前編:白井直紀
遅刻して高校に登校した。よくあることだ。
僕が美術室に滑り込んだ瞬間、授業開始のチャイムが鳴る。
「白井っち、こっち」
名前を呼ばれたほうを見ると、クラスメイトの結城想太が僕を手招きしていた。
僕たちはこの美術の授業ではペアを組んでいる。
僕が想太の隣に座ったタイミングで、先生が「じゃあ前回の続きねー」とみんなに作業を促した。
描きかけの画用紙や4Bの鉛筆を用意していると、想太が小声で話しかけてくる。
「午前中、何してた? 撮影?」
「ううん、今度撮る映画の読み合わせ」
「へー、楽しみ。公開されたら見に行く」
「あのな、まだ撮影すら始まってないから」
気が早い奴。苦笑していると、画用紙を奪われた。
「白井っち……相変わらず絵、下手すぎな。俺こんな宇宙人みたいな顔してないし」
まあ確かに、これはないなと自分でも思う。相手は国民的人気を誇るアイドルの結城想太。
なのに僕の画力の低さのせいで、宇宙人と言われても仕方がないようなひょろひょろの人間の顔の下書きがされている。
「……色つけたら、奇跡的に素晴らしい傑作になるかも」
「下書きがこれだと無理でしょ。そんなんなったらマジで奇跡だわ」
想太がはーっと息を吐いて笑った。そんな彼の手元にある画用紙には、僕を1.5倍ほど男前にした感じの顔が鉛筆でざっくりと描かれていた。
「想太は絵、上手いよなー」
「まあね。期待しておいて。超イケメンに描いたげる」
「普通に描いてくれ」
「はいはい」
なんとなく会話が途切れて、それぞれ画用紙相手に作業を始める。
お互いに無言になり、鉛筆を動かし始める。
周囲でクラスメイトたちが同じように黙ったり、雑談をしたりしながらペアで肖像画を描いている雑音。そういうものが、やけにたくさん耳に入ってくる。
「……想太」
「んー?」
僕と紙を見比べながら手を動かしていた想太が生返事をよこす。
小さく息を吸って、吐いて。それからさらっとした口調を意識してつぶやいた。
「映画……初めてさ、キスシーンあるんだよね」
想太の手に握られた鉛筆が、カリ……と音を立てて止まった。
だけどそれは一瞬のことで。
「ふーん。頑張って」
それ以上、彼は何も言わなかった。
*
僕、白井直紀は四歳のときから役者をしていて、昨年アイドルとしてデビューした想太とは、同じ事務所の先輩後輩の関係にあたる。
けれど同い年だし僕自身が先輩ヅラすることに慣れていないのもあって、普通に上下関係のない友人だ。
想太とは昨年、学園ドラマで共演もした。僕と彼がプライベートでも仲が良いのは世間にも知られていて、なんとなくその共演をきっかけに友人になったと思われているらしい。
実際は違う。僕たちはそれよりも前に、学校で同級生として初めて会話した。
高校の芸能コースに通っていると、周囲の生徒はもちろん芸能活動をしている奴が多い。
俳優、歌手、アイドル、声優、歌舞伎役者、モデル。既に仕事をしている奴もいれば、養成所通いの奴もいる。
想太は当時、アイドルグループの一員として仕事を始めたばかりだった。僕も所属する大手芸能事務所が派手にデビューイベントをかまし、注目を集めていた時期。
何人かいるメンバーの中で、結城想太はセンターでもリーダーでもなく、特別目立った動きをしているわけではなかった。ただ、顔立ちは物凄く整っているのが印象的だった。実際、二次元の王子様キャラが実際にいるみたいだ、とか騒がれていた。
学園ドラマでの共演が決まるよりも少し前のこと。
想太とはクラスメイトだしデビューして話題にはなっているものの、特に接点はない。
そんな状況だったある日の昼休み、適当な場所で昼飯を食べようと購買で買ったパン片手に廊下を歩いていると、変な人だかりができているのを見つけた。
結城想太が、数人の女子に囲まれている。
近づいてみるとサインちょーだい、なんていう黄色い声が聞こえた。
珍しいと思う。大体、うちの学校だと有名人はぽつぽつと在籍しているわけで、みんな気を遣って特別扱いはしないのに。
さすがに事務所の売り出し方が大々的すぎたのか。
彼らのアイドルグループのデビューシングルが爆発的に売れて、タイアップしているCMの商品もバカ売れして、連日メンバーの誰かしらがメディアに出ている。
