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音警  作者: シロトネ
第一章:封音送葬記
4/14

運用会議

22時16分。学区外れの団地前。城戸は歩道橋の中腹で足を止め、携帯式騒音計の表示を一度だけ見下ろした。積算43dB。夜間指針〈45dB〉内。耳の内側の圧は安定、舌は上顎から離れ、呼吸は鼻腔で細く往復する。数字を先に整えるのが、彼の夜のはじまりだ。


団地の外壁に沿って、空調の吐出口が等間隔に並ぶ。ひとつ、わずかに周期3.2秒の呼気を思わせる圧の揺れ。騒音計では音として立たないが、指向性マイクで拾えば415Hz±6Hz相当の峰が、床下の薄い鉄板を時折なでた。


――[LOG 22:17:03] 圧揺れ 0.02–0.03Pa/周期3.2s/中心周波数 415Hz±6Hz相当/局所ピーク 33–34dB


“発音”ではない。“選音”だ。換気の脈動と室内の微音を集め、子ども部屋だけに細く戻す仕掛け。昨夜の病院と同型の“櫛”か“羽”が、どこかに貼られている。


城戸は管理棟の玄関に近づき、インターホンの出音(定格40dB)を頼りに夜勤管理人を呼んだ。許可を得て、二階の点検孔を開ける。ダクト内には、透明の薄片が数枚、等間隔ではなく貼られている。反射位相をずらす手作りの櫛。そのうち一枚には油性マーカーで小さく波形が描かれていた。三つの山、二つの谷。3.2秒の手癖。


その時、廊下の角に小学生ぐらいの女の子が立っていた。部屋着のまま、スリッパのかかとを踏んでいる。胸郭の上下は浅く速い。手首のバンドにはHR 106が点滅した。


「おじさん、音のひと?」


「音警だ。眠れないのか」


頷き。女の子の舌がわずかに上顎に触れ、喉の奥が狭くなる。HR 106→110(+3.7%/10s)。逸脱ではないが、落ち着きは遠い。


「おとうとの部屋にね、やさしい呼吸が来るの。わたしの部屋には来ない。ずるい、って思って起きちゃった」


城戸は端末で家族のバンド連携を確認し、保護者の承諾を取って、廊下で短い呼吸ガイド(35dB未満)を流した。呼気3.2s/吸気3.2s/ランダム偏差±0.1s。


――[HALL-LOG 22:22:11] HR 110→101(−8.1%/120s)/呼吸回数 20→16


女の子の舌が自然に下がり、喉の筋が弛む。彼女は「あ、ずるくない」と小さく言って、部屋へ戻った。数字は“被害”を示さない。だがここに“救い”があると感じる体は、条例の条文では形を持たない。


城戸は櫛を写真に収め、最上段だけをそっと外して証拠袋に入れた。残りは今夜限り見逃す――わけではない。会議で説明するために“残す”。運用は、現場の微調整で持つ。その妥協の指先を自覚するために、彼は息を浅くした。


◇ ◇ ◇


翌朝九時。市庁の臨時運用会議室。壁面表示には条文の骨格が流れ、必要箇所が濃く浮く。第7条:70dB超の出音は申請・登録スピーカー必須。被害認定は“心拍逸脱(個体平常から±20%/60s)”に依拠。


雨宮法制官は、手元の薄い資料束を一度だけ整えた。紙のこすれる音は40dBに収まる。「議題は三つ。①“選音”機構の定義、②“誘導”該当性の線引き、③逸脱基準の補正案です。監察官・城戸、NICU試験と昨夜の現場を」


城戸は映写にNICUのログを出した。HR 154→132(−14.3%/180s)/ SpO₂ 90→94/ピーク出力34dB。そして昨夜の団地点検の圧揺れ0.02–0.03Pa/周期3.2s/415Hz±6Hz相当。


