瑠璃の文脈
21時38分。旧中央学区の広場跡。城戸は携帯式騒音計の積算を確認した。出音43dB。夜間指針〈45dB〉内。耳の内側の圧は安定、舌は上顎から離れる。胸郭は細く上下し、呼吸は鼻腔で完結する。数字に体を合わせる――彼の夜の儀式だ。
広場の下には、封音83号が埋まっている。十年前、公共ピアノとして最後まで“存続案”が出た個体。今は地中に沈み、地図上では灰色の矩形だ。風は薄い。ベンチに座る少年が一人、指を空に並べていた。鍵盤の配列をなぞるように、親指がくぐり、薬指が捩れる。音は出ない。だが、呼吸の周期3.2秒が指に移っている。健康バンドの表示はHR 106→103(-2.8%/20s)。逸脱ではないが、落ち着いていく。
城戸は広場を横切り、階段下の点検扉を開く。表示に〈許容出音:積算45dB/登録スピーカーのみ〉と常時オーバーレイ。梯子を降りると、コンクリートは乾いて冷たく、耳の内側の圧が一段だけ上がった。分岐ダクトの角に、透明の薄片が三枚だけ貼られている。等間隔ではない。“聴き付け”の跡。指向性マイクを差し入れる。
――[LOG 21:42:11] 圧揺れ 0.02–0.03Pa/周期3.2s/中心周波数 415Hz±6Hz/局所ピーク 34dB
“発音”ではなく“選音”。83号はまだ歌わない。だが、呼吸の“文脈”は残っている。城戸の胸の内側のメトロノームが、一拍遅れて追随する。上の少年が鍵盤の“無音”を弾くときに、空気はわずかに整う。
端末が震えた。間合い3.2秒の短文が一つ。
――〈83号の“譜面台”を見て〉
譜面台? 封音の蓋の内側に、譜面台はないはずだ。城戸は薄片の角度を撮影し、いったん地上へ戻った。少年はまだ指を並べている。胸郭の上下は浅く、HR 103→101(-1.9%/20s)。城戸は声をかけない。声はここでは雑音になりやすい。
◇ ◇ ◇
翌朝10時、市庁記録課。閲覧室の空調は静かだ。積算40dB。申請番号で引いたマイクロフィルムを、係員が読み取り機に載せる。封音83号、104号、71号の決裁資料。十年前の議事録は抜粋のみ。だが、決裁付属物件の“参考”に、厚紙の台紙が一枚だけ残っていた。83号 譜面台裏と鉛筆書き。薄いグラフ用紙が張ってあり、波形が肉筆で描かれている。主峰は415Hz、肩に±6Hz。下端に小さく〈3.2s〉。角に、乱雑な署名――小田切 瑠璃。
譜面台の裏。彼女は鍵盤の前に座る者の視界の外側に、街がゆっくり呼吸できる設定を書き残したのだ。防音とは、量を切ることではなく、呼吸の仕方を返すこと――城戸の皮膚の内側で、その言葉の形が固まる。
記録課の係員が言う。「83号は“封音”指定の直前まで、週末は子どもと高齢者が使っていました。苦情は“曲がうるさい”よりも“同じ曲ばかり”が多いですね」
文脈の喪失。雨宮の会議で、音響課の古株が口にした語が、別の紙から同じ角度で立ち上がる。城戸は台紙を撮影し、返却カウンタへ向かった。窓口のガラス越しに、係員の胸郭の上下。呼吸12→14。応対に合わせた調整。数字は体の礼儀を示す。
◇ ◇ ◇
午後、音響課の資料庫。古いカセットテープと、電池式の測定器。棚の一番下から、劣化したバインダーが出てきた。タイトル〈静音の器—市内公共ピアノ防音再設計案〉。著者欄――音響課 小田切瑠璃。
――[草案 抜粋]
・防音=音量の削減ではなく、文脈の保持。
・“雑音”苦情の実体は、行為の同質化(同じ曲/同じ時間帯/同じ弾き手)に由来。
・提案:時間帯スロット+残響カーテン+共鳴窓(415Hz±6Hz/周期3.2s)で、個々の行為が街のリズムに溶けるよう調整。
・逸脱の評価は“被害の証拠”だが“救いの証拠”でもある。下降-18%/60sは医療帯の暫定上限、一般帯はZ±2.0で運用。
