予備審尋
4時52分。東環状高架の影で、城戸は携帯式騒音計を胸の高さに保った。積算42dB。夜間指針〈45dB〉内。耳の内側の圧は安定、舌は上顎から離れ、呼吸は鼻腔を細く往復する。体を先に数字へ合わせる――いつもの起点だ。
橋脚の継ぎ目に、微かな圧揺れ0.02–0.03Pa。指向性マイクのオシロスコープに周期3.2秒/中心周波数415Hz±6Hz相当の肩が立つ。誰かが置いた薄い“櫛”が二片、風に自壊して足元へ落ちた。彼女か、模倣か。判別はできない。上の歩道で、通学前の少年が指を宙に並べる。HR 104→99(-4.8%/120s)。城戸は声を掛けない。声が、今は雑音になる。
6時台。管制から赤い帯が一度だけ走った。模倣312Hz/周期2.9秒/ピーク36dB。現場対応は別班に割り振られ、城戸の端末は静かになった。今日は昼に予備審尋(仮処分)が入る。彼は胸郭の上下を3.2秒に合わせ、体を冷やし直した。
◇ ◇ ◇
11時。臨時審理室。壁の吸音は厚く、室内積算40dB。透明アクリルの仕切りの向こう、准裁判官席の電子ペンが一度だけ紙を擦る音を立てた。音警(監察)、法制課、総合医療棟(NICU)、音響課、そして市民代理。配席は少数。端末の録音はオン。70dBを越える出音の持込み禁止――当然だ。
法制官・雨宮が簡潔に口火を切る。「申立はNICUにおける登録スピーカー経由“限定選音”の暫定許可。他方、条例は“発音体”に許可枠を設け、“被害”を心拍逸脱で認定する。論点は三つ。①選音が発音体に当たるか、②誘導の成立要件、③逸脱判定の基準表記」
准裁判官が頷く。「では現場の監察官、城戸。まず選音≠発音の技術的説明を」
城戸は模式図を出した。換気ダクト/反射“櫛”/残響カーテン。そして病棟テストのログ。
――[NICU TEST LOG]
・音源:登録スピーカー(病棟管理) 34dB(室内積算)
・帯域:415Hz±6Hz/周期3.2秒(ランダム偏差±0.1s)
・対象:M-23-17
・結果:HR 154→132(-14.3%/180s)/SpO₂ 90→94
・過鎮静フラグ:FALSE(-18%/60s未満)
「“発音”は音を生成し、70dB閾で許可管理。対して“選音”は環境内の既存微音を位相再編する。出音の量ではなく、文脈(流れ)を整える仕組みです。病棟テストは登録機材で行い、34dBに収めました」
市民代理が手を挙げる。「その“文脈”は誰のものですか? “よい歌”を誰が決める?」
「誰のでもない。個体の体内リズムに合わせて“呼吸の間合い”を提示する。医療帯では-18%/60sを上限に置き、過鎮静を避けます」
「誘導はいつ成立する?」第二の論点に移る。
雨宮が答える。「現行条文では、許可なき出音が逸脱を誘うとき“誘導”。“発音体”に限定していた定義を、選音=出音の意図的再編まで拡張する条文化が必要です。過鎮静/過興奮の両方向を対象に」
准裁判官が第三の論点を示す。「逸脱判定の表記をどうするか」
雨宮は一枚の票を映した。行頭にははっきりと――
〈逸脱条件:min(±20%×k_age, Z±2.0) が60s以上〉。
「UI・ログの表記はこの“min( … )”で統一します」雨宮。「意味は二基準のいずれかを60秒以上満たせば逸脱。年齢に応じた相対偏差か、個体内ばらつきを用いたZスコアか。運用現場での可読性を最優先にし、数式はこれ以上増やさない」
城戸が補う。「基準値は個体平常(直近14日夜間の中央値)。k_ageは年齢係数(新生児0.90/乳児0.92/幼児0.95/学童0.97)。Zは同14日から計算。判定表示は常に“min(±20%×k_age, Z±2.0)”です」
医療側の工藤がうなずく。「NICUはこの票に従い、-18%/60s到達前停止。SpO₂や呼吸回数も同時に評価します」
市民代理がなお問う。「しかし“彼女”――匿名配信者の存在が法の外にある限り、制度は抜け道になりませんか?」