一種の社会現象のようになってしまっているのは、僕も知ってはいるけれど。
少しずつ積み重ねたような売れ方をしている僕には、彼らのようなまず最初にバーンとインパクトを残すような売り方は、眩しくて想像がつかない。
ただとにかく、想太本人は周囲の反応に戸惑っているように見えた。
「結城」
名前を呼ぶと、彼の涼し気な瞳がさ迷い、僕を捉える。
「あ、白井くん」
「結城、昼飯一緒に食おう」
無理やり人の輪から連れ出すと、助かったと言わんばかりに大人しく後ろをついてきた。
残された女子たちの未練がましい視線が背中に突き刺さるけど、知らない。いちいち気にしていられん。
「ありがとう」
「うん。屋上でも行こ」
「待って、俺今から購買でパン買ってこようと思ってて……」
「また囲まれても面倒じゃん。僕のあげるから今度おごれよ」
袋から焼きそばパンを取り出してひょいと想太に投げる。彼が器用にキャッチするのを確認してから、僕は階段を昇った。
トン、トン、と二人分の足音が響く。
ほとんど交流のないクラスメイト。黙っているのも気詰まりだ。少し話題に迷いつつ、話しかける。
「大変だな。隣のクラスの梶もグループのメンバーだろ。あいつは大丈夫なん?」
「俺と違って梶はこういうの好きだから。ちやほやされて舞い上がってるよ。ほら、三年の松田先輩とかにも声かけられたとか言って喜んでたし」
「松田先輩!? Jガールズの? あんまり女性アイドルと仲良くしてっとイメージ的に良くないんじゃないの?」
「それな。ちょっと一回梶にも言っておく。そもそも校則で男女交際禁止されてるから、さすがにあいつもそこまで阿呆ではないと思いたいけど……」
屋上に続く階段を昇りきり、ドアを開けながら、僕は結城を振り返った。
「結城って、けっこー真面目なタイプ?」
「え?」
きょとんとした瞳と目が合った。
うちの高校は、校則で男女交際が禁止されている。進学コースのほうは交際がバレても多少見逃してもらえるらしいが、芸能コースは見つかり次第しっかりと処分されることで有名だ。
しかし、どんなにイメージが大事な仕事をしているとはいえ、結局は高校生たちの集合体だ。誰も彼もがいい子にしてルールを守っているわけがない。
「ばれないように誰かと付き合ってる奴、わりといるぞ」
「……マジか」
知らなかった、と想太は無邪気に笑った。どこか色気のある大人っぽさを持つ奴だけど、同い年の高校生だったな、と当然のことを思い出した。
「自分のことばっか考えてて、周りのそういうの見えてなかった」
屋上は、晴れていて風が気持ちよかった。僕たち以外は誰もいない。快適な場所を独り占めする快感。
彼は集中すると熱中するタイプなのかもしれない。一見気怠そうに見えつつ、意外と一生懸命レッスンや仕事を頑張る姿が想像できる。
僕は集中しているつもりでも、周囲の色々な情報に敏感になってしまうところがあるから。流されずにやるべきことを真っ直ぐ見ていられるのは、ちょっと羨ましい。
「まあ今お前忙しそうだもんな。必死に頑張ってたってことじゃね? デビューおめでとう」
ほれ、と袋から出したジュースのパックを追加で投げた。
「あ、ありがとう……白井くんの飲み物は?」
「お茶も買ったからいい、ジュースはお前が飲め」
適当な地べたに座り、サンドイッチをペットボトルのお茶と一緒に食す。
隣に座って焼きそばパンを食べながら、想太は僕に尋ねた。
「白井くんは? 彼女とか好きな人とかいる?」
「彼女いない。好きな人も、いないかなあ」
「小島日奈……さん、との噂は違うんだ?」
子役上がりの女優の名前を出されて苦笑する。小学生の頃、姉弟役が当たって二人セットで売れた。今でも共演することが多いからか、付き合っていてほしい、という一部のファンからの謎の願望があるらしい。
でもそれは、あくまでも他人の願望で、ただの噂。僕と彼女との間には、何もない。
「いちいち噂信じるなよ。日奈は最初が最初だから、今でも姉ちゃんみたいな感じ」
「そっかあ。てかこの焼きそばパンうまー!」
「だろ。いつも売れ残ってるのが不思議なんだよなあ。……結城は?」
「へ?」
「好きな奴とかいんの?」
興味本位で尋ねてはみたけど、そういや自分のことに必死だったんだっけ。しかも校則を律儀に守ろともしていたみたいだし、女の子と遊んでる暇なかったか。
