これはきっと童話の始まり
「出ていって、もらえませんか」
それは民のための正しい願いだと、姫は全くもって疑ってはいなかった。幼い姫が蹲るように下げた頭を冷たく見下ろすのは、大人三人分の高さはあるのではないかとさえ思う程の大きな竜だった。
濡羽色の宝石を敷き詰めたような、鱗に覆われた身体。狭苦しい洞窟に押し込められているため、少々窮屈そうにしている大きな両翼。姫の母の形見であるブレスレットに嵌められたアメジストのような色合いの瞳…。見る限り欠点らしい欠点は見当たらないが、やはり潰されたその隻眼に目が止まってしまう。
きっと戦争の際傷つけられてしまったんだわ、
姫は胸の中で静かに憐れみつつも竜に対しての要求を取り下げるつもりは毛頭なかった。
姫は賢くならなくてはいけなかった。
それが、母の遺言であり、姫自身の存在理由だったからだ。
姫の母は病に伏せていた。
幼い姫を一人残して星に召されることを酷く憂いていた母は最後に
『民のため、賢くあるように』
そう言い遺して冷たくなった。
だから姫は努力していた。
いつか民のために、賢い女王になれるように。幼い姫には少し難しい家庭教師の課題にも真摯に取り組んでいたし、なにが民のためになるだろう、と。日々、頭を悩ませながら過ごしていた。
そんな中大臣たちの会話を聞いてしまった。
「あの西の洞窟の竜をどうするか、」
「民のためにも、いい加減処理しなくては…」
〝民のため〟
その言葉に姫は触発された。
西のどうくつにいる竜が出ていってくれたら、きっとみんな喜んでくれる!
ただただ純粋な善意だった。
民のため、悩ましげな顔の大臣の困りごとを解決してあげるため、姫は午後の授業なんて頭からすっぽ抜けて部屋を飛び出したのだ。
以前、友人と発見した裏庭の壊れた塀の穴を通って西の洞窟まで一直線に駆けつけた。そして、黒々と威厳を放つ竜を発見し、お願いと共に頭を下げているのが今である。
そんな姫に竜は溜息を吐く。
軽い吐息だったが、姫の薄茶の前髪がふわりと浮かび上がった。
「御主、何故吾輩が斯様な場所に閉じ込められているか知らなんだか」
頭に直接響くような声と古めかしい言い回しに姫は少々首を傾げた。
言葉の内容が理解できなかった訳ではない。いや、古めかし過ぎて単語一つ一つを理解できてはいないが、何故かニュアンスだけははっきりと分かった。
しかし
〝閉じ込められている〟
その言葉に詰まってしまった。出ていって欲しいと願われているのに〝閉じ込められている〟?ならば竜は自らの意思でここを出ることはできないのだろうか、と。姫が竜の身体を見回せばその大きな身体を緩慢に動かして竜は足元を揺らす。
ジャラ、と冷たい金属が打ち合う音に姫は息を呑む。大人の胴程もありそうな竜の足首には立派な枷が嵌められていた。そこから視線で辿れば鋼鉄の塊は連なり線を紡いで鎖となり、洞窟内の何処かに繋がれている。
「吾輩とて、好んでこの場に在るわけではない。にも関わらず…御主は、吾輩が何ゆえここに縛め置かれておるのかも知らずに出て行けなどと申すのか」
姫は竜の言葉に唖然と口を開いて黙り込んでしまった。何故竜が閉じ込められているのかも分からない。加えて何故大臣たちが閉じ込められている竜を持て余しているのかも分からない。
そんな姫の事の背景に目を向けられぬ愚かさに、か。竜は呆れにも諦めにも近い溜息をもう一度吐いたかと思えば姫に対して説明を始めた。
今から恐らく六十、七十年前。
竜は姫の祖父に協力し、姫の国は周辺諸国との戦争に勝利した。
姫もその話はなんとなく知っていた。常識の一部のようなものだったからだ。
しかし、竜は姫の祖父に裏切られた。戦争が終わって祖父が王位継承権を得ると竜はこの薄暗い西の洞窟に幽閉され、現在に至る。国は戦争に役立った竜を時限爆弾のように認識し、始末したいが勝機があるかも分からず、いつまで閉じ込めておけるか不安なのだろう、と。竜はそのように推測した。
その内容に、姫は絶句する。
こちらが加害者であったのにも関わらず、閉じ込められた竜にここから出て行けなどと…どこまでバカなことをしたのだろう。
その小さな身体をより小さく萎めて、見るからに意気消沈してしまった姫を竜は静かに眺めていた。
肩の下まで伸ばされた軽そうな薄茶の髪や烟るような睫毛に縁取られ、自己嫌悪に濡れる薄氷を含んだ水の如き硝子玉。握り潰せば簡単に絶命するであろうな、と。
