『勇者、幕間その2:笑顔の理由(2)』
「こちらです」
「どうも」
やがて小さな店に到着する。
そこはパン屋だった。
良い香りが漂い、扉の外からでも店内が賑わっている様子がうかがえた。
シンルゥはその店の扉に手をかけた。
しかし。
手か震える。
足がすくむ。
期待がふくらむ。
しかし、そんなはずがないと、この期待が失望にとって代わるのが怖い。
「……お入りにならないので?」
疑わしい視線とともに、うながされ、シンルゥは覚悟を決める。
「いえ。ええ、では」
カランカランと、扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
シンルゥがドキリとするが、その声はまだ十歳かそこらの少女のものだった。
店番だろうか。パンを買い求めてる客を見事にさばいている。
「あれ、見ない顔のお姉さんだね?」
すると一斉に客がこちらを見た。
全員が笑顔だ。
はり付いた笑顔だ。
「ええ。ちょっと用事で立ち寄りまして」
一方で、こちらは年期が違うとばかりに張り合うシンルゥもまた、見事に笑顔である。
これには客の町人たちも驚いたようで、何やら小声で話し出す。
そのうちの誰かが『奥でパンを焼いてるアンを呼んだ方がいい』とつぶやき、一人の男が店の奥へと消えていった。
シンルゥはそれをとがめる事なく、ただ町人たちの笑顔に囲まれて立っている。
平静を装った笑顔に曇りはない。
心の動揺を悟られぬよう、逆に相手の心理を探るように観察する。
そうして今か、まだか、今か、とシンルゥが視線を店内の奥に向けていると。
「動くんじゃないよ! 振り向くな! 手を上げな!」
自分が背を向けていた店の扉がガランガランと激しく鳴り響き、シンルゥは背後をとられた。
シンルゥは張り付けていた笑顔を、さらに深くして振り返る事なく手を上げた。
「なんだいなんだい! 疫病と飢饉で苦しい時には手も貸さず、ちょっと税をちょろまかしたら、文字通り飛んで来やがって!」
ああ、この声は。
「こっちはねえ! とっくに神様にケンカ売って生きてるんだ! 国の偉いさんなんざ怖くないよ! 文句があるなら王様を連れといで!」
「……っ……くっ、ふふ、あはははは!」
ついに耐え切れず、シンルゥが笑い出した。
「なんだい、何がおかしいんだい! ええい、こっちを向きな! その横っ面、張り飛ばしてアンタなんでこんな所にいるんだい!? 久しぶりだねぇ! 元気だったかい!? ああ、ああ、えらい、えらいね! ちゃんと笑ってるじゃないか! あら? 泣くんじゃないよ、泣いてたって神様は助けてくれないって教えたろ! ほらほら、胸を張って大きく笑いな!」
老女ともいえる髪の白い女性は、年老いたシスターだった。
シンルゥを見るなり、持っていたクワを放り出し、早口にまくしてながらシンルゥを抱きしめた。
細い腕だというのに、シンルゥはその抱擁からずっと抜け出せず、ただ、ただ、泣きながら笑っていた。
***
そうしてシンルゥはかつて自分を育ててくれた、母代わりのシスターと再会した。
辛い時、悲しい時、そういう時こそ笑顔を浮かべなさいと教えてくれたシスターだ。
涙を流して誰かが助けてくれる世ではない。
涙を見せるという事は隙を見せるという事。
なら全部、張り飛ばしてしまえ。
笑ってイヤな事を吹き飛ばせと、豪快に何度もそう語ったのだ。
「立派になったね! あんな鶏がらみたいだった娘が、こーんなに大きくなって!」
「ええ。おかげ様……で……」
そう話しているうちにいつもの笑顔が崩れる。
「なんだいなんだい、昔はそんなに泣き虫じゃなかっただろう!」
「……お母さんに会えたら……本当の笑顔でいられると思ったのに」
「ばっかだねえ! かわいい娘の笑顔に嘘も本当もあるもんか! さぁ、笑っておくれ!」
そう言うシスターも笑顔をくしゃくしゃにして涙を流していた。
シンルゥの目からも涙が止まる事はなく。
「本当に本当に、がんばったんだねぇ!」
彼女を抱きしめるシスターの老いた腕にも、ずっと力がこめられたままだった。
