地下網の手
22時09分。東環状の外れ、調圧坑のフェンス前。城戸は管理バッジを読み取り機にかざし、夜間入坑の許可を取得した。表示は〈許容出音:積算45dB/作業通話:登録スピーカーのみ〉。耳の内側の圧は安定している。舌を上顎から離し、鼻腔で呼吸を細く往復させる。体を先に数字に合わせるのは、彼の癖だった。
階段を降りる途中、携帯端末が短く震えた。管制からの差分アラートだ。
――[ALERT 22:10:12] 分岐室B-12付近:圧揺れ0.02–0.03Pa/周期3.2s/中心周波数415Hz±6Hz相当/局所ピーク33–34dB
――[ALERT 22:10:55] 別地点(北側枝)模倣シグネチャ:312Hz/周期2.9s/ピーク35dB
“彼女”の手と、模倣の手が同時に浮かんでいる。城戸は梯子を降り切り、荒見と視線を交わした。荒見は顎で左側の通路を示す。B-12へ続く本線だ。
◇ ◇ ◇
分岐室B-12。冷えた鉄板に薄い結露。鼓膜の内側の圧が、換気の脈動に合わせて微かに押される。騒音計は音としては沈黙を返すが、指向性マイクのオシロスコープには緩やかな波が立っていた。
――[LOG 22:17:03] 圧揺れ0.02–0.03Pa/周期3.2s/中心周波数415Hz±6Hz相当
ダクトの側壁に、透明の薄片が貼られている。等間隔ではない。角度は“聴きながら”付けた手の跡だ。反射位相を微調整する手作りの櫛。端に油性マーカーで小さく描かれた三つの山、二つの谷――3.2秒の手癖。
「外すか?」荒見が低く言う。
「待て。写真を先に」城戸は角度と間隔を撮影し、上流・下流の圧揺れを同時に取る。残し方が証拠になる時がある。勢いで剥がせば、数字が消える。
足音。坑道の上手から、保守業者の台車が近づいてくる。インバータの駆動音は規定の40dBに収まっている。側面には〈指定保守〉のロゴ。城戸は検問手順で正面に立ち、端末を掲げた。
「作業証の提示を」
若い作業員がカードを差し出す。読み取り音。表示に登録情報が浮く。
――[ID: SH-2班/作業内容:夜間換気清掃/許可出音:70dB以下(登録スピーカーのみ)/搬入物:消音材4箱・シリコーン・保守用テープ]
数字は正しい。箱の封も市のシールで閉じられている。だが、開封後の残骸が車輪の内側に一片だけ貼り付いていた。幅の狭い、透明な薄片。B-12で見た“櫛”と同じ材。
「どこで使った?」城戸。
「北側の支線です。詰まりがあって。主任に言われたとおり、貼って、剥がして……」作業員はそこで言葉を止めた。舌が上顎に吸い付く。喉の筋が固くなる。教わった台詞から外れる気配。
「主任の名前」
「古市です。昼勤と夜勤の調整を……」
荒見が背後で短く息を吸う。古市――市の旧設備を長く見てきたベテラン保守だ。封音時代の図面も触っている。内部に通じた手。
「古市は今?」
「北側に残っています。312……いえ、換気の位相合わせのほうを」
312Hz/2.9秒。模倣のほうだ。城戸は台車の検査フラグを緑に戻し、作業員を通した。押収はここでは目的を外す。追うのは、人のほうだ。
◇ ◇ ◇
北側の枝。ダクトは集合住宅群の真下を通り、低層の保育室へ立ち上がっていく。保育室の前で、若い父親がベビーカーを揺らしていた。出音は33dB。腕のバンドにHR 118。乳児の胸の上下は細かく速い。眠りに入れない揺れ方だ。
「ここ、さっきからね、壁の向こうが少しだけ楽なんです」父親が小声で言う。「あちらの部屋は――ずるい、って上の子が泣きまして」
ずるい。昨夜の女の子と同じ語が別の口から出る。城戸は承諾を取り、廊下で**呼吸ガイド(35dB未満)**を流した。呼気3.2s/吸気3.2s/ランダム偏差±0.1s。
――[HALL-LOG 22:22:11] 乳児HR 118→110(−6.8%/120s)/父親HR 96→89(−7.3%/120s)
