつから始めたのか、よく覚えていない。
蟻の巣に水を流し込んだり、蟻を一匹一匹、丁寧に靴の底で踏みにじったりして殺した。
蟻塚を破壊し、混乱して逃げ回る蟻を見るのが好きだったのを覚えている。
時には角砂糖を地面に置き、たかってきた蟻の群れに家から持ってきた殺虫剤を噴霧したこともあった。
その時の私は、笑っていたのかすら分からない。
嫌悪感からなのか。
それとも、おもちゃのように命を奪う感覚が好きだったのか。
殺虫剤を吹き付けたとき、たかってきた蟻がピクピクと痙攣して動かなくなるまで見届けたが、私はその日のおやつのことしか考えていなかった。
それだけのことをしたら、蟻に恨まれるのが当たり前なことだけは、今なら分かる。
異変が起きたのは、大学生になってからのことだった。
ただ、思えばその数ヶ月前、母から「アンタ、ホクロ増えたんじゃない?」と言われた気がする。
実家暮らしだった私は、家に帰ってバイトに行くために着替えている時に、不意に右のスネに痛みを感じた。
見てみると、小さな黒い蟻が脚にとまっていた。スネを噛まれたのか、鋭い痛み。
慌てて手で払うが、何故か蟻は脚から離れることがない。
よく見ると、それは本物の蟻ではなく、蟻の形の痣のようだった。それにしても、気持ち悪い痣だ。
そう思っていると、痣が、動いた。
皮膚の下を、何か小さなものが押し広げる。
息が詰まり、心臓が一拍だけ遅れて跳ねた。
蟻の形をした痣が、皮膚の中を自在に歩き回っている。
思わず悲鳴をあげた私は、パニックになって蟻のいる皮膚を夢中で叩くが、もちろんただの痣である蟻には全くダメージがない。
その日はバイトを休んだ。
深夜、静寂の中で、皮膚の下で砂粒が擦れるようなカサカサという微かな音が耳鳴りのように響く。
その日から、私の地獄は始まった。
次の日、私は朝一で病院に向かう。
皮膚科の医師に診てもらうが、当然ながら「これは初めてのケースだ」と驚かれた。
その後、いくつかの病院をたらい回しになり、大学病院にも通ったが、結局のところ治療法は見つからない。
大学病院では「こんな痣は見たことがない、研究して論文にしたい」とまで言われた。
「これ、症例として面白いな。学生に見せてもいいですか?」
医学生たちは、私を取り囲んで物珍しいものを見るようにしげしげと観察する。
「うわ、すごい……」
「本当に動いてる」
「初めて見た」
見世物にされているようで、とても気まずい思いをした。
そのくせ何の解決にもならず、私の気が滅入るばかりである。
そうこうしているうちに、蟻の痣はどんどん数を増やしていった。
食べ物――特に甘いものに反応するらしい。私がおやつのドーナツを食べていると、蟻の痣は指先に集まり、手が蟻の形の痣で真っ黒になるさまは絶句するほど。
私の肌の上を歩く蟻を見て、家族も友人も気味悪がる。
食事の時、両親は無意識からか、私の肌を見ないように目を逸らしながら食べていた。
私は手袋をして、服装も露出を減らす。顔もマスクやサングラス、帽子をして、痣を見られないように気を使った。
しかし、そんな不審者のような外見の私を、周囲はますます遠ざけるのである。
バイトでは顔を出さないわけにはいかないので、顔をさらして居酒屋の接客をした。
「あの、顔に蟻ついてますよ」
お客の女性が私の顔を指さす。
それが取れないものだと知ると、「えっ、気持ち悪い……」と声を漏らし、慌てて顔を背けた。
私は項垂れるしかない。しかし、その時、私の中の何かがプツンと切れた。
俯いた私の視界に、女性客の白いブラウスの胸元が映る。そこに、黒いごく小さな点が見えた。きっと、食事の際に飛んだ胡椒か、繊維の糸くずだろう。
だが、私にはそれが、皮膚の下から出てきた一匹の蟻に見えた。
キィキィ。頭蓋骨の内部で蟻が鳴く。
――出てきた! 駆除しなければ、この女の服を食い破り、肌に入り込む!
私は理性を失い、反射的に、客のブラウスのその一点めがけて、思い切り手を叩きつけた。
「何してるの!?」「キャーッ!」
店長が血相を変えて飛んでくる。
「悪いけど、店の評判が下がるから、今度から来なくていいよ。……君、もう限界だろ」
お客の女性は混乱し、叩かれた胸元を押さえながら震えていた。
私の手元には、潰れた胡椒の粒のような、ただの黒い粉末が付着していた。
私は周囲の冷たい視線に晒されてすっかり孤立し、自分の身体の一部である蟻からも逃げられない。頭がおかしくなりそうだ。
お風呂に入るために服を脱いで、洗面所の鏡の前に立った。
ザワザワザワザワザワザワザワザワ。
蟻はおびただしい大群を成して、私の胸から腹から腕から脚、背中まで這い回っている。
一本の隊列になって歩く蟻、てんでばらばらに遊び歩く蟻、一箇所に集まり、黒い塊になった蟻。
それらが皮膚の中で動くたびにムズムズして痒みで夜も眠れず、ときどき噛まれて鋭い痛みに悶えた。
「ううっ……うあああああぁぁぁっ!」
限界だった。
私は叫んだ。泣いた。掻きむしった。
爪が皮膚を破り、痛みが走っても手は止まらない。
それでも無意味だ。蟻は悠々と皮膚の中で歩き回っている。
「もう嫌だ……許して……」私はうずくまり、声を上げて泣いた。
キィキィ。キィキィ。
頭蓋骨の中に響く、無数の小さな鳴き声。
私を嘲る蟻の笑い声だけが、頭の中で合唱していた。
もし、この世界に科学も医療も届かない場所があるのなら、そこへ行って、人間以外の何かに、この地獄を止めてもらうしかない。
とうとう我慢できなくなった私は、藁にもすがる思いで、近所の寺を訪れる。
そこの住職は、どこかの霊山で修行を積んだとかいう、いわゆる霊能力者という噂が流れていた。
私が事情を説明し、痣を見せて懸命に助けを求めると、彼は「私もここまでひどいものは見たことがない」と顔を曇らせ、難しそうな顔をしている。
「随分と蟻に恨まれている。一寸の虫にも五分の魂、あなたは殺生をしすぎた」
「じゃあ、どうしたら治りますか?」
そう聞くと、住職は気まずそうにしていた。
しばし、沈黙が流れたあと。
「……ひとまず、供養はします」
私は蟻の怨霊を鎮めるために砂糖菓子をお供えし、彼にお経を読んでもらった。
だが、きっと効果はないのだろうなという予感がある。
私は痒い腕を引っ掻いた。
蟻は変わらず、皮膚の中を歩いている。
何しろ、殺しすぎたので。
〈了〉