そこにあるのか怒りか、それとも呆れか。
人間であれば所在なさげに片肘をついていたであろう竜は前脚を動かして少し身体を擡げると岩の隙間から差し込む光の色合いに日が落ちかけていることを察した。
「おい、御主、そろそろ日が暮れる。使用人たちが探しているのではないか?」
「…あ!地政学の課題まだ暗記できてない…!!」
姫は西陽の色に悲鳴を上げる。
そうだ、突然飛び出してきたのだから午後の授業はすっぽかし、課題すら終わらせていない。王宮は今ごろ姫が居ないと大騒ぎだろう。
あわあわと口元に手を当てて真っ青になる姫に竜は訝しげな顔をする。
〝地政学〟という単語の次に〝暗記〟という単語が出てきた。…可笑しいだろう。地政学は暗記科目ではない。その土地の固有名詞は暗記かもしれないが、基本的には温められた空気は上に、冷たい空気は下に、など。原理から一つずつ紐解いていく学問だ。まさか、姫の家庭教師は暗記を強いているのだろうか。いや、いくら幼いとはいえ王宮に雇われている教師だ。ある程度学はある筈。ならば姫の勘違いというのが一番事実に近しいのだろう。
竜は数拍考えた後、混乱状態の姫に声を掛ける。
「…週に一度、吾輩が勉学を見てやる。騒ぎが落ち着き次第、ここに来い」
その言葉に姫はぽかんと竜を見上げていた。見開かれた瞳の薄い水浅葱が嫌に竜の網膜に染み付いた。
そんな数奇な邂逅から数ヶ月経ち、姫は少しずつ竜との愛着を形成していた。
何故竜が姫に賢くなるための手助けをしてくれるのか。それは今でも分からない。第一印象は最悪だった筈だ。竜の境遇も鑑みず、出て行けなどと言ったのだから。しかし、竜のお陰で姫は日々賢さに近づいていると感じている。加えて竜に対して一種の愛のようなものが芽生えていた。
竜は賢かった。
竜という生き物が元より人間よりも知能の高い存在だったというのもあるが、姫が理想する賢さに一番近いと感じさせられた。言葉の端々から滲み出る知性も、事の背景について考えられる思慮深さも。それら全てに憧れを抱いた。
だからこそ、竜が姫の勉学を見てくれるのがとても嬉しかった。
週に一度の勉強会。姫が地政学の教科書や羊皮紙などを西の洞窟に持ち込み、竜は岩をその固い爪で削り、文字を書く。竜は姫が自分で考える力を付けるために様々な基礎知識を与え、後は自らで結論を導き出させる、という教育方針を取っていた。
それは姫にとっては大変難しく、答えに辿り着くまで数日掛かることもあった。しかし竜は依然として端的な答えを与えなかった。そして間違っていようともしっかり姫自らの脳を使い、答えを導き出せば竜は満足そうにその隻眼を眇めるのだ。
姫は竜のその表情を見るのが好きだった。何故か自らの存在を肯定されたような心地がした。だから、知恵熱を出しそうな程思考をする竜との勉強が嫌いではなく、寧ろ好きだったのだ。
勿論、着々と賢くなる感覚も好きだった。
家庭教師は突然居なくなったあの騒動から徐々にではあるが正答率が上がっている姫に対し怪訝な表情だったが、成績が上がることは家庭教師の名にも影響するので嫌な顔はされなかった。まぁ、賢くなると言っても正答率が三割から五割程度に上がっただけだが。
母が亡くなってから止まっていた時が、竜との出会いで進み出したようにさえ感じる。
みんな、みんな竜のおかげ。
姫は浮かれていた。
きっとこれは童話の始まりなんじゃないかしら、と。
頭の悪い姫が心優しい竜に出会い、賢い女王になるまでの話。
そんな幻想に踊らされていた日々に突如亀裂が入ったのは、十六歳の姫の誕生日だった。
公爵子息との婚約が決まった。
この国で成人と呼ばれるのは二十歳からだが、社交界デビューは十六歳から行われる。社交界デビューした女子は基本的に婚約者が付けられる。
それに習い、姫に付けられた婚約者は公爵家の長男だった。
彼は春の陽を束ねたような錦糸の髪を持ち、視線を交わせば、まるで海の深淵でも覗いているかと錯覚させられるような深い青の瞳を兼ね合わせていた。顔立ちも凛々しく、姫は最初冷たい印象を受けたが友人と話しているときの笑顔は年相応と言うべきかどうにも人間味があり、可愛らしいとさえ思った。
親しくなりたかった。
