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歴史の隠れ家  作者: 木島別弥
第三章 アジアの首都について
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アジアの首都を攻め落とした者たち

 1826年に帝国時代のイギリスが、シンガポールを陥落させた。イギリスは、アジアの首都を攻め落としたのである。これは、大英帝国の覇権をはっきりと示している。アジアの首都の知恵がイギリスに渡ったのである。

 1869年に発表された小説に、ロシアをアジアの首都と書いてあるものがある。これは、シンガポールを攻め落とされたアジアが、ヨーロッパに近い位置に首都を移動して、攻め落としたイギリスをにらんだのではないかと私は推測する。ロシアは、西部がヨーロッパに属して、東部がアジアに属する広大な国である。これは、ロシアがローマ帝国の北部から東部にわたり位置するためである。

 ロシアは、何度、ヨーロッパに攻め込まれても攻め落とされなかった。その後で、再び、アジアの首都はシンガポールになる。

 1942年に、東南アジアに領土を広げた我が国がイギリス領シンガポールを攻め落とした。イギリスは八万人の兵でシンガポールを守っていたが、攻め落とされた。我が国は、それから本土敗戦の1945年までの三年間、アジアの首都シンガポールを領土とした。おそらく、東南アジアに攻め込んだ我が国の軍隊は、シンガポールがアジアの首都だなどとは知らなかった。アジアの一国である我が国だが、我が国はアジアの首都を解明していなかった。たった三年間しか、アジアの首都を征服できなかったのが、我が国の弱さだといえる。たった三年間で、我が国はアジアの首都の知恵をどれだけ手にすることができたのか。我が国は、もっとシンガポールを調べるべきだった。イギリスはかなりシンガポールを調べたはずだ。

 しかし、偶然にも、軍隊の無思慮な領土拡大によって、三年間とはいえ、一度はアジアの首都を攻め落とした国に我が国はなれたのである。第二次大戦の不可解な偶然のひとつである。我が国は、中国とインドを征服しようとしていた。インド侵攻は、インドの領土を一歩も踏み込むことができずに敗戦したが、シンガポールがそこまで重要な土地だとわかっていたら、いたずらに領土拡張など狙いはせず、もっとじっくりとシンガポール防衛に力を入れるべきだったのではないか。それとも、第二次大戦が最終戦争であると考えていた我が国は、意地でもインドを征服しようと進軍したのだろうか。

 我が国が敗戦してから、シンガポールがどうなったのか、私はあまり詳しくは知らない。アジアの首都を東南アジアに置いた計画者は、アジア諸国をよくあざむいた。イギリスに先に征服されたのは本当に面白くない。不満やるかたなし。

 我が国の愚かさのひとつは、アジアの首都を解明できなかったことである。何度も、インドまで行く海路を旅しながら、我が国の知識人たちにシンガポールの重要性が理解されなかった。それは、中国、インドの大国に比べて、東南アジアを軽く考えていたからではないのか。アジアの首都に何があり、どのように機能するのか。アジアの首都の民とは何か。アジアの秘密は、まだ我が国に対して眠っているのではないか。


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