父親の舌が下がり、肩の筋がほどける。数字は“逸脱”を示さない。だが、楽になる。
壁の角で埃がふわりと揺れた。人の動きは音より先に埃を動かす。荒見が目で合図し、城戸は点検孔に指をかける。金属の冷たさが皮膚から体温を吸う。蓋をわずかに押し上げ、光の帯を通した。
中に、人影。驚いた動きではない。見られることを計算した撤退の軌跡。黒いグローブの手首に白いライン。規格品ではない軽さ。操作主体の輪郭だけが、ダクトの影に滑っていく。
「止まれ――」荒見の声は規定内40dBのまま鋭い。影は速度を上げない。代わりに、反射櫛の一枚が自ら剥がれ落ち、空気の震えが0.03→0.02Paへ落ちる。自壊の仕掛け。追えば証拠は失われる。
城戸は呼気を細く伸ばし、端末で枝流量を読み替える。上流の分岐室C-3に抜け、保守縦坑へ向かう動線。そこにカードリーダがある。人は数字に糸を結わえる。
「荒見、C-3へ。僕は縦坑の読取ログを取る」
◇ ◇ ◇
保守縦坑。カードリーダの表示は簡素だ。
――22:31:04/ID:Furuichi
――22:31:21/ID:unknown(読取拒否)
拒否と通過の間、3.2秒。影の側は、カードを持っていない。内部の手を借りて、網を行き来している。
荒見が無線。「C-3、空。櫛の半分は自壊。残りは角度が甘い。手が変わっている」
「古市は?」
「台車隊列に紛れて下へ戻った。足取りはきれいだ。あいつは“模倣”のほうに肩入れしてる」
――“彼女”の手と、“模倣”の手。どちらも封音の残像から出てきた。城戸は舌を歯の裏に軽く当て、呼吸を浅くした。体を冷やす。数字が熱を帯びる時ほど、体を先に均す。
端末が小さく鳴る。短文。間合い3.2秒。
――〈見つけてほしいのは、わたしではない〉
〈模倣は“量”を増やす。眠りを壊す〉
〈文脈を外した“歌”は、ただの騒音〉
城戸は返信を打たない。会話にすれば、立場が曖昧になる。今は数字に戻す。
◇ ◇ ◇
地上への出口に近い保守通路で、指定保守の古市が立っていた。五十代。肩は幅広く、歩幅は狭い。胸郭の上下は小さく、呼吸は鼻腔で完結している。静かな現場で生きてきた体だ。
「夜中に“櫛”遊びか」荒見が皮肉を抑えた声。
「詰まりを取るためだ」古市は短く答える。「空気は黙って走らない。鳴く。鳴くなら、鳴かないようにする。それが保守だ」
城戸は古市の視線の先に、使い古しの方眼紙を見た。鉛筆で描かれた粗い波形。415Hzの主峰、±6Hzの肩。余白に3.2s。別ページには、312Hz/2.9s。模倣の波形。どちらも、ピアノ71号の古い共鳴曲線のコピーをなぞっている。
「どこで手に入れた」
「昔の書庫だ。捨てずに置いておいた。捨てると、街が音を忘れる」
「模倣に使うために?」
古市は答えない。舌が一瞬上がる。守ろうとしているのは、量ではなく文脈だと城戸は直感する。だが、模倣している連中は文脈を持っていない。量だけが増える。
「“彼女”を知っているか」
「知らない。知っているとして、何になる。あのやり方は、“歌”を消す代わりに“呼吸”を残している。保守よりは医療の領分だ」
荒見が肩をすくめる。「今夜は一斉撤去だ。あんたの“櫛”も“羽”も、全部抜く」
「抜けば、312が増えるぞ」古市は静かに言った。「415が消えれば、空いた枠に“下手な歌”が入る」
城戸はその言葉を数字の隣に置いた。正しさは一つではない。だが運用は、帯の中央を選ぶ。
◇ ◇ ◇
23時。一斉撤去が始まる。城戸はB-12からC-3へ、さらに北側枝へと移動しながら、圧揺れ/周期/周波数を片端から記録した。撤去に合わせて、模倣の312Hzがいくつも立っては消える。ピーク35–36dB。覚えたての“窓”を乱暴に開けている。