互いに恋情を向けることはなかろうとも、醜く老いて死ぬまで傍に在り続ける相手なのだ。例え民のための婚姻であろうとも、家族になるのだから、せめて親愛の情を向け合えるくらいには。
「これはこれは、我が国の誇る愛らしき花では御座いませんか」
良く通る高らかな声に意図せず身体が硬直した。恐る恐る振り返れば予想通り、彼とその〝恋人〟が居た。
「…花、だなんてそんな、」
「大した成績も挙げられず、ただ国庫を消費するだけの存在とただ咲いて枯れてゆくだけの花。言い得て妙だとは思いませんか?」
「…!その言葉は王族侮辱罪に値するかと」
姫の隣にいた騎士が腰に備えた剣に手を当てれば公爵子息はチッと舌打ちをした。それに過剰なくらいにビクッと跳ねると「…わざとらし、」と。子息の恋人が冷たい視線を送り、二人は離れて行く。
「…談話室に向かいましょう」
「えぇ、」
騎士に連れられ、王宮にある談話室に向かう。姫の部屋でも良かったが、婚約者のいる女の部屋に入ることは流石の騎士でも憚られたようだった。
姫は何故彼に嫌われているのか分からない。ただ一つ推測するとしたら、それは彼に恋人がいる、ということだろう。恋人と結婚したかったのに、姫との婚約が決まったせいで恋人と結婚できなくなった、というのが嫌われている原因だろうか。貴族社会ではよくある事なのだから、本命の女を愛人にしてしまえば良いのではないか、と。まだ成人も済んでいない姫は短絡的に考えてしまう。いや、姫という生き物故だろうか。個人より集団のため、民と言う名の国家のために動くべきだと考える嫌いがある。
だからこそ、姫はどうしたら良いのか分からないのだが。どれだけ心を尽くそうとも毛嫌いされていては意味がない。婚約者として仲良くしたい、だなんて言うことは流石の姫でも愚策だということくらい分かっていた。
「姫、どうか私と逃げてはもらえませんか」
談話室のソファまで誘導され、ゆっくりと腰を掛けたときのことだった。
突然騎士が口を開いた。
そして、突拍子のないことを言った。
彼は王宮の裏庭にある壊れた塀の穴を共に発見した友人であり、いずれ姫の騎士になる人間だということで幼い頃からの交流がある。彼のことは身近な人間の中で一番信頼しており、気が置けない友人であった。
そんな彼は琥珀の瞳に真摯な光を宿して姫を見た。強い視線を向けられ、これを冗談だと受け流せるような頭は、元よりなかった。
姫は瞠目してしまう。
姫の中には元より逃げるという選択肢が存在していなかった。
だが、今回の騎士の言葉に心が揺らぐ。
確かに、逃げてしまえば良いのだろうか。
心を開いてくれない公爵子息に無理に向き合わなくても良い。賢くなるために必死に考える力を付ける必要もなくなる。賢くなれない現実に打ちのめされることもない。
姫一人では逃げたとて直ぐに追手に捕まってしまう。けれど日々鍛錬を積んでいる騎士である彼となら、人間の中で一番信頼している彼となら。国家からの逃避行でさえも、きっと楽しいものになると思えた。
「私は、貴方様のためならば地位も俗世も、全て捨てて構いません。
ですから、どうかこの手を取っては頂けませんか」
騎士の言葉はどんな砂糖菓子よりも甘く、姫の胸に溶け出してゆく。
この世のどんなものよりも甘い、天上の甘露。
その言葉に操られるように姫はゆっくりと騎士の白い手袋の嵌められた手に自身のそれを重ねようとした。
けれど、差し出した手の首に嵌められたブレスレットの紫の宝石が、まるで姫を咎めるかのように光って見えた。
「…ありがとう。気持ちだけ、受け取っておくわ」
途端に震え出した手を胸の前で抑え、騎士の申し出を断った。その返事に騎士は痛ましげな、憐れみを含んだ目で姫を見たが、返事が変わることはないだろうと悟るとそれ以上は何も言わず、ただ傍に在ってくれた。
その姿に
あぁ、断って良かった
と。一種の安堵が姫を襲った。人のためにここまで心を砕き、胸を痛め、自分のことのように考えられる心優しいこの騎士の人生を破滅させてしまうのは、どうにも心苦しい。だから、この人の全てを奪ってしまう前に、姫の母は止めてくれたのだろう、と。形見であるブレスレットを擦り、姫は騎士の注いでくれた紅茶を呑んだ。
だが、苦しいのは苦しいのだ。
姫はその日終わらせるべき授業や課題を全て終わらせ、習慣になっている竜との勉強のため、西の洞窟を訪れていた。