雨宮は低く答える。「本申立は“彼女”の行為を正当化しません。登録スピーカー/院内管理/ログ公開/即時遮断――四条件を満たす“限定選音”のみ。外部の“選音”は遮断。同時に、逮捕状は保留継続」
准裁判官が城戸へ視線を戻す。「現場の体感は?」
「数字の通りに冷たい。でも体は嘘をつかない。昨夜の団地で、女児HR 110→101(-8.1%/120s)。病棟でも-14.3%/180s。312Hz/2.9sの模倣は+方向逸脱を誘いがちです。415Hz/3.2sは、量ではなく間合いで落とす。出音45dBの背景に呼吸を返す――そう認識しています」
審理の空気が、わずかに沈む。40dBに収まる紙の擦過。准裁判官の声は平板だ。「本件、暫定許可の要件を確認する。14日間/病室単位/出力34dB以下/-18%/60s上限/逸脱判定は“min(±20%×k_age, Z±2.0)”で60s/ログ公開/即時遮断/外部“選音”遮断/“櫛”“羽”等の無登録機構撤去継続。違反時は直ちに停止――異議?」
工藤が小さく首を振る。雨宮も続く。「条文の“発音体”定義拡張案と、“誘導”の過興奮明記は今夜の運用会議で起草。小田切瑠璃は参考人招致中。所在未定」
市民代理だけが問う。「“彼女”を捕まえないで、制度を先に動かすのですか?」
城戸は答えなかった。代わりに、端末に短文が落ちる。間合い3.2秒。
――〈捕まえるより残す方が先に来る夜がある〉
彼は画面を伏せた。体が先に熱を持つ。舌を上顎に当て、冷やす。数字を並べ直す。
◇ ◇ ◇
14時台。審理は小休止。廊下のベンチで、城戸は工藤から紙コップの水を受け取った。14℃。舌の位置が下がり、喉の筋がゆるむ。工藤の端末に通知が走る。NICU—M-23-17:HR 138→145(+5.1%/120s)/SpO₂ 92→90。昼のケアで泣いたのだろう。工藤が眉を寄せ、すぐ平静に戻した。
「夜までは登録スピーカーのガイドで凌ぎます。-12%/60sを目安に。決定が出たら、三分窓を正式に」
城戸は頷く。まもなく、准裁判官が戻り、決定主文(抜粋)が読み上げられた。
――[決定(抜粋)]
1. 総合医療棟NICUにおける“限定選音”を仮に許可。
2. 条件:34dB以下、-18%/60s到達前停止、逸脱条件=min(±20%×k_age, Z±2.0) が60s、ログ公開、即時遮断、運用14日。
3. 外部“選音”の遮断および無登録機構の撤去を継続。
4. 本件は本案訴訟を妨げず。違反時は許可取消。
決定文が薄く響き、40dBの室内が一度だけ膨らんで戻る。雨宮が短く息を吐く。「運用会議に回す。条文化の草案は今夜」
◇ ◇ ◇
21時04分。NICU個室。限定選音の第1回・三分窓。登録スピーカーの灯が青。城戸は開始タブに親指を置いた。赤(遮断)はすぐ隣にある。青と赤。数字がぶら下がる。
――[NICU WINDOW#1]
00:10 HR 146→141(-3.4%)/SpO₂ 90→91
01:00 141→137(-2.8%)/呼吸回数 46→42
02:10 137→134(-2.1%)/睡眠段階:浅→中
02:50 134→132(-1.5%)
逸脱条件:min(±20%×k_age, Z±2.0) = 未成立(60s未満)/-18%/60s未到達
「停止」城戸は43dBで指示した。スピーカーの灯が落ち、34dBの室内がいつもの重さへ戻る。工藤は小さく頷き、「ありがとう」とだけ言った。謝罪ではない、報告の響き。
廊下に出ると、天井の換気口は静かだ。“櫛”も“羽”も外してある。そこへ端末が震える。間合い3.2秒。
――〈“窓”があれば退く約束は守る〉
〈312が増えたら知らせて〉
知らせたら合意になる。城戸は返信を打たない。数字だけを残す。
◇ ◇ ◇
23時。運用会議。壁の表示に、新しい枠組みの骨格が流れる。雨宮は硬い声で読み上げる。