「……白井くん」
「は?」
名前を呼ばれて瞬きをする。想太は膝の上に肘をつき、手のひらに顔を乗せてこっちをじっと見ていた。
「んーと、白井くんのことは、好きかもしんない」
「え、僕? 何言ってんの……?」
僕を見ていた顔がくしゃっと笑顔になる。
「さっきさ、困ってたら声かけて助けてくれたし、パンまでくれるし。王子様みたいだったよね」
王子様なんて言われたことがなくて、どう反応したらいいのかわからない。
黙りこんで笑顔の想太を見ているうちに、恥ずかしくなってきて頬のあたりに熱が集まってくる感覚がした。
「王子ってキャラじゃないと思うんだけど。結城みたいにかっこいいって騒がれもしないし」
子役の頃は「かわいいー」という騒がれ方はしていたが。最近は「大きくなったねえ」としみじみされる。
というかパンをあげる王子様とか聞いたことねーよ。そういう国民的ヒーローキャラなら知ってるけど。
「じゃあ、俺だけのかっこいい王子様じゃん」
「……よくそんな歯が浮きそうな台詞を真顔で言えるよな」
「ええっ? 感謝と好意を素直に伝えただけなのに!?」
「それは……どうも」
頬の熱を逃がすように、上を向く。
空が近い。心地よい風が髪の先や顔の表面を撫でていく。
この日から、僕らの距離は一気に縮まった。
僕は想太にとって頼れる兄貴分のような存在になったし、想太は僕にとって可愛がりがいのある弟のような友人になった。
兄と弟のような関係とか特別に仲の良い友人とかそういうものから、いつどこにその他の感情が混ざりこむようになったのかは、難しくて説明できない。
ただ、想太が僕に対していつの間にか友情以上の親密な気持ちを抱くようになっているらしいというのは知っていた。
彼のそうした想いを僕のほうからどうするでもなく黙って受け取り続けているうちに、自分の中にも似たようなものが生まれていることは否定できない。
そうじゃなかったら、キスシーンに罪悪感を抱くわけがないのだ。
放課後、屋上のドアを開けると、そこに想太はいた。駆け寄り、フェンスにもたれてぼんやりとグラウンドを見ている背中にタックルする。
「わっ、白井っち?」
「梶が探してた。今から仕事だって?」
「あー……レッスン」
「じゃあ早よ行け」
想太はうんと頷いてから、迷うように僕を見た。
「誰とすんの?」
「え?」
「キスシーン」
「……日奈」
妙に後ろめたい気分になり、つい小声で囁くように答えてしまう。
僕よりもほんの少し背の低い想太は、納得したように僕を見上げて口角を上げた。
「なんか腑に落ちたかも。小島さんとなら、許せる人多そう」
「なに、許せる人って」
「白井っちを子どもの頃から見守ってきたファンの皆さん」
「あーね」
僕だって知っている。みんなが子役の頃のままの白井直紀のイメージからから抜け出せなくて、なんとなくまだ子ども扱いされていること。純粋な子どもでいてほしいから、性的なシーンを演じる機会が敬遠されてきたこと。
そのイメージを払拭するために今回、とりあえず世間からの反発が薄そうな小島日奈を相手に、二人を恋人役にしてスクリーンに映したいという意図もあること。
想太の言いたいことを理解しつつも、僕は苛ついていた。
大人たちの思惑通りに、名コンビのように扱われている女性と、演技とはいえファーストキスをせねばならんことについて。
それから、隣にいるこの男は、とっくにそれを済ませていることについて。
「僕が日奈とそういうことすんの、お芝居でも嫌?」
「嫌だねえ」
想太は隠すことなく堂々とそう言った。それがまた余計に腹が立つ。
僕はふん、と小さく鼻を鳴らした。
「ずるい奴。お前だっておんなじようなことしてんのにな」
僕はシリアスだったり真面目な雰囲気の作品への参加が多いけれど、想太は王子様というイメージからなのか、少女漫画のような恋愛ドラマや映画に出ることが多い。その中で、共演者である同世代の女優や女性アイドルと恋人の役を演じてきたのも知っている。
僕の理不尽な苛立ちを、想太は困ったように笑って受け止めた。
「しょうがないじゃん」
「ああ、しょうがないよな。……なあ想太」
「何?」
「キスしていい?」
目の前の綺麗な瞳がきゅっと見開かれる。濁りのない焦げ茶の目。