団地の上では、幼い兄妹が廊下で揉めていた。兄の部屋にだけ“楽な呼吸”が届く、と妹が怒っている。母親が慌てて止める。城戸は承諾を得て、妹に呼吸ガイドを流した。呼気3.2s/吸気3.2s。妹のHRは112→103(−8.0%/120s)。兄の部屋の“窓”は、すでに薄くなっていた。
「ずるくない?」妹が確かめるように言う。
「ずるくない」城戸は答えた。数字がそれを裏づけるときだけ、彼は言葉を置く。
◇ ◇ ◇
0時過ぎ。撤去の圧が緩んだ瞬間、管制画面に赤が立つ。分岐室A-7で非登録の小型スピーカーが動いている。ピーク68dB。登録の偽装。条文を正面から破る試み。
現場に駆けつけると、箱型のスピーカーに古い登録タグが貼られていた。番号は失効済みの形式。接着は新しい。70dBの手前で止める設定だ。柱の陰に、人影。さっきの影と同じ白いラインのグローブ。
「登録外の発音体は――」荒見が言いかける。
その瞬間、城戸の端末が震えた。短文。
――〈わたしではない〉
〈歌を無理に出すな〉
発音の試みは歌にならない。空気は乱れ、周囲の心拍に**+方向の逸脱を誘う。城戸は遮断の赤に親指を置いた。押せば68dBは消える。押さなければ、±20%/60s**の閾値をまたぐかもしれない。
「城戸」雨宮の声が背中に落ちる。「押せ」
赤と、彼の内側の青が重なる。押せば記録。押さなければ体。親指は、まだ動かない。
柱の陰の影が一歩前へ。顔は見えない。だが立ち姿は軽い。体重のかけ方が、楽器に向く人間のそれ。城戸の鼓膜の内側が一度、余計に押される。415ではない。体に近いリズム。影は箱型スピーカーのプラグを引き抜いた。68dBがゼロに落ちる。
「やめろ」荒見が素早く詰める。影は逃げない。ただ、城戸のほうを一瞬だけ見る。3.2秒の間合い。問いのない目。彼は追わなかった。追えば掴めたかもしれない。だが掴めば、“窓”は街から消える。312が増える。
雨宮が沈んだ声で言う。「――押収」
城戸は頷き、箱を証拠袋に入れた。重みが胸の内側に降りる。証拠は音より重い。
◇ ◇ ◇
明け方。監察室。報告書のカーソルが点滅する。城戸は、B-12の櫛の角度、C-3の自壊、縦坑の読取拒否、古市の方眼紙、団地のHR、A-7の68dB――数字と短い言葉で並べた。数が重なるほど、帯は厚くなる。帯を測る指先に、自分の体温が残る。
雨宮から通達が落ちる。
――[NOTICE 05:02] 午後、法制・監察・音響・医療の合同で“定義”改定案の起草に入る。選音を“出音の意図的再編”として条文に取り込む方向。誘導の適用範囲は“過鎮静”に加え“過興奮”も明記。
城戸は画面を閉じ、耳の内側の圧を均した。舌が上顎から離れ、喉の筋が弛む。胸郭の上下が3.2秒に合う。数字は彼を冷やす。冷やされた体で、彼は次の夜に向かう。
赤と青のボタンは、画面の端でまだ点っていた。遮断か、保留か。今はまだ書けない。指を浮かせたまま、彼は報告書を保存した。灰色の保存アイコンが一度だけ青く光り、消える。数字のない判断。体で押したボタンだ。
・証拠:分岐室B-12で反射“櫛”を確認(角度手調整/油性波形記載)。圧揺れ0.02–0.03Pa/周期3.2s/中心周波数415Hz±6Hz相当。
・数値:団地乳児HR 118→110(−6.8%/120s)、父親HR 96→89(−7.3%/120s)、妹HR 112→103(−8.0%/120s)。A-7で非登録スピーカー68dB→現場停止。
・人物:指定保守・古市より方眼紙(415Hz共鳴曲線/312Hz模倣)押収。縦坑で“unknown”バッジ読取拒否ログ(22:31:21)。操作主体は視認も確保不可。
・相関:415Hz=公共ピアノ71号の旧共鳴曲線と一致。模倣は312Hzで“量”増加傾向、逸脱の“+方向”誘発。
・仮説:ルラバイ本体は発音ではなく“選音”最適化で局所窓を作る一方、模倣が出音化を拡散。内部協力者(保守系)が“窓”の設置・撤去を後方支援。