――[条文化・起草メモ(案)]
・発音体=出音の生成
・選音=出音の意図的再編(条文に追加)
・誘導=意図により過鎮静/過興奮を招く行為(発音/選音の別を問わず)
・逸脱判定=min(±20%×k_age, Z±2.0) が60s以上
・医療帯=上限-18%/60s、ログ公開、即時遮断
音響課が補足する。「45dBの背景に置く“再編”は市民空間でも運用可能だが、無登録は引き続き禁止」
城戸は画面を見つめ、指先の温度が少しだけ冷えるのを感じた。条文が呼吸を持ちはじめる。備考が増える。増えた備考は、現場で帯の厚みになる。
その時、管制が割り込む。赤帯。
――[ALERT 23:18] 団地北棟・廊下:模倣312Hz/2.9s/ピーク36–37dB。居室内HR 98→112(+14.3%/120s)の報あり。
城戸は会議室を出る許可を目で得ると、荒見と駆け出した。運用は、会議室では止まらない。
◇ ◇ ◇
23時32分。北棟の廊下は乾いて、積算33dB。角の点検孔に、白いテープの新しい縁。手早い模倣。薄片は粗悪な材で、角度が甘い。圧揺れ0.02Pa/周期2.9秒/中心312Hz。壁越しの居室で、幼児の泣き声が45dBに触れて跳ねた。
母親が戸口に現れ、肩が上がる。「ずるい――」と言いかけて、言葉を止めた。ずるいの語は、ここでは鍵だ。城戸は承諾を取り、呼吸ガイド(35dB未満)を流す。呼気3.2s/吸気3.2s。幼児のHR 112→104(-7.1%/120s)。廊下の圧が2.9秒から3.2秒へ少し引かれる。模倣の“窓”が、自壊で一片、落ちた。
点検孔の奥に、細い影。白いラインのグローブ。彼女か、別人か。影は逃げない。ただ、手を伸ばして薄片を自ら剥がした。0.02Pa→0.01Pa。揺れは消え、312Hzは途切れる。城戸は遮断ボタンに親指を置いたが、押す必要はなくなった。赤は指の下で、仕事を失う。
荒見が影へ寄る。だが、影は黙って一枚の紙を差し出し、廊下の光の外へ溶けた。紙は方眼。粗い波形。415Hzと312Hzの対比。下端に鉛筆で短く書かれていた。
――〈文脈>量〉
城戸は紙を証拠袋に入れ、母親のHR 98→93(-5.1%/120s)が落ち着くのを見届けた。ずるくない、と母親が呟く。数字はそれを裏づけ、夜は少しだけ静かになる。
◇ ◇ ◇
深夜。監察室。報告書のカーソルが点滅する。城戸は審尋の決定要件、NICU三分窓のログ、312Hzの模倣現場、方眼紙の一行――を、短い言葉と数字で並べた。送信タブは灰色。赤でも青でもない。親指の腹で温度を測る。押せば記録。押さなければ体。
端末が震える。間合い3.2秒。
――〈捕まえる時は来る〉
〈でも今夜の“窓”は子の眠りに使って〉
逮捕状は保留のままだ。操作主体は現認できない。城戸は息を長く吐いた。3.2秒。胸郭の上下が数字に合い、耳の内側の圧が均される。彼は送信を――まだ押さない。押す/押さないの境で、指は浮いたまま。判断の記録を遅らせ、数字だけを先に残す。数字が明日の壇上で彼の代わりに語る。
・証拠:予備審尋の決定――限定選音を仮許可(14日)。条件:34dB以下/-18%/60s上限/逸脱=min(±20%×k_age, Z±2.0) が60s/ログ公開/即時遮断/外部“選音”遮断。
・数値:NICU三分窓 HR 146→132(-9.6%/180s)/SpO₂ 90→91–94、団地模倣 312Hz/2.9sで幼児 HR 98→112(+14.3%/120s)→ガイド後 112→104(-7.1%/120s)。
・物件:“櫛”の自壊片、模倣現場の粗材薄片、方眼紙〈文脈>量〉。
・運用:条文化起草(選音=意図的再編、誘導=過鎮静/過興奮明記)。45dB背景の再編は登録・管理下のみ可。
・仮説:彼女は“窓”を退く約束で囲い込み、312Hzの“量”を嫌う。逮捕状は保留継続、現認困難。