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音警  作者: シロトネ
第一章:封音送葬記
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子守唄

22時41分。城戸は携帯式の指向性騒音計を肩から下げ、東環状の高架下に立っていた。表示は48dB。夜間指針の許容〈45dB〉を時折こぼすが、通行車両の通過時だけだ。

端末の画面には、市音律条例の標準票が常時オーバーレイされる。

【第7条:70dB超の出音は事前申請、登録スピーカー使用。違反は治安犯】

条文の語は乾いている。彼の耳は、その乾きを日々の基準にしてきた。


検問ラインでは、搬入用カートの底部スピーカーに赤い光が走った。自動読取が登録コードを掴む。

――SPK-7A12F/可搬型。許可枠:夜間70dBまで。期限:来月末。

城戸は許可証をスキャンし、運搬者の胸ポケットに返す。運搬者の胸郭がほんのわずかに上下するのを視界の隅で測る。舌は上顎に吸いつき、呼吸は浅い。緊張のサイン。彼の手首の端末から、街の公共生体網のヒートマップがにじむ。赤い斑点はない。心拍逸脱(個体基準から±20%が60秒以上)のフラグは、今のところゼロだ。


それでも夜は長い。匿名配信者“ルラバイ”の断片は、この一帯で繰り返し検知されてきた。登録外の発音体から、狭帯域の周波数が流れ、幼児世帯の睡眠帯にだけ届く。検知ログはこう書く。

――[LOG 22:13:04] NarrowBand 415Hz±6Hz/周期3.2s/ピーク64dB/発信ID不明。

ピークは70dBを超えない。だが届いた先の心拍ログに揺れが走る。眠気は生理学的な逸脱だ。条例の運用はそこを“被害”と名づけた。城戸は、言葉の創りのよさと危うさの両方を、職掌柄知っている。


23時台に入ると、空気が薄くなる。鼓膜の内側に圧がゆっくり積もる。橋脚のコンクリートが冷気で縮み、音が輪郭を増す。押収済みの違法スピーカーのラベル貼りを終え、城戸は耳栓を一度だけ耳から外した。耳内の筋が解け、舌が自然と下がる。胸に入る空気の量が、数字より先に伝わる。


橋脚の奥、不法投棄の隙間に、小さな発音の痕があった。音そのものは消えている。だが、残響の漏れは壁材を微細に歪め、端末のレーザー測距に千分の一の誤差を生む。城戸は装置を壁面に当て、低い周波数の残留振動を抽出する。

――[EXTRACT] 415Hz主音/倍音2, 5が弱い/呼気圧の安定。

歌だ、と彼は思った。擬音に逃げず、パラメータだけで伝わる歌。胸郭の上下が、数字に一致する。


「監察、東環状。ルラバイの痕、橋脚A-4で抽出。狭帯域、ピーク64dB。発信体痕なし」

無線の先で管制が答える。「周辺の心拍ログ、22時12分から24分にかけて幼児帯の逸脱17件。±25%以上は5件。記録化を」


逸脱は被害の証明だ。そこに関係があるかどうかは捜査が示す。城戸は標準の言い回しを胸のどこかで繰り返す。言葉を骨格にし、感傷を筋肉に使わないための手順だ。


0時を回ったころ、高架下のパトロールはマンション街へ移る。エントランスには、夜間照度が控えめに設定され、出音は積算で35dBに抑えられている。エレベータの前で、男の子がスリッパのかかとを踏んで立っていた。七歳くらい。目の下に浅い影。

「だれ?」

「音警だよ。眠れないのか」

男の子は頷き、手首の健康バンドを見せた。細い帯の数字が城戸の目に飛び込む。

――HR 112→116→118(+21%/経過75s)。

逸脱のフラグが黄色に点る。

「歌がないと眠れないの。彼女の歌じゃないと、だめ」

彼女、という指示語は、城戸の胸に冷たい線を引いた。

「彼女って、だれのことだ」

「ルラ…バイ。ママがそう呼んでた。名前は知らない。夜の換気口から来るの。息が落ち着くやつ」


換気口。城戸は天井を見上げる。気流は弱い。だがダクトは街中の見落とされた配管を連ね、地下へ降りていく。彼は男の子の母親を呼び、短く説明し、バンドのログ閲覧許可を端末で取る。

――[HOUSE-LOG 23:47:58] HR 98→78(−20%/経過110s)/内部騒音 33→41dB/中心周波数 415Hz。

逸脱閾値をまたぐ下降。数値上は“被害”。にもかかわらず、この子にとってそれは救いの形だ。条例は個別の体験を平均に押し戻す装置だ。城戸はそれを嫌ってはいない。嫌いになりかける瞬間を、ただ見つけてしまう。


「録音は?」

母親は肩をすくめる。「録音できないの。スピーカー登録のない出音は家の端末が遮断するって。自治会の説明で」

城戸は頷き、少年の前に膝をつく。

「僕は歌わない。規定でね。でも、歌が残した数字は追える。君が眠れる方法も、数字が示せるかもしれない」

彼は端末のフィードフォワード・アルゴリズムを開き、415Hzの主音周辺に緩やかな揺らぎを加えた呼吸ガイドを生成する。出音は35dB未満のホワイトノイズ扱いで、条文上の音声には当たらない。