「な、なんで? 練習?」
「や、練習とかじゃないけど……」
なんでだろう。なんというか、この身体が初めて経験するキスという行為が、白井直紀という僕自身のものではなくて、架空の物語の中の僕と同じで違う誰かのものになる予定なのが、嫌だった。
つまり多分、限りなくシンプルにするとこういうこと。
「想太としたいから」
「……白井っち、俺のこと好き?」
「まあ、かなり」
想太の目尻が細まって、くしゃりと笑みが作られる。
僕の好きな、心底嬉しいときの彼の笑い方だった。
「じゃあ、いいよ」
こういうときにどういう気分になるのか今まで想像がつかなかった。けれど、意外と胸の内は静かだった。
西日に照らされて赤く染まった想太の頭に手を伸ばして顔を近づけたら、想太がくすぐったそうに目を伏せる。
まつ毛長ぇ、と冷静にどうでもいいことを思った。
ふいに、僕たちの間にスマホの耳障りな着信音が鳴り響く。
「あ、梶かもしれなっ……」
何か言いかけた想太を無視して、僕はそのまま唇に唇を押し付けた。
*
唇を離して、目の前の彼女と数秒見つめ合う。
カット、という声が耳に入ってきた瞬間、肩が軽くなった気がした。自分の身体が自分のものとして戻ってきた。
やってみると、なんてことなかった。僕が演じた高校生の男の子という役柄にとっては大事なキスだっただろうけど、僕自身に戻ってしまうと「よし、仕事を終えたな」という感じ。
OKも出たし、自分たちで映像の確認もしたし、このシーンはこれで大丈夫。
ちゃんと最低限の期待には応えられたと思う。
「緊張した?」
座り込んで次に撮るシーンのことを考えていると、隣に日奈が寄ってきた。
今は僕と同じ制服の衣装を着て清純な女子高生然としている。が、普段はちょっと派手な大学生。
僕よりもお喋りで溌剌とした性格の姉代わりのようなその人に、僕は肩をすくめて見せた。
「別に。そうでもない」
「まあ、あたし相手だし今さらって感じかあ。てかさっき思ったんだけど直紀くんまた背、伸びた?」
「あー、どうだろ。多分」
「高校生だし成長期か……いっぱい大きくなれよ~」
「やめろ、鬱陶しい」
肩を組まれそうになり、それを拒否する。日奈が不満げに頬を膨らませた。
「何よ、反抗期? いや思春期か?」
「あんまベタベタしてるとまたネットになんか書かれるだろ」
「あん? そんなん放っておきなよ。いーじゃん、どうせ微笑ましいねーとか思われるだけなんだから」
そのほうが好感度上がってメリットあるし、と日奈はあっけらかんと笑った。確かに日奈の言う通りだけど。
僕はふっと黙り込む。
日奈の大きな瞳がぱちぱちと瞬きをして僕を観察している。
「もしかして、彼女いるの?」
「いない」
「でも好きな人はいるんでしょ」
「……」
僕よりも多少大人で物事を深く考えない日奈。彼女はため息をひとつ吐き、僕の肩に触れた。
「噂であることないこと書かれるのは割り切らなきゃ。直紀くんも、直紀くんと付き合う相手も」
「日奈も割り切ってる?」
肩の上の柔らかい手が、ぽんぽんと二度動いた。
「まーね。てかあたし、芸能人としか付き合ったことないし。一般人だったらどうかわかんないけど、お互い同業者だし割り切るしかないでしょ」
その答えは最適解でとても大人な内容に聞こえる一方で、今の僕には遠くの出来事のように靄がかかって見えた。自分はまだ、子どもなのかもしれない。
僕は想太のことが好きだ。
顔を思い浮かべるだけで心拍数が上がる気がする。恋をしている。
だけどそこには自分が俳優で、想太がアイドルだという意識はあまりない。
ただ、クラスメイトを好きになっただけ。
「直紀くんの好きな人誰ぇ? あたしの知っている人?」
「日奈には絶対言わない」
「えー。お姉ちゃん寂しいぞー。えーんえーん」
女優のくせにわざと下手くそな泣きまねをするから、おかしい。笑いそうになる。
通りかかったスタッフさんに仲良いねと苦笑されて、慌てて離れる。日奈がわざわざ「こいつ今思春期で冷たいんです」と冗談めかして返事をしている。
幼い頃にこの世界に放り込まれて当たり前になっている、僕にとっての日常の風景。でも物足りない。
一緒にいたい人は今、学校にいる。
僕は同じクラスの結城想太に、恋をしている。