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音警  作者: シロトネ
第一章:封音送葬記
8/14

逸脱の再定義

13時02分。市民会館ホール前。城戸は入場レーンの静音ゲートをくぐり、携帯式騒音計の積算を見た。出音44dB。日中指針〈45dB〉内。耳の内側の圧は安定、舌は上顎から離れる。胸郭は細く上下し、呼吸は鼻腔で完結する。体を先に数字へ合わせる――彼の儀式だ。


ホールの扉が開いては閉じ、70dBを越える拍手は登録スピーカーの自動リミッタで平坦化される。壁面の大型表示には、今日の議題が静かに流れていた。


――[議題 13:00]


1. 選音=出音の意図的再編の条文化

2. 誘導(過鎮静/過興奮)の明記

3. 逸脱判定 表記統一

  〈min(±20%×k_age, Z±2.0) が60s〉

4. 医療帯の上限 -18%/60s、ログ公開、即時遮断


受付で端末のQRを読み込む。参加者の胸元には、一時的心拍ログが匿名統計で流れる設定が配られた(表示は個体には返さない)。ホワイエの隅で、少年が指を空に並べている。鍵盤の形に親指がくぐる。周期3.2秒。彼のHR 104→100(-3.8%/90s)。城戸は声を掛けない。声は、今は雑音になる。


外には手作りのプラカード。「静けさは権利」「歌は罪か」。人は少ないが、呼吸の速度は高い。HR 92→101(+9.8%/120s)のボランティアの肩甲骨が張り、ゲートの表示が淡く光る。45dBに抑えられた街が、議論だけを大きくする日がある。


◇ ◇ ◇


13時30分。ホール内は室内積算40dB。吸音パネルの間に、登録スピーカーが34dBの小さな“時間”を配る。登壇者の列に、法制の雨宮、音響課の古参、NICUの工藤、そして監察の城戸。市民側は抽選で選ばれた五人が前列に座る。


司会が淡々と進行する。「最初に、逸脱判定の表記統一から。UI・ログ表記は――」


壁面の白い帯に、大きな一行。


> 逸脱条件:min(±20%×k_age, Z±2.0) が 60s


「読み方は、二基準のうちいずれかを60秒連続で満たせば“逸脱”。k_ageは年齢係数(新生児0.90/乳児0.92/幼児0.95/学童0.97)。Zは過去14日の個体内ばらつきで正規化――詳細式は配布資料へ(増やさない)。UIはこの一行で固定します」


城戸は頷き、続けた。「現場ではmin表記で判読時間を短縮します。判別は即時遮断ボタンの位置に直結するので」


緊張が一度緩む。数字が少ないほど、人は言葉を挟める。


◇ ◇ ◇


次に、工藤がNICUの三分窓を再生した。登録スピーカー、34dB、415Hz±6Hz、周期3.2秒。壁のサブディスプレイに、匿名化したM-23-17のログが並ぶ。


――[NICU WINDOW#4 抜粋]

00:10 HR 148→143(-3.4%)/SpO₂ 90→91

01:00 143→139(-2.8%)

02:40 139→136(-2.2%)

逸脱条件:min(±20%×k_age, Z±2.0) = 未成立(60s未満)

医療帯上限 -18%/60s 未到達


「眠れること自体が被害か救いかは、数字でしか語れない瞬間があります」工藤は42dBで締めた。「だからこそ、minで60秒。短く、そっけなく、誰の体にも同じに」


拍手が薄く起こり、吸音に吸われる。


◇ ◇ ◇


市民側の発言の順番。最初の女性は、団地の廊下で312Hz/2.9秒の模倣に遭った母親だった。「ずるいって子どもが言いました。あの夜、城戸さんが呼吸ガイドを流してくれて……HR 112→104(-7.1%/120s)。minは“未成立”だったけれど、私には救いの数字に見えました」