ひとしきり互いの近況などを話し合った。
子供の頃には理解できなかった、かつての孤児院解体の頃の話も聞いた。
それはシンルゥでさえ、笑顔を忘れて、代わりに苦笑せざるをえないものだった。
「まったく。役人だの国教騎士団だの。お偉いさんなんてどれも同じさ!」
かつてシスターは教会に寄せられた寄付金を、どうせ司祭の腹に入るだけならば、と着服して孤児院の運営費にあてていた。
それがバレると今度は調査、徴収にきた役人に賄賂を渡し、その証拠を残しておいて脅しにかかった。
一蓮托生ではなく、罠にはめて陥れたのだ。
弱みを握った役人や騎士からは金をまきあげ、なんとか孤児院を存続させるも、ついにもっと偉い国教騎士団がやってきた。
さすがにこれを買収するには賄賂の額が足らず、脱税と横領の罪で武役を課せられ、戦場治癒士として戦地に送られたという。
シスターはヒールスキルを持っているため、そこで罪の重さだけ奉仕しろという事だったらしい。
かよわい女性が戦地で生き延びられるはずもなく、そのシスターはすぐに戦死したと報告が国にあがった。
もっとも真実は、そのシスターが戦地において、賭け事を催し、胴元となっては金を巻き上げ、ついには現地の司令官をも抱き込み、嘘の報告書をあげさせたのだからとんでもない話だ。
そうしてめでたく死者となって解放されたシスターは、さびれたこの田舎町にたどりつき、パン屋兼シスターとして過ごしていたらしい。
「……あんな目にあってもなお、シスターなんですね」
「資格はなくなっちまったけどね! 別に修道服を着ちゃいけないって決まりはないんだ!」
いかにもこの人らしいという、少しだけ呆れたようにシンルゥが笑う。
シスターも苦笑で返して、肩をすくめる。
「けれど反省はしたさ。他力本願すぎたってね! だからパン屋も兼業する事にしたんだ!」
「どういう意味ですか?」
「パンの焼き方を知っていれば食うだけはなんとかしてやれるだろう! パンを焼く金は……ま、なんとかすればいい!」
ねっからの聖者の笑顔に、シンルゥはどうにも嬉しくなってしまう。
この町で最初にあつまってきた子供たちも、きっと厳しく笑顔をしつけられているのだろう。
見る人によっては偽物の笑顔と責めるかもしれないが、貧しい者が生きのびる術の一つである事は否定できまい。
何よりここに自分という生きた証拠がある。
神の慈悲とやらの言葉だけよりも、よほど慈悲深い教えなのだから。
シンルゥはシスターを見る。
あれから何年も経った。
記憶にあるシスターの姿よりもずいぶんと老いている。
シスターの服からわずかにのぞく腕も首も、ずいぶんと細くなった。
本人に自覚はなくとも、今も無理をしているし、これからも無理をするだろう。
死ぬまで。
笑って。
いや。
死に顔もきっと笑顔だろう。
シンルゥはそんなシスターの生き方を邪魔したくはなかった。
しかし、老いた母を思う娘が、ずっと願っていた言葉を止められるはずもなかった。
「今、私は……偉い人の所で働いているんですけど」
「へえ、すごいじゃないか! けど、役人はダメだよ、あいつらときたらどいつもこいつも」
「いえ。本当に立派な人です。多くの人がお世話になっていますし……それにそこは食べる物も住む所も……薬だってたくさんある場所で。その、家族なら連れてきてもいいって言われています」
家族、と口にして顔が赤くなる。
シスターは自分を娘とみてくれていると思うが、あらためてそう言葉にすると照れがある。
「へぇ、そうなのかい? ううん? もしかして」
「あ、はい……」
「結婚したのかい!? こりゃあ、めでたいね! 私が焼いたパンくらいしかないが、持っていきな!」
「……違います。そうじゃなくて、その……お母さん、一緒に暮らしませんか?」
「あん?」
その後しどろもどろと、遠回しに一緒に暮らしたいというアプローチをするシンルゥ。
愛らしい娘を見るような目をしたシスターは、笑顔でうなずいた。
ありがとう、世話になるよ、と礼を言ったシスターは、その笑顔を微笑みに変えてシンルゥを抱きしめた。