草案の日付は“封音決裁の二週間前”。付箋に〈財政:補修費過大/運用:手間〉と赤字。採択されず。封音。埋設。
城戸はページを閉じ、喉の奥の筋を緩めた。体が先に熱くなる。彼は舌を上顎に当てて自分を冷やす。数字を並べ直す。-18%/60s、Z±2.0、45dB/70dB。彼女は十年前に、今夜の議題を置いていた。
端末が震える。知らないプロファイルから、短文。間合いはやはり3.2秒。
――〈その草案は“死蔵”です〉
〈でも、譜面台の裏には消せない鉛筆が残る〉
返信は打たない。返信を打てば関係が文章になる。彼はまだ、数字だけを手に残しておきたい。
◇ ◇ ◇
夕刻。封音104号の位置は、今は地域図書室の下だ。閉館後、管理者立会いで点検孔を開く。ダクトの内側に、薄い“櫛”の短冊が一本だけ、極端な角度で貼られている。誰かが“練習”した痕。貼っては剥がし、剥がしては貼った。接着面の汚れが層になる。
指向性マイクが拾う。
――[LOG 18:44:20] 圧揺れ 0.01–0.02Pa/周期3.2s/中心周波数 415Hz±6Hz相当/ピーク 33dB
83号よりも浅い。“窓”は小さい。城戸は角度を記録し、地上に戻る。図書室のカウンタの奥、ティーンエイジャーが二人、指先で机をコト、と鳴らしている。35dBの“癖”。隣の幼児コーナの母親の胸郭がその音に合わせてわずかに上下する。HR 84→82(-2.3%/30s)。数字にならない日常の“調律”。文脈は、制度の外側にあるのではなく、制度の周縁に常時立っている。
◇ ◇ ◇
21時。広場跡へ戻る。地上の少年は、まだ指を並べていた。城戸は離れたまま、ゆっくり近づく。声の出音は抑えて41dB。
「指は、覚えているのか」
少年は少しだけ頷いた。振り向かずに言う。「もう音、出しちゃだめなんでしょ。だから、弾くふり。彼女の歌があると、本当に弾いてるみたいになる」
「眠れるか」
「うん。でも、弟のほうが先に眠る。ずるいって思って、指の練習をしてたら、僕も眠くなる」
ずるい。団地で聞いた言葉が繰り返される。公平とは、量ではなく順番の感覚に宿る。城戸は少年の手首のバンドを数秒だけ見た。HR 101→98(-3.0%/40s)。彼は端末で呼吸ガイド(35dB未満)を短く流し、呼気3.2s/吸気3.2s/偏差±0.1sを提示する。少年の舌が自然に下がり、喉の筋が弛む。
「弾くふりでも、呼吸が合えばそれは練習だよ」
少年は笑わない。数字にだけ、納得する。城戸はそれでいい、と思う。
◇ ◇ ◇
23時04分。封音83号の地下区画。譜面台――は、ない。だが、蓋の裏側に薄い金属板が固定され、その裏に紙の跡が残っていた。剥がされ、接着痕だけが格子状に残る。鉛筆のカーボンが紙からわずかに移って、金属に黒い線を作っていた。3.2の数字の上半分だけ。415の“41”だけ。
城戸はそれを撮影し、圧の波形を同時に取る。0.02–0.03Pa/周期3.2s/415Hz±6Hz/34dB。数字が重なると、体の熱が沈む。そこへ無線。
「城戸。雨宮だ。明日、臨時の予備審尋(仮処分)が入る。病院側が“限定選音”の暫定許可を申立てた。監察は“逸脱補正”のB案(偏差比)を提出するか?」
「提出する。A案と併記で」
「逮捕状は保留。対象は未特定のまま。だが、参考人招致で小田切瑠璃の名が上がっている。所在は?」
「不明。ただ、文脈は残っている」
雨宮は少しだけ息を止め、それから言葉を落とした。「文脈は条文に入らない。だが、運用上の備考には入れられる。明日、そこを詰めよう」
通話が切れる。端末がもう一度震えた。3.2秒の間合い。短文。
――〈“備考”は、条文の呼吸です〉
〈83号の譜面台の裏に、83-βの図面がある〉
〈104号は“残響カーテン”だけで間に合う〉