次の男性は、耳栓を指先で転がしながら言った。「45dBでも、文脈がない音は、刃物です。選音が意図的再編だというなら、誰が“善い再編”を決める?」


雨宮の返答は短い。「誰でもない。標準票が決める。minで60秒。-18%/60s。登録・管理・公開・即時遮断――それだけです」


若い男子学生が立ち、マイクに口を寄せる。「“文脈>量”だと、どこかで読みました。415Hzは街の呼吸だと。なら、312Hzの人たちはなぜ量に走る?」


音響課の古参が41dBで答えた。「415Hzは市の公共ピアノの主峰。3.2秒は換気網の脈動。量を上げずに位相を合わせる。対して312Hzは複製が容易で、35–36dBでも+方向の逸脱を誘う例が多い。文脈を外した“歌”は、ただの騒音だ」


息が一度、会場を巡って戻る。40dBの丘が、低く膨らんだ。


◇ ◇ ◇


休憩を挟み、公開デモ。登録スピーカーで34dBの選音をホール後方に限定して流す。帯域415Hz±6Hz、周期3.2秒、ランダム偏差±0.1s。同時に、ボランティアの匿名心拍を数名分集計し、minのUIを投影する。城戸は観察席から、胸郭の上下を読んだ。


――[VOL#A] HR 98→94(-4.1%/120s)/

min:未成立(60s未満)

――[VOL#B] HR 88→86(-2.3%/120s)/

min:未成立

――[VOL#C(不眠自申告)] HR 106→98(-7.5%/180s)/

min:未成立/Z=-1.7


会場の空気が薄く整う。量ではなく、間合い。城戸は、自分の体が先に納得してしまう癖を意識し、舌を上顎に当てて冷やした。


次に、模倣の再現は禁止だが、紙上デモが示される。312Hz/2.9秒、粗い薄片の角度、ピーク36–37dB。壁の小さな画面に、過去事案の匿名ログ。


――[CASE 模倣#K] 居室幼児 HR 98→112(+14.3%/120s)/

min:成立(Z≥2.0 の60s) → 即時遮断


数字が刃のように並ぶ。拍手は起こらない。人は刃を見て手を叩かない。


◇ ◇ ◇


終盤。条文化の骨格が読み上げられる。雨宮は一語ずつ置いた。


――[条文化・草案 抜粋]

・発音体=出音の生成

・選音=出音の意図的再編(条文に追加)

・誘導=意図により過鎮静/過興奮を招く行為(発音/選音を問わず)

・逸脱判定=〈min(±20%×k_age, Z±2.0) が60s〉

・医療帯=-18%/60s上限、ログ公開、即時遮断、14日単位の審査更新

・市民空間=45dB背景での選音は登録・管理下のみ許可


手を挙げた市民が問う。「“選音”は権利ですか?」


雨宮は首を横に振る。「権利にするには早い。運用に置く。罪でも権利でもない位置に――備考を増やし、帯の厚みを確保する」


城戸の端末が脇で震えた。間合い3.2秒。短文が二つ。


――〈備考は、条文の呼吸〉

〈今夜、外の病棟で三分窓が要る。34dB、-12%/60sを目安に〉


ここで交渉すれば、合意になる。城戸は返信を打たず、ただ数字を胸に入れた。


◇ ◇ ◇


19時過ぎ。会は散り、市民会館の外気は乾いて、耳の内側の圧が少しだけ軽くなる。ホワイエの少年は、帰り際まで無音の練習を続けた。HR 100→97(-3.0%/80s)。城戸は遠くから小さく会釈する。少年は気づかない。それでいい。


庁舎に戻る途中、管制の帯に赤が走った。総合医療棟とは別の、旧産科病棟の個室。登録スピーカー無し、換気網は“櫛”撤去済み。だが、母親の申請メモが残っている。「入眠時の三分だけ」と。


――[ALERT 19:42] 旧産科・個室:HR 142→148(+4.2%/60s)/SpO₂ 91/泣き

――備考:登録SPK無し/NICU外/当直医 許可判断待ち


城戸はホールを折り返し、当直医の判断ラインを確保した。登録スピーカーの携行型が近くの備品庫に一台ある。34dBに制限可能。帯域415Hz±6Hz、周期3.2秒。minの表示をUIに出す設定は既に配ってある。


