初恋、5年
恋に落ちる音を聞いた。
十六歳、冬の夜の事だった。
薄暗く、グラスの光があちこちに反射する中で、艶かしく光るピアノから最初の一音が地を這うようにして私まで届いた時、私は姉の挫折を知った。クラシックピアノを捨て、突然ドラムに転向した上にジャズバンドを組んだと聞いた時には何事かと思ったが、そういう事だったのだ。
姉は聞いてしまった。
静かな佇まいの男が弾く、恐ろしく分厚い音を。
自分の感情を晒け出すことを厭わない音は、酒と会話に興じていた人々の視線と耳を鮮やかに奪い、惹き付けて離さなかった。
無表情な顔で、表情豊かな音を出す十も年上の男の細長い美しい指を、私はその晩何度も思い出した。
姉が転がしていたドラムの音も、知らない誰かが弾いていたベースも、男の人の繊細で響く歌声も、全て消えて、ただあの人の指から紡がれる音だけ。
控えめに鳴っていたあの音だけを、何度も。
「轟さん、私二十一歳になったよ」
包み込むようなピアノを弾く人の名前が「轟く」だなんて変なの、と呼ぶ度に思う。けれど、呼ぶ度に、恋しくて恋しくてたまらなくなる。
「……なったね」
「約束守ってよ」
「したかな」
いつものジャズバー「アシンメトリー」で五曲演奏を終えた皆がカウンターに戻ってきて早々、私は隣に座った轟さんに絡む。ちらりとグラスを見られたがお酒なんて飲んでいない。酔ってあの音を聞いてしまうと色々とマズいことはちゃんと学んでいる。
姉も、ベースの流さんも、ヴォーカルの令司も、私たちの攻防はもう五年知っているので、お酒をちびちびと飲みながら「次のライブだけどさ」なんて話している。
「約束。二十一になったら結婚してくれるって言った」
「いや、結婚は言ってない」
「覚えてるじゃん」
「あのねえ、いつまでも十も上のおじさんに執着してないで周りを見なさい」
「周りを見たって、轟さんはどうやったって一人しかいないんだから仕方ないじゃない」
「俺のどこがそんなにいいのかね」
「全部」
私は言う。静かな横顔は揺れない。
けれど私は知っている。
この人がどこまでも優しい人だという事を。
「全部好き。誕生日くらい祝ってよ」
そう言ってねだれば、彼は私の為だけにハッピーバースデーを弾いてくれる。
面倒そうにしながら、その割にはとても愛情深い音で。
だからこそ私が五年も諦め切れてない事を、この狡い大人は知っていてやっているのだ。
音は心を口にする。
初恋から5年。
手が届くまで、後少し。