「……どうした。浮かぬ顔をしておるな」
「…ッ、」
竜の純粋な労いの言葉に姫は涙腺が決壊したように泣き出した。歯を食いしばりながらも息を殺そうと「ぅ、は…」などと嗚咽を漏らし、ぽろぽろと涙を零す姫に日頃からこのように泣いているのだろう、と。それを竜も察することができた。
「もしや、許嫁か?恋仲の者がいるゆえ、御主をいたぶるのが辛いとでも申すか」
姫は横隔膜や腹の痙攣にしゃくり上げながらも、何度も首を縦に振って竜に縋り付く。
それに竜も数拍考えるような素振りをする。
そして頭を軽く撫でてやれば姫は段々と零す涙の量を減らし、しゃくり上げる声だけが残る。
「……それほどまでに、辛いのか」
「…辛いです。…本当は、彼の誘いに乗って、逃げてしまいたかった」
目元をぐしゃぐしゃにしながら姫は肯定する。騎士の誘いに頷いて、逃げてしまいたかった。彼との逃避行はきっと楽しかった。見たこともない景色を見たり、食べたことのない食べ物を食べることだってできた筈だった。
彼を巻き込みたくないの
でも、辛いの
また薄茶の睫毛に露を増やす姫に竜は何かを決めたのか身体を離す。突然拒絶するかのような素振りに姫は困惑して竜を見た。ペールブルーの輪郭は涙に溶けてしまいそうだった。
「これを持って行け。もう、泣くでない」
手渡されたのは、小さな石だった。
洞窟の隙間から差し込む西陽が黒くも見えるような深い青紫の石の内部を、きらきらと煌めかせる。
姫はただ純粋に綺麗だと思った。しかし、続けられた竜の言葉に呼吸が止まる。
「これは毒だ。本当に、もはや耐え難いと思うた折にだけ、口にするがよい」
〝毒〟
その単語を耳にしてから指先が震える。あれだけ現実から逃れたいと思っていた筈なのに、本能的に死を恐れているのだろう。美しいと思っていた筈の石が急に恐ろしい色に見えて仕方がない。
「これを呑み下せば、あまりの苦しさに胸を掻きむしり、喉は爛れ、泡を吹いて事切れるであろう。……それでも構わぬと思うた折にだけ、口にせよ。良いな?」
「…は、い」
これはきっと、竜なりの優しさなのだ。最後くらいは姫に勝ち逃げさせてやろう、との。
姫はもらった石をハンカチで包み、恐怖に止まった涙を拭いながらその場を後にした。
◆
限界だ。
姫はハンカチから青紫に光る宝石を取り出すとそれを迷いなく口に運んだ。
国王夫妻主催のパーティー。
本来ならば婚約者と参加するはずのそれに公爵子息は姫を連れなかった。姫は文句を言うこともできず、騎士はまた苦い顔をしていた。騎士は恐らく『変わりに私を連れて下さい』などと言おうとしていたのだろう。だが、姫は頷かない。これから騎士に婚約者が付きにくくなるだろうとの思いから、決して。
一人壁の花として佇んでいた姫にダンスを終えた公爵子息とその恋人が近付いてくる。なにか理由を付けて逃げようかと考えたが父親と継母がいる前でそのようなことをすれば後からなにを言われるだろう、と。そう考えている間にその恋人に腕を引かれた。右の、腕を。
「あ、すみません、落としちゃった」
「おやおや…すみません、私も手が滑ったようで」
「…ぁ」
腕を引かれたと同時。
その恋人は人差し指でブレスレットを引っ掛けたかと思うとそのまま地面に落とした。かちゃん、と金が連なって大理石にぶつかる。割れなかったことに安堵したのも束の間。隣の公爵子息がその手に持っていたステッキを紫の宝石に打ち付けた。
嫌な音がした。
破裂に近い、パキッとアメジストにヒビが入った音。ゴンッと真鍮のフェルールが大理石に強打された音。それらが合わさったガシャッというような音が嫌に耳に響いた。
思わず公の場であることも忘れて、崩れ落ちるように膝をつく。
これは、姫の母が唯一残してくれたものだ。女王であった母の財は全て国の財として管理される。けれど、このブレスレットだけは姫に、と。遺書が残されていたために与えられた、姫の心の拠り所。
連なる金を下から掬い上げると砕けた石の細かな粉末が舞う。
はっ、はっ、と浅く呼吸を繰り返す。ダメだ。耳から心臓が出そうな程、拍動がうるさい。
「弁償でも致しましょうか?いやしかし、これは元より国の財。貴方様が占領するものではないでしょう」
飄々と言ってのける子息に、姫は喉の奥から絶叫が飛び出してしまいそうな心地がした。
ひどい、ひどいひどいひどい!
