『聖女、独白:活路(3)』
「……な、なによ、こいつ……」
一国の皇子や聖騎士と呼ばれる男ですら悲鳴をあげたというのに、みじろぎ一つしない水夫に恐怖以上の違和感を覚える。
「え? 痛っ!」
右手首に走る激痛。
私の右手を水夫が逆に握り返してきたのだ。
ゆっくりと自分の顔から私の腐食手をひきはがしいていく。
私の腐食手の手のひらには、水夫の顔の皮膚と肉脂がべっとりとこびりついていた。
だが水夫はまるで意に介する事なく、筋繊維と骨がむきだしになった顔をさらしたまま。
また歯をむき出したのだ。
間違いない。
グールだ。この水夫はグールだった。
大量の魔力を取り込み、生前の姿を取り戻すほどに再生したグールだったのだ。
喰われる。
私はなんとか逃れようと身をよじる。
「ひっ!」
しかし私は右腕をつかまれたまま。
強引にひきよせられ、床に転がり込んだ。
水夫が私の両足を封じるように体を落とす。
「うぐっ」
そのまま体重をかけられ、私は動きを封じられた。
腹から激痛が走る。
「いぎぃ!」
人生で二度目の痛み、食われる感触。
「やめ、やめて……!」
私の腹に顔をうずめていた水夫の髪をつかむ。
濁った目がこちらを見た。
水夫はそのまま大きく口を開けた。
「やめて! やめて、ぎゃあああ!」
身動きもできず、私は食われ始めた。
やがて痛みすら感じなくなり、私の意識も朦朧とした時。
こんな声が聞こえたような気がした。
「お食事中、ごめんなさいね。その娘、魔王様が生きたままでご所望なんだけど、ゆずってもらえるかしら?」
***
「ぐっ、いぎっ!」
私が意識を取り戻したのは、痛みによるものだった。
「痛むのは生きている証拠、良かったわね。けれどお腹の中身が少し足りなくなってるから急ぐわよ」
気づけば私は大きな布の上に寝かされていた。
腹にも傷を締め付けるように布が何重にもまかれて圧迫されいてるようだった。
「ゆ、ゆしゃ、しんる……」
「ええ。お久しぶり。元気だったかしら?」
私はバカにしたような言葉だが、ケガの処置をしてくれたのも勇者だろう。
どうして彼女が助けてくれたのかはわからない。
しかしそんな事よりも伝えなければ。
私は動かぬ体のかわりに目だけで周囲を探る。
「ぐーる、がいるわ……きをつけ……」
言葉を吐くたびに、穴の開いた腹から空気が漏れるようだった。
「グール? ああ、いたわね。私が追い払ったわよ」
「あれ……を?」
聖騎士いわく簡単な相手ではないはずだが、目の前の女は勇者だ。
いや、もしかしてあのグールの仲間だったのだろうか?
そもそも私を救う理由もないだろう。
いや、利用する為? 人質?
それなら少し遅かった。
喋るだけで息が苦しくなるが、最期の言葉として肺の中身を振り絞る。
「わたしは……もうだめ。ふふ、ざんねんね。けど、ありがとう……」
喰われて死ぬよりはマシだ。
そこだけば感謝してもいい。
「お礼を言われてもね。それにあなた助かるわよ?」
「……え?」
この傷で? 無理に決まっている。
どんな凄腕のヒーラーでも失った体を再生させるなど不可能だ。
「事情はわからないけど、もし心の拠り所を失ってヤケになっているなら勿体ないわよ?」
「……しって、いたの……?」
私が教会に捨てられた事を、勇者はどうしてか知り得ている。
「『求心依存』は必ずしも貴女を救うスキルじゃないわ」
「……なぜ、その、なまえを……」
私が聖女たるゆえん。
私に与えられた、たった一つの生きる価値。
「私でよければ貴女の力になってあげられる。立場の違いですれ違いはあったけれど、もとは捨てられた者同士でしょ?」
……そうだ。
勇者シンルゥも孤児だったと聞いた。
そして教会、孤児院で育ったような事を言っていた。
ただ私と違って、母代わりのシスターを失ってからは一人で生きてきたとも言っていた。
だからこうも強いのか。
私のように常に何かにすがらないと生きていけない弱さが無いのか。
勇者と呼ばれるほどの存在。
まぶしい。
その強さがまぶしくて、目を細めてしまう。
自分があまりにも弱いと自覚させられる。
すると勇者シンルゥが手を差し出した。
「どう? 私と一緒に来る気はある?」
「……っ」
「貴女の弱さも苦しみも私が全部受け入れてあげるわ」
勇者と呼ばれるほどに強い人が手を差しのべてくれた。
すがりそうになる。
差し出されたこの手をとれば安らげると。
同時に、いつかまた裏切られ、捨てられるのでないかという恐怖に襲われる。
あれほど尽くした教会に捨てられたばかりではないか。
もういっそ、このまま死んでしまったほうがいいかもしれない。
最期まで弱いままだった私だが初めて覚悟を決めた。
差し出された勇者の手をとらず私は手をひっこめた。
私はここでこのまま死ぬ。
それでいい。
もう苦しみたくない。
だと言うのに。
「もういいのよ。一人でがんばらなくてもいいの。家族になりましょう」
私のひっこめた手にかまわず、勇者シンルゥは私を抱きしめた。
「か、ぞく?」
「ええ、そう。教会と貴族に苦しめられた貴方と私、きっと仲の良い姉妹になれるわ」
私の血で濡れるのもかまわず、勇者シンルゥに強く抱きしめられた。
人の腕に抱かれたのはいつぶりだろう。
かつて拾ってくれたシスターですら私の腕を忌避していたというのに。
「私を姉と呼びなさい」
勇者シンルゥが繰り返す。
「私を、姉と、呼びなさい」
私を抱きしめたまま、私の耳元でそう繰り返す。
「……あね?」
「貴女を妹として守ってあげる。これからずっと家族として守ってあげる」
とろけそうになるほど強い言葉だった。
教会に執着していた心が軽くなっていく。
貴族に向けた恨みと怒りがどうでもよくなる。
「……お、ねえさま」
「ふふ。仲良くしましょうね。かわいい妹ができてうれしいわ。じゃあ少しの間だけガマンなさい?」
「え?」
そうして私は何もわからないまま布にくるまれ、持ち上げられた。
「うぐっ」
「走るわよ。そろそろ本当に貴女の命が危ないわ」
そう言われ、腹からにじむ熱を感じる。
痛みはもうなくなり、ただ私の腹から何かが出ていくの感じるだけだ。
再び意識も薄れていく。
「あとは私にまかせて少し眠りなさい」
「……はい」
私は久方ぶりに感じる幸福感とともに、意識を手放した。




