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音警  作者: シロトネ
第一章:封音送葬記
3/14

NICUリクエスト

21時07分。総合医療棟のピロティで、城戸は来訪者用の静音ゲートを通過した。スリットから出る空気の帯が衣服の皺を撫で、携帯端末の認証が灯る。壁面の表示は切り替わり、院内運用の音基準が並ぶ。


――[院内音基準]

・一般病棟:昼45dB/夜40dB(積算)

・NICU:昼40dB/夜35dB(積算)

・70dB超の発話・機器音は許可制(登録スピーカーのみ)。

・心拍逸脱(個体平常値から±20%/60s)を“被害”として記録。


足裏から伝わる床の硬度は、会議室のそれよりわずかに柔らかい。吸音材が歩行音の輪郭を沈め、鼓膜の内圧は安定している。城戸は舌を上顎から離し、鼻腔で呼吸を整えた。数字の準備を体に先にさせるのは、彼の癖だ。


NICUの前で、看護師長の工藤が短く会釈した。白衣の擦れる音は、表示の35dBに収まる。


「音警さん。申請の件ですね。審査は“標準で72時間”と言われましたが、ここの子には今夜が長い」


工藤は壁面のモニタに一人の乳児のバイタルを呼び出した。識別子だけが表示される。


――[PATIENT ID:M-23-17]

・在胎32週/出生体重1580g

・HR 168→154(NICU基準平常:160±15)

・SpO₂ 92%→90%

・呼吸回数 48→42

・睡眠段階:浅


母親がガラス越しに立っていた。肩が上がり、胸郭の上下が速い。彼女の手首には、市営の健康バンド。数字が光る。城戸は視線だけで会釈を返し、工藤に向き直る。


「申請内容は?」


「“限定的環境音の導入”。登録スピーカーで35dB未満、周波数帯域は400–430Hz中心、周期3.2秒の揺らぎ。医師の指示で“過鎮静の監視付き”です」


「審査72時間。今夜は?」


「規定上は“個別裁量不可”。だから……あなたに“現場の判断”を訊ねに来た」


城戸は端末を開いた。申請書のコピーと、受理時刻。


――[REQ# NICU-L-415] 受理 18:12/審査予定 72h/備考:周波数415Hz±6Hz、-18%/60sを鎮静上限とすること。


数字が並ぶ。415Hz、3.2秒、-18%/60s――昨夜、地下で交わした言葉と同じ桁が、ここでは医療語彙に置き換わっていた。


工藤が低く付け加える。「……“彼女”は、ここにも届く」


城戸は目だけで頷いた。換気口の格子は意匠に紛れている。ダクトの脈動は病棟にも通じる。発音ではない“選音”なら、網を抜けうる。


彼は窓越しの乳児を見た。肺の容量は小さく、胸の上下は速い。舌は口蓋に触れ、喉の奥は狭い。数字に置き換える以前に、体がそれを読んだ。


◇ ◇ ◇


22時03分。NICUの天井裏、点検ハッチ。城戸は工具と小型騒音計を持って梯子を上る。空気が乾いている。耳の内側の圧がわずかに上がり、呼吸が細くなる。配管の表面温度は低く、指先に金属の硬さが残る。


点検孔の先で、排気ダクトの内側に小さな突起の列――“櫛”が貼られていた。角度は微妙にずれ、等間隔ではない。選音のための即席の反射調整。昨夜、地下で見たものと構造が似ている。


城戸は騒音計を差し入れ、圧の変動を取る。


――[LOG 22:04:11] 圧揺れ 0.02–0.03Pa/周期3.2s/中心周波数 415Hz±6Hz相当/ピーク34dB(局所)


数字が揃う。NICUの基準を越えない出力。網の目の“外側”。工藤に無線で伝えると、短い返事が返ってきた。


「――“彼女”ですか?」


「発音ではなく“選音”。法の定義はここに穴を持つ」


無線の向こうで、工藤の喉が鳴る気配がした。音ではないが、息が変わる。城戸の耳は、その変化を数字に置く前に拾ってしまう。


端末が震えた。知らないプロフィールから、短文。


――〈NICUに一晩の“窓”を〉


間合いは3.2秒。城戸は画面を伏せ、呼吸を整えた。雨宮からの内部通達がすでに届いている。


――[NOTICE 21:40] ルラバイ事案:医療現場の“裁量”に便乗する形での違法配信に注意。現場判断を求められた場合、監察官は“条文運用の範囲内”で回答。非登録スピーカーからの“選音”は“誘導”に該当しうる。


