第2話「崩れゆく都心の夜」
……あたりに漂う血と煙の匂いが、生々しく鼻を刺す。まだ夕方でも夜でもなく深夜帯のはずなのに、看板やビル照明が消えかけている箇所も多く、なんとなく視界が暗い。たぶんどこかで停電が起きているのかもしれない。
「ハジメ、こっちに来て……!」
焦った声でヒロキが呼ぶ。俺はビルの敷地奥へと走り込むと、そこにうずくまっている女性を見つけた。服は汚れ、足を負傷しているようだ。
「た、助けて……あの、犬、みたいなのが……っ」
喘ぐような声をあげる女性。モンスターの牙で噛まれたのか、ズボンの裾が血で濡れている。
「大丈夫ですか、今はヤツらはいない?」
「たぶん……少し先で別の人を……」
女性の顔は青ざめている。こうして遭遇するだけでも恐ろしい状況なのに、この先どれほどの地獄が拡がっているんだろう。今はまだ“弱い”モンスターしか出さないと言ったが、目の前で人がバタバタ襲われている現実。
「ヒロキ、手当てとかできそうか? とりあえず止血を……」
「わ、分かった。応急処置キットとか探してくる」
ヒロキが近くのコンビニやドラッグストアを探すため、一人で駆け出す。こんな夜中だが、非常事態だから店を壊してでも物資を確保しなきゃならないかもしれない。
俺は女性に肩を貸し、あたりを警戒する。いつまたモンスターが来るか分からない。
「ありがとう……。わたしは大丈夫……かな……」
「とにかくしっかり。あんたの名前は?」
「……浅海、マリ……」
名乗ったあと意識が少し飛びそうになったので、俺は慌てて声をかける。「浅海さん、気をしっかり!」と。
こういうときこそ救急車を呼べばいいのに、それらしきサイレンすら聞こえない。もう機能してないのだろうか。スマホを見ても圏外表示。嘘だろう。さっきまで普通に繋がってたのに。
改めて街を見渡す。道路は車が乗り捨てられていたり、衝突事故を起こして止まっているのも多い。警官や消防隊の姿も見当たらない。人々は散り散りに逃げ回るばかり。なかには武器を持って反撃を試みている者も見えたが、圧倒的に混乱しているのは明らかだ。
「……こんなの、冗談じゃねえぞ」
思わず呟く。目に映るのは血、破壊されたガラス、荒れ果てた街の一角。ほんの数分前まで祝賀モードで浮かれていたのが嘘のようだ。
ふと、さっきまで感じなかった“視界の右下”にステータスウィンドウがうっすら見える。Lv:2という表示があり、スキルポイント:1と記載があった。それが何なのかはまだよく分からないが、少なくともさっきのモンスターを倒したことで経験値を得たらしい。
(神ってやつが言ってた「レベル上げ」とはこういうことか? でも、普通の人はこんなバカげた状況で戦闘なんかできるわけないだろ……)
もしここでモンスターを倒さなければ、襲われるだけ。逃げ回るだけでは限界がある。ならば、少しずつでも“戦う術”を身に着けるしかないのかもしれない。まさかこんな展開になるなんて思いもしなかったが。
ほどなくして、ヒロキが血眼になって戻ってきた。手には包帯や消毒液らしきもの、そして食料らしきパンを抱えている。コンビニに突撃して物資を確保したのだろう。
「ごめん……万引きじゃなくて強奪だよな。でもこんな事態だし、誰も店にいなかったんだ」
「ああ、分かってる。今はそんなこと言ってる余裕ない」
浅海さんの止血をして、なんとか一命をとりとめてもらう。幸い噛まれた深さは致命傷ではなさそうだ。とはいえ、放っておけば感染症のリスクもあるし、救急車も当てにならない現状。この先はどうする?