どんどんと息が荒くなる。
怒りなのか悲しさなのか。色々な感情が綯い交ぜになって噛み締めた筈の奥歯がガチガチと鳴る。
───誰か、助けて。
無意識に父親のいる方向に頭を擡げてしまった。このような酷い現場に出会したのなら、娘を庇うような言動の一つでも見せてくれると思った。
しかし、そこにいた男は所在なさげにこちらを眺めていた。隣の継母も、ただの傍観者だった。
胸に抱えたブレスレットが嫌に冷たく感じる。
今になって、姫は母親の遺言の意味を理解した。
「ふ…あはっ」
限界だ。
脳のキャパシティを優に超えた理解に姫の身体はぐらりと傾いて、入口で警備に当たっていた騎士は駆け出す。申し訳ない、でももう分かってしまった。
母親は姫に、暗に〝居なくなれ〟と言ったのだ。
両親は姫の存在を持て余していた。初めから王位を継がせる気などなかった。それを分かっていた母は様々な政治的意図に振り回されるであろう姫を一人遺すことに心を砕いて、最後の最後に『心を壊す前に、どうか賢い選択をするように』と。そう言ったのだ。それが姫のためでもあり、なにより税を納めることのない穀潰しを消すという点において、民のためでもあったのだろう。
やはり竜は優しい。
竜は全て分かっていたのだろう。姫がどのような立場に置かれているのか。これから、どのような末路を辿るのか。だからこそ、このような選択肢を与えてくれたのだろう。
床に額をついて胸ポケットからハンカチを取り出す。そして青紫の石をその細い指先で摘んだ。不思議なことに、以前あれだけ震えた恐怖は襲って来なかった。
背筋を伸ばし、天を向く。まるで見せつけてやるような構図。可憐な少女が果実を摘んで口元へ運ぶ、絵画のような光景だった。
…しかし、水も介さず飲み下したというのに思いの外すんなりと喉を下った。胸の苦しさも今のところない。拍子抜けする感覚に目蓋を開けば姫の身体の周りには二周りも三周りも大きな影が落ちていた。ささくれのような心当たり。瞠目して無意識の内に はっ、と軽く息を吐く。
「これはまた……随分と狭きところだ」
馴染み深い声に振り返った。あの美しい竜がいた。
なんで、こんな場所に…
口から疑問が漏れていた。加えて、何故死なないのだろうか。話には悶え苦しんで死ぬのだと言っていたのに。
困惑気味に憔悴した姫を見て竜は にまりと笑う。これは、初めて見た表情だった。
「御主を攫いに来た」
その言葉と共に姫の目尻からはぽろりと涙が溢れた。何故かは分からない。混乱状態のままだ。でも、それでも、もうなにも心配しなくて良いんだ といった得も言われぬ安心感に涙腺が勝手に緩んだのだ。
竜はそんな姫の様子にくつくつと喉の奥を震わせると前脚を使って姫を掴んだ。姫の身体を胴の方に抱き寄せ、しっかりと抱えると竜は天井のシャンデリアを押し上げながらズリズリとバルコニーに近づく。そして空いっぱいに両翼を広げると脚でバルコニーを蹴り、破壊しながらも勢いを付けて宙を舞った。
遠くから姫の名が呼ばれたような気がした。竜の腕から顔を覗き、王宮を振り返ろうとすれば「落ちるぞ」と竜が抱え直す。見上げれば竜の顔が近かった。滑らかな鱗の質感に頬を擦り寄せれば風が髪に空気を含ませた。
あれ、飛んでいるんだっけ、
なんだか目まぐるしく状況が変わったために色々と事態が掴めていない。
「あの、どうしてあそこに来られたのですか?閉じ込められていたのでは…?」
「ああ、それは御主が吾輩の“逆鱗”を呑んだからに他ならぬ。それゆえ、封は解かれたのだ」
〝逆鱗〟。読んで字のごとく逆さまの鱗。
それがどのようなものかは分からなかったが、姫が飲み込んだものとなるとあの毒と称された青紫の石のことだろうか。
「なぜ…逆鱗を私にお渡しに?」
「逆鱗を呑み下した雌は、その竜の番となる。そして竜という生き物は、いかなる枷に縛られようと、番のもとへと飛びゆく力を持つ。故に吾輩は、御主のもとへ辿り着けたというわけだ」