83-β? 副配管のことか。城戸は構内図を呼び出し、83号から北東に伸びる細い枝を見つけた。封音工事後の追加改修。書庫の図面にはない。最近、誰かが加えた痕跡だ。
◇ ◇ ◇
23時40分。北東枝。ダクトの径は狭く、膝を折って進む。耳の内側の圧が上がり、舌が自然に下がる。圧揺れ0.03Pa。指向性マイクが拾う415Hzの肩。角を曲がった先で、薄い布の“残響カーテン”が一枚、梁から垂れていた。素材は吸音用の繊維。上部の縁に、小さな刺繍――L。筆記体。Ruriの頭文字に見えなくはない。決めつけない。数字を先に置く。
――[EXTRACT 23:42:18] カーテン設置前:ピーク34dB/設置後:31dB/位相の乱れ軽減(±6Hz肩のノイズ比 -18%)
量ではなく、文脈が整う。過去の苦情――“同じ曲ばかり”――は量の問題に見えて、実は文脈の単調化だった。カーテンは単調さを崩し、“同じでも違う”にする。城戸の喉の筋が弛む。体が先に納得を出す。彼は自分を冷やすために、舌を上顎に戻した。
そのとき、点検孔の上から、小さな足音。埃がわずかに揺れる。視界の端に、子どものスニーカーの影。上の地上で、さっきの少年だろうか。HRの数値は見えない。だが、踏み替えの周期3.2秒が床に伝わる。文脈が降りてくる。
◇ ◇ ◇
0時過ぎ。83号を離れ、城戸は庁舎へ戻った。監察室は積算42dB。報告書の下書き画面に、カーソルが点滅する。彼はまず、草案と譜面台裏と残響カーテンを、証拠として淡々と並べた。形容を排し、数値と位置だけで結ぶ。
――[DRAFT/瑠璃の文脈(案)]
・83号:譜面台裏に共鳴窓(415Hz±6Hz/周期3.2s)の手描き設計痕。
・104号:残響カーテン設置位置に位相乱れ軽減 -18%。
・封音決裁二週間前の草案に“文脈を残す防音”の定義と-18%/60s/Z±2.0が先取り。
・83-β枝:封音後の追加改修の痕跡。
・現場観察:上部広場で“無音の練習”を行う少年(HR 106→98/約180s)。
送信タブの上で、親指が止まる。押せば、会議資料になる。押さなければ、体のなかの熱だけになる。端末が震えた。短文。3.2秒。
――〈“送信”は、遮断でも配信でもない〉
〈記録は、呼吸を長くする〉
もう一件、内部通達が割り込む。
――[NOTICE 00:18] 明夕、臨時運用会議。議題:選音=出音の意図的再編の条文化、誘導の“過興奮”明記、補正併用案(min(±20%×k_age, Z±2.0))の試行。参考人:小田切瑠璃(招致済/出席未定)。
出席未定。彼女は来ないかもしれない。来なくても、文脈は来ている。城戸は呼気を3.2秒で長く吐き、吸気を3.2秒で戻した。親指は、送信に触れている。赤でも青でもない、灰色のボタン。押すか、押さないか。今はまだ書けない。彼は指を一度だけ浮かせ、画面を閉じた。
広場の方角から、地中の圧が0.02→0.01Paに落ちる気配がした。誰かが“櫛”を自壊させたのだろう。眠りのためか、逃走のためか。数字はどちらにも使える。城戸は耳の内側の圧を均し、喉の筋を緩めた。体を冷やし、次の夜に備える。
・証拠:83号“譜面台裏”の手描き設計痕(415Hz±6Hz/周期3.2s)、104号の残響カーテンで位相乱れ-18%。
・数値:広場少年HR 106→98/約180s、地下圧揺れ0.02–0.03Pa/34dB。
・資料:小田切瑠璃の草案「静音の器」(防音=文脈の保持、-18%/60s・Z±2.0先取り)。
・動向:83-β枝の追加改修痕、上層での“無音の練習”。参考人招致(小田切瑠璃)出席未定。
・仮説:ルラバイは“発音”せず、譜面台裏の設計思想(共鳴窓+残響カーテン)を街の換気網に移植。“文脈”を戻すことで逸脱の正負を分ける。逮捕は“操作主体の現認”が困難。