少し考えてから、俺たちは近くの大きなビルへ避難することに決めた。そこには地下駐車場があるから、一旦そこに身を隠して夜を明かすのがいいだろうという判断だ。
「よし、移動しよう。ここに長居は危険だ」
「うん……。足、痛むけど我慢する」
浅海さんを支え、ヒロキと一緒に表通りへ一歩踏み出す。だが、運が悪いことにモンスターの一団と鉢合わせした。犬型モンスターが三匹、まるで小さな群れをなしている。
「げっ……あいつら……」
「迂回しないとだめか。いや、すぐに見つかるかも……」
辺りを見回すと、裏道を通れば少しは避けられそうだ。とはいえ、裏道にもモンスターがいる可能性はある。判断に迷う。すると、ヒロキが唇を噛みながら言った。
「……ハジメ、俺たちで片付けるぞ」
「はぁっ!? 三匹だぞ?」
「でも逃げたら追いかけられる。あいつら、足速そうじゃん? 逃げるより先手を打ったほうがいいかもしれない。それに、チュートリアルって言ってたろ? こいつらで経験値を稼がないと先に進めないんじゃないか……?」
まさかこんな殺伐とした現実を前にゲームじみた発想をするなんて、俺もヒロキも狂いそうだ。それでも、もう俺たちは普通の市民でいられないのかもしれない。“殺るか殺られるか”の世界に放り込まれたという事実が、突きつけられている。
「……分かった。行くぞ」
「浅海さんはここでしゃがんでて。今から俺たちがあいつらを引きつける!」
俺はさっき使ったパイプ椅子、ヒロキはコンビニから拝借してきた包丁を右手に握り、意を決して犬型モンスターの群れに接近した。
幸い、こいつらは知能が低いのか、俺たちが姿を見せると唸り声をあげて突進してくる。一匹が牙を剥いて飛びかかってきたところを、俺はパイプ椅子で思い切り横へ叩き落とす。さらにヒロキが包丁を構えたが、リーチが短いせいで距離を測りづらそうだ。
「くっ……なんて力だ!」
モンスターの体当たりに吹き飛ばされそうになる俺を見て、ヒロキが慌てて近づくが、二匹目が横合いから襲い掛かろうとする。体勢の悪いヒロキを庇うように、俺は咄嗟にパイプ椅子を投げつけた。
「だあっ!」
運よく命中し、モンスターはよろける。ヒロキはその隙に包丁を振り下ろし、モンスターの喉に刺した。血飛沫が上がり、悲鳴をあげて倒れ込む。
一瞬、あまりに生々しい光景に息を呑む。しかしここで躊躇したらこっちがやられる。もう一匹が俺の背後を狙ってきているのが気配で分かった。
距離が近い。椅子を放り投げた今、武器はない。手ぶらのまま本能的に振り返って拳を突き出す――
「うおおおっ!」
想像以上の反動があったが、拳がモンスターの顔面を殴った。その衝撃で骨が折れそうになる痛みが走るが、それでも相手はよろけて地面に転がる。すかさずヒロキが背後から包丁でとどめを刺した。
「はあ、はあ……。終わった……か」
「三匹目は……?」
視線を移すと、最初に叩き落とした一匹はまだ息絶えていない。ぐらりと起き上がりかけている。俺はパイプ椅子を拾い上げ、渾身の力を込めて頭を踏みつけた。もう迷いはない。一瞬で事切れたのを確認し、どっと力が抜ける。
《ストレイハウンド×3を撃破。合計経験値300を獲得。Lvが2→3に上昇。スキルポイント1、ジョブポイント1を獲得。》
まるで機械的なゲームメッセージが目の前に浮かぶ。ヒロキのほうも似たような表示を見ているらしく、「……なんだこれ、俺もレベル2になった」と顔をしかめていた。
浅海さんを連れて、なんとかビルの地下駐車場へ到着した頃には、俺たちの体は震えでガタガタになっていた。命を奪う感触――“人”じゃないにしても、命あるものを自分の手で仕留める経験など初めてで、頭が混乱する。
幸い、地下駐車場に他のモンスターはいないようだ。防犯カメラの赤いランプがかろうじて点灯しているが、停電の予兆なのか明かりは薄暗い。とりあえず奥まった位置で浅海さんの応急処置を再開し、落ち着くのを待つ。
「とりあえずここで一夜、やり過ごそう……。もう外をうろつくのは無理だ」
「そうだな……。でも、朝になれば状況が良くなる保証なんてあるのか?」
「分からない……けど、今は休むしかない」
ヒロキも疲弊し、顔面蒼白だ。俺だって心臓がバクバクしている。ただ、少しずつ脳が回り始めているのか、不思議と「生き延びなきゃ」という意志が湧いてきた。ここで諦めたら終わりだ。神と名乗るヤツの勝手なゲームに殺されてたまるか。
外ではまだ悲鳴やモンスターの吠え声が響いている。それを聞きながら、どうにか眠れそうもない長い夜が続く。
令和の始まりが、まさかこんな“オワリ”になるなんて……俺は絶望の底で、一筋の希望を探すように空を仰ぎ見る。もちろんそこに星空などなく、暗いビルの天井があるだけだった。