なるほど、と姫は頷いた。あの石は竜の逆鱗。そしてそれを毒と称して飲ませたのは、亡き母の遺言から生きている内は決して逃げないであろう姫を一度殺し、俗世から解放するため。恐らく姫から聞いた母親の遺言の意図に気付いていたのもあるだろうが、竜の思惑通り一度死んだ身なのだから社会的、血統的制約から逃れたとて罰は当たらんだろう、という竜なりの気遣いだろう。それか、あの薄暗い洞窟から自らを解放することを報酬として選んだのかもしれないが。
現実味のない高所での思考は妙に冴えている気がする。いや、結論だけを与え、その結論に至るまでの過程を自らで考えさせる竜の教育方針が効いたのかもしれない。なるほどなるほど、と。何度も頷く姫にはあと一つだけ疑問が残る。
「あの、番とはなんでしょう?」
番、初めて聞いた単語だった。竜の生態を紐解く上で当然のように存在する単語なのだろうか?番という関係性のメリットははっきりと理解できたが、それは人間で例えると〝親〟〝子〟〝兄妹〟そのどれかのような効力を発揮するようなものなのだろうか。
姫の問いに竜は怪訝な表情を浮かべる。あ、呆れられた。
十年程の交流で異種族であろうとも互いの表情はいとも容易く読み取れる。これまではいくら分からないものがあろうとも皺眉筋の一つも動かさなかった竜が前頭筋を吊り上げ、薄く口を開いてここまで分かりやすく呆れを表現するのに驚いてしまった。逆鱗を飲み込んでから、明らかに表情が豊かになったと思う。…気の所為だろうか。
首を上向きに擡げてその表情に目を凝らそうと背骨を伸ばせば、顎と喉の境目のようなところの鱗が一枚剥げていることに気がついた。なるほど、これ程の近距離でなければ見つけられないな、とは思いつつもどの生き物にとっても急所である筈の場所にある一枚だけの逆鱗。それを手渡されたことはどうしようもないくらいの信頼と特別なのではないかしら、なんて自惚れてしまう。
惚けている姫の顎を爪の先でちょいと触り、竜は視線を合わせた。
「番とは、一方が果てるまで互いを愛し抜く契りのごときもの」
その言葉に、姫はペールブルーの瞳を瞬かせる。朝日をいっぱいに浴びた海の水面のように瞳の表面が煌めく。その様にあんな腕の宝石より、余程価値があるだろうな、と。竜は無意識の内にその隻眼を眇めた。
心臓が、喉のすぐ裏まで競り上がってくる。先程とは打って変わり、期待に胸が高鳴った。
まさか…ねぇ、まさか
恥じらいに熱を持った頬を冷ますように竜の腹に擦り寄って口を開く。
「…死ぬまで、愛してくれるんですか…?」
その問いに竜は鼻を鳴らして是と答えた。
「嗚呼、御主が命尽きるその時まで、愛してやろうぞ」
姫は、弾かれたように顔を上げた。
「嫌です!!…あなたが死ぬまで、です」
…言ってしまった。咄嗟に後悔が過ぎる。
初めて聞いたであろう、少々荒げられた姫の声に竜は瞠目すると理解が追いついたように笑い出した。
カラカラと、耐えきれないとでも言うようにその巨体を震わせて笑うため、姫は振り落とされぬよう必死でしがみつく。そんなことをせずとも、竜は落としたりしないのだが。
だが、大口を開けて目尻に涙さえ浮かべる様子に姫の胸にはじわじわと歓びが湧き上がる。
これまでの交流でそれなりに竜からの信頼を得ているとは思っていた。しかし、今回のように感情を面に出すことなど早々なかった。ずっと、聡明で冷静の代名詞のような存在だと思っていた。
だからこそ、知らなかったのだ。
竜がこのように声を上げて笑うだなんて。
逆鱗を飲み込んでから、いや番になってから初めて見る表情ばかりだ。それが、得も言われぬ程に嬉しい。血が沸騰して全身に巡る心地さえする。姫にとって唯一である竜の、心からの信頼を勝ち取ったような、そんな気がしたからだ。
「相分かった。吾輩の命果てるまで御主を愛そう」
その言葉に、胸が満ち足りた。
ずっとずっと渇望していたものを与えられたような、どこまでも甘美な多幸感に姫は微笑む。