範囲内。範囲は線ではなく帯だ。城戸はいつものように、帯の厚みを指で測りたくなる衝動を抑えた。


「監察官」工藤の声が上方に届く。抑えられた音量。

「ひとつお願いが。――“試験”。医師立会い、登録スピーカー、35dB未満、-18%/60s上限で、三分だけ。NICU一室に限定。申請の“事前審査データ”として、です」


城戸は沈黙した。端末の“縮小配信(病棟テスト)”のタブが青く光る。昨夜と同じ青。押せば数字が動く。押さなければ数字は動かないが、体が動いてしまう。


――〈窓が開けば、わたしは退く〉


短文が重なる。彼は舌の位置を下げ、喉の筋の緊張をほどいた。体を先に冷やす。乱されがちな判断ほど、まず体を整える。彼の規律だ。


「――三分。医師立会い、ログを全公開。過鎮静が始まりそうなら即時停止」

城戸は口に出した。自分の声の出力は43dB、NICU前では規定内。耳の内側の圧はわずかに上がるが、許容範囲だ。


工藤の返事は早い。「設定します」


◇ ◇ ◇


22時29分。NICU個室。登録スピーカーが壁面の高い位置に固定された。端末に“試験許可:NICU-LOCAL”が表示され、医師の認証が二重に通る。


――[TEST PROTOCOL]

・対象:ID M-23-17

・音源:登録スピーカー(病棟管理下)

・帯域:415Hz±6Hz/周期3.2s(ランダム偏差±0.1s)

・出力:34dB(室内積算)

・上限:HR下降 -18%/60s 到達前に停止

・時間:180s


城戸は開始ボタンに指を置いた。青。押す。スピーカーは鳴らない。音ではなく、腹の奥で呼吸の“時間”が合う。彼の胸郭も、3.2秒に連れられた。


――[M-23-17 LOG]

00:10 HR 154→148(-3.9%)/SpO₂ 90→91

00:30 HR 148→143(-3.1%)/呼吸回数 42→38

01:00 HR 143→138(-3.5%)/SpO₂ 92→93

02:00 HR 138→134(-2.9%)/睡眠段階:浅→中

02:50 HR 134→132(-1.5%)/SpO₂ 93→94


医師の目が数字の動きに沿ってわずかに緩む。工藤の肩が下がる。過鎮静のフラグは出ない。閾値には遠い。


「停止」城戸は声を小さく出し、ボタンを押した。

 NICUの空気は、少しだけ重く戻る。乳児の胸は穏やかな上下を続ける。スピーカーの灯は消え、ログが保存される。


「三分。……ありがとうございました」工藤は息を吐いた。


城戸は頷いた。試験は条文の内側に置いた。けれど“彼女”の存在が、いまこの場にいないこと、そして彼女が“退いた”と文字で伝えてきたことが、数字に残らない事実として立ち上がる。


――〈窓は閉めた。約束は守る〉


短文。周期はやはり3.2秒。城戸は返信を打たない。返信を打てば、通信の形が“合意”になる。彼はまだ、合意を選ばないでいる。


◇ ◇ ◇


試験ログの収集が終わると同時に、端末に赤いバナーが走った。雨宮からの通話だ。


「監察官。あなたの“試験”。報告書に記載するように。――だが、病院の“裁量”に乗じる行為を是としたわけではない。ルラバイは今、法の“誘導”に触れている」


「試験は登録スピーカーで、病棟管理下。非登録の“選音”は遮断すべきだ」


「今夜、遮断命令を再送する。NICUを含む院内換気網に“選音”機構が増設されているなら、撤去も合わせて。逮捕状のウィンドウは0時から2時。現場の“操作主体”を確認したら確保を」


通話が切れる。城戸は舌を歯の裏に軽く当て、呼吸を浅くした。体を冷やす。数字が熱を帯びると、人は判断を急ぐから。


◇ ◇ ◇


23時12分。機械室。換気の基幹ダクトに、昨夜と似た“櫛”の列。接着は新しく、剥がすことも貼ることも容易だ。工藤が眉を寄せる。


「いつの間に」


「誰かが“内部”を知っている」城戸は言った。「職員か、夜間清掃か、外部のコンサルか」


端末が震える。短文。


――〈この場所の“音”は、あなたたちが守ってきた〉

〈わたしたちは、その守りの“隙間”で眠りを作った〉


城戸は打ちそうになった返信を、飲み込んだ。工藤は数字だけを見るふりをして、彼の横顔を見ている。彼は“誰かの側”に寄って見えるのだろうか。寄って見えるなら、その寄りを数字に戻す作業がいる。