「“発音”ではなく、環境音を位相調整する“選音”です。条文の“発音体”には形式上当たりませんが、“誘導”条項に触れる余地がある」


雨宮が頷く。「定義の更新が要る。“発音”を“出音の生成”と読むのではなく、“出音の意図的再編”まで含める解釈が妥当。――次、逸脱基準」


スクリーンに簡素な表が出る。雨宮が用意した案だ。


――[補正案A(年齢係数)]

・基準HR=個体平常×k_age(新生児0.9/乳児0.92/幼児0.95/学童0.97)

・被害閾値:±20%→±20%×k_age(例:乳児±18.4%)


城戸は別紙を出した。彼の案は、年齢係数よりも“偏差の比率”を推す。


――[補正案B(偏差比)]

・基準HR=過去N=14日の夜間中央値

・被害閾値:Z = (HR変動/個体平常) / 個体内ばらつきσが±2.0を超える60s

・年齢はσに内蔵(個体差反映)


雨宮が視線だけで促す。「動機を」


「±20%/60sは“平均的健康”の等身大に近い。だがNICUや不眠傾向の子は、平常が高く、σも広い。A案は制度運用に向くが、現場の個体差には鈍い。B案は計測負荷が増すが、“平均に押し戻す”暴力を抑えられる」


法制課の若手が控えめに口を開く。「Zはわかりにくい、という世論が出ます」


「分かりにくいのは制度の責任で、わかりやすさだけでは現場は救えない」城戸は淡々と答えた。声は42dB。彼の胸郭は平常に近い上下を保つ。


雨宮は両案を並べて表示し、結論を急がない口調で言った。「今日、決めるのは難しい。だが“補正の必要性”は合意としたい」


その時、会議室の壁表示が自動割込で切り替わった。赤い帯。


――[NOTICE 10:12] 内部通達:今晩、23:00–02:00で“選音機構”一斉撤去・遮断の執行。逮捕状は“現に操作に関与する者”に限る。監察は22:30までに各現場の“操作主体 認否”を判断。非登録スピーカーの“病棟テスト”は当面凍結。


会議室の空気が固まる。雨宮の顎が小さく動いた。「――凍結、です」


NICUの工藤看護師長が傍聴席から手を挙げた。臨時参加だ。彼女の声は抑えられて40dB。だが胸郭の上下は速い。「昨夜の試験は有効でした。-14.3%/180s。今夜、凍結で子が苦しむなら、それは運用の失策です」


雨宮は真っ直ぐに工藤を見た。「病棟テストは条文内で許可した。だが“選音”は条文外だ。一斉撤去は、制度の外側を野放図にしないための線引きでもある」


「線が子どもの体を切ることがある、と申し上げています」工藤は言葉を飲み込み、背筋を伸ばした。


城戸はスクリーンに、今朝の団地の簡易ログを添えた。女児 HR 110→101(−8.1%/120s)。反論ではない、並置だ。数字を隣に置き、言葉の過不足を自覚させる。


◇ ◇ ◇


昼過ぎ。会議はいったん散会。城戸は廊下のベンチで水を少しだけ飲み、舌を上顎から離した。通話の通知が震える。非公開プロファイル――“彼女”からの短文だ。間合いは相変わらず3.2秒。


――〈一斉撤去〉

〈わかりました。わたしは退きます〉

〈ただ、団地の二部屋だけ、22:00–22:10。-12%/60s以下で〉


城戸は返信を打たない。打てば交渉になる。彼はいつも、交渉に持ち込む前に数字を並べる。端末で団地の住民情報を確認し、二部屋のバンド連携可否をチェックする。片方は未連携。片方は共有同意:ON。


会議室に戻ると、雨宮が資料に短いメモを加えていた。「22:00–22:10の局所窓、という打診は?」


「届いています」城戸は隠さなかった。「-12%/60s以下を条件に。22:30までの“操作主体 認否”の前に、私がどう判断するかを見に来るでしょう」


「あなたが判断する、ではなく、運用が判断する」雨宮は言葉を正した。「――夜の現場、私も行きます」


◇ ◇ ◇


夕刻、会議は第二ラウンド。財政、音響、医療、監察、四者が再度集まる。議題は“定義”。


音響課の古株が、封音時代の記録からピアノ71号の共鳴曲線を呼び出した。主峰415Hz、周辺±6Hzで緩やかな肩。地下化後も残響パターンは街の配管網に残り、換気の3.2秒周期と噛み合う地点がある、と。