傷一つない白磁の肌は首筋まで淡い朱に染まり、薄氷を孕んだ瞳には透明な膜が張る。淡桃の唇をしっとりと湿らせて蕩けた笑みを浮かべる様はあまりに美しく、ビスクドールのイデアとも呼べた。ここが上空であるのも相まって、妙に現実味がない。この笑みで国さえも傾けられるだろうな、と。竜はどこか他人事のように思った。
姫は背を伸ばして、かつて逆鱗があった場所に口づける。
頭の弱さから自らの語彙では言い尽くせないと考えた姫の返事に、竜は喉の奥をくつくつと震わせた。
姫はこれからの明るい未来について夢想した。これが本当の、童話の始まりであると信じて疑わなかった。
嗚呼、なんと愚かな娘か。
一目見たときから分かっていた。これが正当な王家の血筋の、劣化版であると。
小麦の畑のような髪、秋空を彷彿とさせられる瞳。どうにも皮肉だと思った。竜に二度と空を拝めなくした男とその孫は、いつでも瞳の中に空を宿しているのだから。
竜は姫を賢くすることに尽力していた訳ではなかった。バカは理想が高く、綺麗事を好む。だからこそ、自らの実力で答えを導き出すという行為をさせることによって、理想と現実とのギャップに苦しめば良いと思った。
だが、数年ほど経ってから情が湧き、ある程度端的に答えを教えてやっていたのだが、それにすら姫は気づいていないのだろう。
バカな子ほど可愛いというやつだろうか。
姫が番という関係に歓び、希望を見い出していることに内心笑いが止まらない。姫は、竜に恋愛感情を抱いていない。母親が死んでから、いやそれ以前から父親に愛着を形成できなかったのだろう。父である国王は新たな妻を用意した。先妃が遺した子供は幼い姫一人。これまでの長い歴史から見ても、女が国を継ぐ事例はないに等しい。後妻を迎えることは合理的な判断と言える。
それから無事に男児が二人生まれ、姫が『弟が二人できた』と喜んでいたのを竜は知っている。…あまりに頭が悪い。
それはつまり、姫の存在意義の終わりを告げているというのに。
国王は姫を持て余していた。不要な存在ではあるが、周辺諸国は過去姫の祖父が竜と協力してほぼ壊滅させたため、他国に嫁がせるのは世界情勢から見ても愚策と言える。消去法…いや、随分と悪意に絡め取られた国内の公爵家との婚約が決まり、長男のいじめも容認していた。
だから、幼い姫は竜に愛着を形成した。親のようなものだ。ただバカだから社交界に出るような年齢になろうとも、親といつまでも傍に在るだなんて考えられるのだ。
しかし、竜は姫を愛していた。
気づけば、愛してしまっていた。
祖父への憎しみはそのままに。
孤独と退屈の果て、痛みでさえも快楽に変わり得るのだと知ったあの時の、悪戯に潰した眼球の痕を憐れむように撫でるその柔い手。
そして、自身へ向けられる、あまりにも無垢な愛。
──竜は、絆されてしまったのだ。
そして、もう一つの要因は、姫が竜の言葉を理解できるからだろう。
突然現れた幼子をあの男の孫だと理解できたのは瞳の色が寸分違わなかったということもあるが、竜の言葉に対し内容が理解できないといった反応を示したからだ。
竜を始末したい大臣たちの言葉にも理解は示せる。理解できないことは古代より死に直結する。だからこそ理解不能がなにより恐ろしく、理解されてしまってはそこから逃げ出すことが叶わんのだ。
竜の言葉を理解できるのは竜に近い血統の存在だけ。
竜の討伐隊にあった者の子孫や、竜人と結婚した人間の末裔。その血統でも竜の言葉が分かる存在は少ない。竜という生き物が人間より知能の高い生命であるため、その高位種族の言語を理解できることは〝天賦の才〟と言っても過言ではない。少なくとも竜がその永い時を生きてきた中で出会えたのは、たった一人。
だから、その男の頼みを断れなかった。
初めて理解された。
初めて何気ない会話ができた。
初めて、誰かと共に在れたのだ。
その男が『戦争に協力してくれ』と竜に頼んだとき、拒絶できなかった。この頼みを断ればこれからの関係が気まずくなる。今までのような交流がなくなるかもしれない。この男は人間なのだから、多くの同族の中で社会活動を行える。竜以外に、いくらでも孤独を癒す手段、存在がある。