現場。個室の扉は半開き。母親は肩で呼吸し、HR 102。幼児はHR 148、泣き声が45dBの縁で跳ねる。城戸は短く説明し、当直医の認証を二重に通した。携行SPKのランプが青。対面の壁に固定し、角度を下げる。


――[WINDOW—外病棟#1]

・出力:34dB(室内積算)

・帯域:415Hz±6Hz/周期3.2s(偏差±0.1s)

・上限:医療帯の目安-18%/60s未到達

・表示:逸脱条件=min(±20%×k_age, Z±2.0)


親指が開始に触れる。隣には遮断の赤。ホールで見せた票と同じ並び。今度は観客はいない。数字だけが立つ。


――00:20 HR 148→144(-2.7%)/SpO₂ 91→92

――00:50 144→140(-2.8%)

――01:20 140→137(-2.1%)/呼吸回数 44→40

――02:40 137→134(-2.2%)/睡眠段階:浅→中

min:未成立(60s未満)/-18%/60s 未到達


「停止」城戸は43dBで言い、ボタンを押した。室内は、少しだけ重く戻る。母親の肩が下がる。謝罪ではない、報告の頷き。


そのとき、天井の換気口の内側で、0.02Paの揺れが一瞬だけ立った。3.2秒。415Hzの肩。発音ではない。選音すらない。空気が街の癖を思い出しただけの揺れ。城戸の鼓膜の内側が一拍、遅れて追い付く。


端末が震えた。間合い3.2秒。


――〈窓があれば、退く〉


彼は返信しない。返信すれば、今夜が合意になる。彼が持つべきは数字だけだ。


◇ ◇ ◇


22時。庁舎・運用会議の第二ラウンド。条文化草案は、会場での反応を受けて文言が削られ、短くなっていた。minが中央に残る。雨宮が電子ペンで最後の箇条を閉じる。


「市民空間での選音は、登録・管理・公開と即時遮断が条件。逸脱は〈min(±20%×k_age, Z±2.0) が60s〉で記録。備考として、“文脈>量”の観点を標準票の脚注に入れる――これが折衷です」


城戸は黙って頷いた。頷きは合意ではない。数字の整理だ。壁の時計の秒針が3.2秒ごとに大きく動くように見えるのは、目の疲れのせいだろう。


会議が散ったあと、監察室で報告書の画面が開く。今日の公聴会、三分窓、外病棟、minの票――並べれば終わる。送信の灰色ボタンが微かに青みを帯びた。押せば記録。押さなければ体。赤でも青でもない、灰色の判断。


親指は、まだ浮いている。逮捕状の保留。操作主体の現認は、今夜もない。外で一つ、312Hz/2.9秒の赤が立っては消えた通知が流れ、静かになる。城戸は呼気を3.2秒で長く吐き、吸気を3.2秒で戻した。胸郭の上下が数字に合う。体が冷え、夜が締まる。


押すか、押さないか。今はまだ書けない。

・証拠:公聴会の掲示〈逸脱=min(±20%×k_age, Z±2.0) が60s〉、NICU三分窓ログ(登録SPK 34dB/415Hz±6Hz/3.2s)、模倣事案の匿名ログ(312Hz/2.9s)。

・数値:外病棟三分窓 HR 148→134(-9.5%/180s)・min未成立・-18%/60s未到達、会場ボランティア HR 98→94(-4.1%/120s) 等。

・運用:選音=意図的再編を条文化、誘導=過鎮静/過興奮を明記。市民空間での選音は登録・管理・公開・即時遮断条件。

・動向:312Hzの散発(+方向逸脱誘発)の抑止課題、備考=文脈>量を標準票の脚注に追加。

・仮説:窓が制度内で確保されれば、彼女は退く。逮捕は現認困難。城戸の判断は灰色のまま、次夜へ持ち越し。

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