「“文脈”の喪失が苦情を増やした。十年前の反対意見は、そこを言っていた」音響課。

「文脈は条文に入らない。運用は量と逸脱で動く」法制。

「量と逸脱だけでは眠りが漏れる」医療。


城戸はホワイトボードに四角の枠を描いた。発音体/選音/誘導/逸脱。線で関係を結び、数字を置く。


・発音体=生成(70dBの許可閾)

・選音=再編(45dBの背景下)

・誘導=意図(-18%/60sを越える回避)

・逸脱=結果(±20%/60sまたはZ±2.0)


枠と線の上に、今夜の執行ウィンドウを赤く書く。23:00–02:00。雨宮が黙ってそれを見た。言葉を増やすべき時と、数字を増やすべき時は違う。彼らは今、数字を増やしている。


◇ ◇ ◇


22時。団地。外気は乾いて、耳の内側の圧が少しだけ上がる。雨宮と荒見が同行し、管理人が鍵を開ける。点検孔の向こう、昨夜外した最上段の代わりに、別の薄片が貼られていた。角度が甘い。急拵えだ。貼った手は急ぎ、しかし、この配管の癖を知っている。


住戸の一つで、若い母親が玄関に立って頭を下げた。肩が上がり、胸郭の上下が速い。腕の中の幼児のHRが138で固定気味。平常(連続14日の夜間中央値)は128。+7.8%。逸脱ではない。だが眠りは遠い。


「“彼女”は来ますか」母親。

「来るかもしれない」城戸。

「来てほしい」母親。


雨宮は何も言わない。彼女は運用の帯を測る目で、城戸を見ている。22:00。端末に短文が届く。


――〈10分〉

〈-12%/60s以下〉

〈終わったら、わたしが外す〉


城戸は端末の“縮小配信(団地試行)”タブに親指を置きかけ、止めた。これは彼の配信ではない。“選音”の窓は向こう側だ。彼のボタンは別にある。遮断。赤。押せば静かになる。22:10まで、赤と青のあいだに指が浮く。


幼児のHRが138→133(−3.6%/40s)→129(−6.5%/80s)。SpO₂が93→94。母親の肩が下がる。雨宮の顎筋がわずかに固くなる。荒見の足幅が広がる。体は、条文より先に判断する。


22:07。点検孔の中で何かがわずかに動き、白い薄片が一枚、接着面から外れた。自壊だ。自分で貼って、自分で剥がす手が、ここにある。“操作主体”は視界にいない。逮捕状の対象は出現しない。


城戸の端末に、短文。


――〈窓を閉める〉


22:10。圧揺れが0.02→0.01Paに落ち、周期の明瞭さが薄れる。幼児のHRは128に戻り、平常に密着する。域内で終わる。運用の帯に滑り込む数字だ。


雨宮が低く言う。「――一斉撤去は予定通り。今夜23:00から。ここは、今は無人。押収を」


城戸は頷き、点検孔の薄片をすべて外して袋に入れた。証拠は音より重い。袋の重さが、胸の内側に降りる。彼は息を浅くして、体を冷やした。


◇ ◇ ◇


23:40。市内各所。撤去の進捗が管制に上がる。公共ピアノ71号の共鳴管に追加された“櫛”はすでに撤去済み。病院は基幹ダクトの“羽”を外し、NICUは登録スピーカーのみ。団地の二部屋は無音化。出音積算は34–36dBに落ち着く。


そのとき、管制の帯域に不規則な揺れが混じった。415Hzではない。312Hz。周期2.9秒。彼女の手ではない可能性。模倣だ。城戸は眉を寄せて、別の現場への応援を要請する。数字は伝染する。標準票と相互参照の遅延が、都市のあちこちで小さな“窓”を開く。


