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歴史の隠れ家  作者: 木島別弥
第二章 空想科学小説について
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「科学仮説群」を明かす

 かつて、空想科学小説は「科学仮説群」と呼ばれるアメリカの軍事機密だった。二十世紀の前半から1989年までである。

 空想科学小説はアメリカ国家の高い評価を得ていた。かつて、アメリカのSF小説を読むことは、アメリカの軍事機密を読むことだった。空想科学小説の傑作たちは、一流の独創的な科学理論と同じだけの価値があった。

 そこでは、宇宙人の生態についての模索が行われた。時間技術、空間技術、生命工学などの非現実的な技術の模索が行われた。世界の崩壊についての模索が行われた。非現実におけるさまざまな葛藤が描かれた。アメリカ人はSF小説を読み、高度に文明的な世界を探った。

 極大から極小まで想像力を駆け巡らせ、さまざまな分野の可能性を探求して、起こりえる悲劇と喜劇について探求した。人生を設計して、都市構造を設計して、世界を設計して、戦争を設計して、未来を設計した。現実を奇妙な角度から眺め、あらゆる脅威について描写した。いかにして我々が滅びうるか。そこに残された希望とは何か。それらについて、たくさんのSF小説が書かれた。

 SFに描かれた宇宙人との交流がどれだけ誤解に満ちたものだったか。それは、人類がどれだけ宇宙人について勘ちがいしているのかを示している。人類の宇宙人に対する先入観はまちがいだらけだ。優れたSF作家の指摘した宇宙人の描写は、とても示唆に富んでいて、参考になる。

 1989年を最後に、アメリカはSF小説を軍事機密にはしなくなってしまった。1990年からは別のものがアメリカの軍事機密になった。


 空想科学小説の起源がいつになるかは、確定は難しい。二世紀のルキアノス「本当の話」にまでさかのぼる人もいるだろう。ルキアノス「本当の話」では、二世紀にすでに月への旅が描かれ、月世界人や太陽世界人が登場する。時間旅行では、私の知る限りでは、四世紀に書かれた「華厳経」にすでに過去へ行くこと、未来へ行くこと、の記述がある。十八世紀のカントの「純粋理性批判」では、神が宇宙の終末から起源まで時間移動する。時間旅行の概念もこれくらいに古くから存在した。生命工学では、十九世紀のメアリ・シェリー「フランケンシュタイン」で、人造生物を科学力で作り出すことが描かれる。

 十九世紀末、ウェルズは自分の空想科学小説を「科学ロマンス」と呼んでいた。まだ空想科学の呼び名は誕生していない。空想科学サイエンス・フィクションということばができたのは、二十世紀のヒューゴ・ガーンズバックからだ。


 アメリカのSF小説が、現実の持つ迫力に勝てるかは難しい。現実は、空想より迫力を持って襲ってくるものだ。「SFなんてくだらない」とはいってくれるな。優れたSFは論理的に想像力をふくらませる助けになる。

 SF作家は、現実をSFのようにしようとしているのではない。ただ現実の可能性を探っているだけだ。

 そして、SFを楽しむうえで面白いのは、SFは前菜だということである。SF小説は、荒唐無稽な空想劇の前菜だ。世の中には、SF小説よりも凄まじい現実が存在するのである。その凄まじい現実は、日常に潜み、時として読者を襲う。読者はSF小説で読んだよりも驚くべき現実に出会う。

 SFは道化なのだ。真実の王者のために用意された道化なのだ。「SFみたいなことが起こるはずないだろう」と語る大人や子供たち。しかし、その幾人かは、「いや、そういうことも起こりえる」と答えるだろう。それがよく訓練されたSF読者だ。そして、現実には、SFよりもっとスゴイことが襲ってくるのだ。厳しく物質に束縛された現実において、SFを凌駕する出来事が現実に起こりえるのだ。

 やはり、いちばん楽しいのは、現実がSFを超えていた場合だろう。現実はその期待に応えなければならない。その時、SF作家は、みずからの全力の空想が敗北したことを知る。SFとはそういうものだ。たかが現実に負けてしまうのだ。やってられないね。しかし、仕方ない。

 空想を実現させる。それを志すものもいるだろう。そのものたちは、SFを通過点として、その背後に隠された現実にたどりつかなければならない。魔術師の階段はどこまでも高くへとつづく。SFとは、現実の可能性を楽しむ娯楽である。


 アメリカSF小説の栄光と終焉はこのようであった。1990年以後のSF小説がどうなるのか、私にはわからない。しかし、少なくても、アメリカでは、SF小説の傑作はあまり出版されなくなったようだ。それ以後は、アメリカ以外の国で、SF小説の傑作は書かれている。オーストラリア、カナダ、中国などなど。

 我が国でも優れたSF小説は書かれているが、複雑な出版環境のようで、傑作の出版が維持されることは珍しい。優れたSF小説が次々と滅ぼされていく現実に我が国はある。

 何者かが、優れた文化物を平気で破壊していく。文化物の保存は困難だ。人気の出そうな文化物はどんどんぶっ壊される。維持することは困難なことなのだと実感する。

 空想科学小説がアメリカで「科学仮説群」ではなくなってから、すでに35年がたつ。かなりの長期間だ。幻視者はこれからどこの分野に現れるのか。それは小説媒体ではないのかもしれない。マンガか。映像か。音楽か。コンピュータゲームか。コンピュータジャンクか。それとも、さらに別の分野だろうか。現実体験への回帰で、イベントパフォーマーかもしれない。私は今でも幻視者を探している。何でも知的に突き詰めていく「科学仮説群」の興奮をもう一度、体験できるだろうか。


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