「撤去します」城戸は言った。「選音の“櫛”は、登録外。ここでは運用の帯が狭い」


工藤が頷く。彼女の肩は一瞬上がり、すぐに下がる。罪悪感ではない、責任の形だ。


城戸は“櫛”を外し、証拠袋に入れる。圧揺れが0.01Paに落ち、周期のはっきりした揺らぎは消える。数字が静かになったとき、自分の胸の内側が少し寂しくなるのを、彼は認めた。音は嫌いではない。嫌いではないことを、仕事は毎夜確かめさせてくる。


◇ ◇ ◇


0時01分。逮捕状のウィンドウが開く。雨宮と荒見が合流し、機械室の梁の影が濃くなる。出音は積算で38dB。通話の文言は最短だ。


「操作主体の確認。人がいれば逮捕。いなければ押収」雨宮。

「内部の協力者の可能性も拾う」荒見。


換気網の枝に、微小な光。指先の幅のモジュールが、接着面に斜めに貼られている。今外した“櫛”とは別物。電源を持たず、気流の脈動だけを整える“羽”。人間の気配に敏感な“簡易センサー”が付いていて、近づくと自壊する設計だ。手慣れている。


「――いる」荒見が低く言う。「目視外」


城戸は呼吸を短く切り、耳の内側の圧を上げた。体を警戒モードに寄せる。真上の点検口のふちで、埃がわずかに揺れた。人の動きは音より前に埃に現れる。


端末に短文。


――〈退く〉


揺れが遠ざかる。荒見が梯子を上がろうとするのを、雨宮が手で制した。


「自壊に近い装置。追っても証拠は残らない。――押収を進める」


城戸は頷いた。彼の指は、遮断のタブと、病棟テストのタブの上を一瞬だけ往復した。どちらも青。青は安全。安全の定義は、状況で塗替えられる。


◇ ◇ ◇


2時前。院外に出ると、夜は乾いていた。ピロティの外気の帯が、耳の内側の圧を解き、舌の位置が下がる。数字が体から離れないよう、体を数字に揃える。習い性がそう言う。


工藤から短いメッセージが届いた。


――〈試験のログ、医師団で共有。-18%/60sには遠く、SpO₂の改善あり〉

〈今夜は自前の“ガイド”で回せます。ありがとう〉


“ありがとう”は、制度に向けられたのか、人に向けられたのか。城戸はその曖昧をそのままにしておいた。


最後の通達が、夜明けの少し前に入る。


――[NOTICE 04:10] ルラバイ事案:本日午後、臨時運用会議を開催。病院の“試験”は一例として記録。選音機構の定義、誘導との線引き、心拍逸脱の補正係数の議題を追加。


議題が増える。数字が増える。増える数字の外側で、人は眠る。眠りの権利は条文にない。条文にないものは、運用で拾う。拾い方を間違えないように、城戸は自分の呼吸を3.2秒に合わせた。


彼の親指は、画面の“遮断”の赤と“縮小配信”の青のあいだに浮いた。浮いたまま、夜が薄くなる。押せば記録に残る。押さなければ体に残る。彼はまだ、決めない。決めないことを選ぶ代わりに、数字を残す。残った数字は、次の議論の足場になるはずだ。


耳の内側の圧が、朝の空気で少しだけ軽くなった。体のほうが先に、夜を終わらせた。

・証拠:NICU点検孔で圧揺れ0.02–0.03Pa/周期3.2s/415Hz±6Hz相当/局所ピーク34dB。“選音”用の反射櫛と“羽”を撤去・押収。

・数値:試験(登録スピーカー/34dB)の結果、M-23-17のHR 154→132(-14.3%/180s)、SpO₂ 90→94。過鎮静フラグは出ず。

・人物:工藤看護師長が“試験”に立会い。操作主体は未特定。自壊性の“羽”使用で接近時に退去。

・法運用:発音体ではなく“選音”機構。現行条例の「誘導」該当の可能性。院内テストは条文内(登録スピーカー)で実施。

・仮説:ルラバイは“窓”を求め、現場側の裁量に“退去の約束”を重ねる運用を志向。逮捕執行は“現認”困難。議題化が進む見込み。

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