雨宮が横目で城戸を見る。「あなたが開けた窓のせいだと言う者が出る」


「窓はすでにあった。見えるようにしただけだ」城戸は短く返した。声の出力は43dB。喉の筋は固くない。


23:58。端末に短文。


――〈眠れることは罪ですか〉

〈わたしたちは、あなたたちに数字を残す〉


0:00。一斉撤去は折り返す。城戸は管制の画面から目を離し、廊下の窓の外を見る。耳の内側の圧が、夜気で少しだけ軽くなる。赤と青のボタンは画面に並び続ける。70dB、45dB、±20%/60s、3.2秒、415Hz。数字は、彼の体に貼り付いたままだ。


0:42。逮捕状のウィンドウ内。操作主体は現れない。自壊する“羽”と、剥がされた“櫛”。押収だけが積み上がる。工藤から短い報告が届く。M-23-17:夜間HR 132→126(−4.5%/120m)/SpO₂ 94→95/睡眠段階:中→深。登録スピーカーのみ。窓の介在なし。


雨宮は最後に言った。「明日、運用会議で“補正”を議題に上げる。A案とB案、折衷の可能性も含めて」


城戸は頷いた。頷きは合意ではない。合意の前に、数字を積む。積んだ数字で、帯の厚みを測る。


◇ ◇ ◇


夜明け前。監察室。報告書の画面に、カーソルが点滅する。


――[DRAFT/運用会議 提出用(更新版)]

・団地点検:圧揺れ0.02–0.03Pa/周期3.2s/中心周波数415Hz±6Hz相当/局所ピーク33–34dB。女児HR 110→101(−8.1%/120s)。

・NICU試験:登録スピーカー34dB/HR 154→132(−14.3%/180s)/SpO₂ 90→94。

・一斉撤去:23:00–02:00実施。複数地点で模倣(312Hz/2.9s)を検知、発音体/選音要素混在。

・解釈:発音体=生成、選音=再編、誘導=意図、逸脱=結果。定義の上書き要。

・補正:A案(年齢係数)+B案(偏差比)の併用提案。閾値=min(±20%×k_age, Z±2.0)。


送信ボタンの上に親指を置く。押せば、彼の案は“会議資料”になる。押さなければ、彼の体に残る。逮捕の赤も、縮小配信の青もない。ただ“送信”の灰色が、朝の弱い光で青みを帯びる。数字の無い判断。体で決めるしかない種類のボタンだ。


彼は呼気を3.2秒で長く吐き、吸気を3.2秒で戻した。胸郭の上下が数字に合う。指の温度が画面に移る。415Hzの峰は鳴っていないのに、鼓膜の内側に波が立つ。±20%/60s、45dB/70dB。彼の中で並び直す。


押すのか、押さないのか。今はまだ書けない。彼は指を浮かせたまま、画面を閉じた。朝の空気が、耳の内側の圧を少しだけ洗う。決めないで終わる夜は、数字を残す。数字は次の議論の足場になる。足場に体を置けるうちは、彼はまだ信じていられる。


・証拠:団地点検で圧揺れ0.02–0.03Pa/周期3.2s/中心周波数415Hz±6Hz相当/局所ピーク33–34dB。反射“櫛”押収。

・数値:女児HR 110→101(−8.1%/120s)。団地幼児HR 138→129(−6.5%/80s)。NICU試験(再掲)HR 154→132(−14.3%/180s)。

・運用:一斉撤去23:00–02:00実施。模倣(312Hz/2.9s)複数検知。逮捕対象となる“操作主体”は現認できず。

・法解釈:発音体の定義を“再編(選音)”まで拡張検討。誘導条項の適用範囲を明文化。

・提案:逸脱補正にA案(年齢係数)/B案(偏差比)併用。閾値=min(±20%×k_age, Z±2.0)。送信は保留。

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