だが、竜の言葉を理解できるのは、この男だけ。
だから竜は人間の争い事に干渉するなど、良くないことだろうと悟りつつも戦争に協力した。男の国を勝利させた。竜と協力して戦争に勝利した功績が認められ、第二王子だったその男は皇太子の名を得ることができ、竜は安堵した。これで、これからもこの男の傍に在れる。その資格を得た、と。
しかし、王になることを約束された男はその権限を利用し、竜を西の洞窟に閉じ込めた。竜は嵌められた。敵国が用意していた、竜の力を抑え込む専用の枷を嵌められた。信頼が仇となった。
何故あの男が竜を裏切ったのか。
それは恐らく、男の過去を知るからだろう。
あの男はお世辞にも頭が切れる方ではなかった。王に向いているのは美しい金の髪に深い青の目を持つ上、聡明で人間を魅了する、俗に言うカリスマを持ち合わせた彼の兄。そんなのは誰が見ても明白。しかし、竜が関与したことによって、弟にその座を与えるしかない状況を作ってしまった。
だから、竜こそが彼の黒歴史の塊なのだろう。自らの弱さを全て理解している存在。自らが全てを理解している存在。竜の存在が〝恥〟に感じられてしまったのだろう。
それを理解して尚、やはり竜は男を赦せなかった。信頼していたからこそ、自らの中で唯一の存在という役割を担っていた男だからこそ、裏切られたという事実が、受け入れられなかったのだ。
だが姫はあの男と同じ愚図さだというのにも関わらず、最後まで竜に全幅の信頼を預け、親愛の情を抱え続けた。竜の言葉を信じ、毒とされた逆鱗を飲み下す程に。その結果、竜は心から姫を信頼するに至れた。愛と信頼は別物である。
まぁ、だからこそ竜は姫を陥れようとしているのだが。
態とあの場で竜は〝攫う〟という単語を利用したが、公爵坊は竜の言葉を理解できたのだろうか。
あの公爵坊の祖父は竜の因縁の相手の兄である。一応姫の血族のため、竜の言葉を理解できる可能性に賭け、保険として声を上げてみたが…どう転ぶだろうか。
王位を奪った相手の、孫同士の婚約。あまりにも悪意に塗れている。姫への様々な卑劣な態度も血統からの恨みだとすれば当然と言えた。騎士は全て知っていたのだろう。いいや、知り得ないのは姫だけか。
いやしかし、竜を見た先ほどの公爵坊の目。隣の恋人を後ろに庇いながらも竜を睨みつける深藍の鋭い眼光。その身を爛れさせぬのが不思議な程、坊が抱く憎悪は苛烈を極めていた。
ややもすると、姫への淀んだ感情が全て竜に置き換わったのだろうか。ならば竜が討伐された後、姫との和解の道を選ぶかもしれない。竜が姫にとっても敵であったと認識すれば、同じ敵を持つ存在は共同体としての意識が芽生える。歳の差も数年。もしかしたら、妹のように扱われるか。
あの様な公のパーティーで姫を攫ったのだ。元より存在を消したかった竜が姫を攫った。つまり、大臣のような権力者達は戦争に役立った竜を殺す大義名分を得たのだ。これを使わぬ手はない。
これから、竜の討伐隊が編成されるだろう。
そして当然、竜を討った者には大きな褒美が用意される。
ここで活躍するのは姫を慕う騎士である。彼が竜を殺し、姫を国に連れ戻し、褒美に姫との婚約を望めばめでたしめでたしだ。国は竜を殺すことができ、公爵坊は恋人と結婚し、騎士も姫と結婚できる。全てがハッピーエンド。
──ただ一人、姫を除いて。
これ程姫の心を置き去りにした喜劇を前にして、どうして愉快にならずにいられるだろうか。
親を殺された姫は心を砕くだろう。しかし自身のためだからと騎士を恨むこともできない。
そうやって、壊れるまで後悔や自責の念に囚われて、一人孤独に死んでいって欲しいと思う。それは祖父への意趣返しと、姫への愛を両方取れる最善の策だった。
いつかこの話は幼子の寝物語として語り継がれるだろう。
虐げられていた姫が悪い竜に攫われ、勇敢な騎士に救い出される話。嘘は言っていない。こんなにも綺麗に纏っている。
だから竜は嗤うのだ。
あぁ、これはきっと童話の始まり、と。