――[GUIDE 00:12:03] 呼気3.2s/吸気3.2s/目標HR 98→82(−16%)。

少年の胸が、数字よりわずかに先に落ちていく。舌が自然に下がり、喉の筋肉が脱力する。バンドの数値が85を切ったところで、母親が安堵で泣きそうになった。城戸は立ち上がり、管制へ短く報告した。


「ルラバイの入り、換気ダクト経由の可能性あり。地上からの発信体なし。地下系統の調査を願う」

「了解。地下公共設備の図面を送る。旧東連絡路に埋設された公共ピアノがある。71号。十年前の更新で“封音”扱いだ」


公共ピアノ。城戸の記憶の片隅に、学校の行き帰りに開放されていた広場のアップライトが浮かぶ。いつからか鍵がかけられ、カバーが外され、最後には市の“封音”指定で地中化された。音は人の習慣に負け、習慣は規則に整列した。


1時過ぎ。マンホールの蓋を外し、保守用の梯子を降りる。空気は冷え、耳の内側の圧が少し上がる。遠いところで鋼線が擦れるような微かな振動。擬音は使わない。だが彼の体はそれを演奏として読み取る。踏み板のゴムは乾き、靴裏にざらりとした抵抗を残す。

地下通路の端に、厚いアクリル板で覆われた空間があった。プレートに〈公共ピアノ71号/封音〉とある。鍵盤は見える。フェルトはまだ赤い。防音材の隙間に、細いケーブルが一本、規格外の径で走っていた。

――[SCAN 01:22:40] 未登録導線/電源端子改造。

城戸はケーブルの先を辿り、排気ダクトの枝管に小さなトランスデューサを見つける。登録タグは剥がされている。だが圧電素子の型番は古い市内調達のものだ。

――[AUDIO TEST] 415Hz/3.2s周期/ピーク64dB。

数字が同じだ。地上の子どもの呼吸ガイドに似ている。いや、元祖はこちらだ。彼はピアノの蓋越しに、ハンマーと弦の距離を見た。鍵盤は誰かの指の記憶をまだ保持している。押せば音が出る。出してはいけない音だ。


無線が鳴る。

「監察。追尾解析完了。ルラバイの発信端点は71号の共鳴管。匿名配信はここから換気網へ。逮捕指令:即時。封音違反、無登録配信、心拍逸脱誘発の疑い。逮捕対象は現場の操作主体」


現場の操作主体。人か、機構か。城戸は手を伸ばし、トランスデューサの電源を落としかけて止めた。落とすことは容易い。数字はすぐ静まる。上の子のバンドには、たぶん数分遅れて落ち着かなさが戻る。

彼は端末に子のログを呼び出す。

――[HOUSE-LOG 00:14:40] HR 85→80(−5%/経過210s)。

逸脱は閾値に達しない。発信が止めば、逆方向に逸脱するのではないか。

[指令:逮捕]の赤字が画面の片隅で点滅する。

音は罪か、と彼は思う。罪の定義に、誰の体が含まれているか。彼は条例を信じて働いてきた。数字に寄る。それが暴力の抑制になると信じるから。だが今夜、数字は誰かの睡眠権を奪いも、守りもする。奪うほうの定義は先に整っている。


彼はピアノの蓋に掌を置いた。冷たい。弦の上に指を置かず、ただ圧だけをかける。弦は鳴らないが、共鳴管の気圧が僅かに変わる。彼の体内のリズムも、その変化に従う。

「監察、71号。現場には人影なし。機構のみ」

「機構の押収で足りる。電源遮断、搬出手配。現着10分」

城戸は黙って端末の遮断ボタンに親指を置いた。押せば赤は青に変わる。押さねば、上の子は眠り、条例は鳴らない。

胸の内のメトロノームが、一拍遅れる。70dB、45dB、±20%/60s──数字が彼の中で並び直す。指はまだ、動かない。


梯子の上のマンホールの縁に、遠い靴音が近づく気配がした。救援か、誰かか。彼は親指の圧をほんの少しだけ弱め、息を吸った。選ぶのは今だ。だが彼はまだ、決めないでいる。次の拍に、指がどちらへ動くかは、彼の数値にさえ書かれていない。

・証拠:橋脚A-4で狭帯域415Hz±6Hz/周期3.2s/ピーク64dBを抽出。

・数値:心拍逸脱閾値±20%/60s。幼児帯で±25%×5件(22:12–22:24)。

・物件:公共ピアノ71号“封音”区画に未登録導線+トランスデューサ設置。

・相関:415Hzログと住戸HR下降(−20%/110s)に時系列一致。

・仮説:ルラバイは71号の共鳴を利用し、換気網経由で局所配信。被害定義と睡眠権に解釈の齟齬。

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