或る自殺者のいまわ
私には文才も、知識も、語彙もありません。ただ、書きたいという願望と、書かなければならないという焦燥感があるだけです。
拙い文章ですが、お許しください。
女神アプロディテの像、ミロのヴィナスが薄笑って、ぼくを見下ろして居りました。
ぼくは空気の抜かれた浮き輪の様に、一寸も動けないまま、アプロディテの足許の、冷えた地面にへばりついて居ます。辺りは暗く、景色なども全く見えませんが、不思議な事に、ぼくとアプロディテの所だけ、明瞭とあかるく見えました。まるでぼくと、ぼくを見下ろすアプロディテだけが、この世界に居る様でした。
ああ、ぼくは、どうやら眩暈をおこして居る様です。体は一寸も動いて居ないのに、視界が揺れて居ります。傀儡が我武者羅に操られて居る様に、ぼくの眼や、頭が、ぐわんぐわんと動いて、酷く気分が悪いです。
一体、どれ程の時間斯うして居るのでしょうか。又、何の理由が有って斯うして居るのでしょうか。ぼくには全く解りません。唯、酷く具合が悪いのと、アプロディテが、ミロのヴィナスがぼくを苛む様に冷笑している事だけ、其れだけが解ります。
「罪を悔い、改めよ。」此迄の沈黙を切り裂いてアプロディテが言いました。その酷く重い声に、ぼくは頷く事も、返事をする事も出来ずに居りました。「穢れを認め、清めよ。」アプロディテは斯う続けましたが、ぼくは同じ様に、何も出来ません。「主を信じ、祈りを捧げよ。」三度目の声が聞こえるとぼくは到頭泣き出してしまいました。
「主に祈りを捧げよ。」
地面に這い蹲って泣き噦るぼくを冷笑しながら、アプロディテは言いました。ぼくは切支丹では有りませんから、祈れと言われても如何すれば良い物か、解りません。言葉を返す訳でも無く、深く叩頭する訳でも無く──実際にはやらなかったのではなく出来得なかったのですが──ぼくは唯、泣き噦りました。
顔が横向きでしたので、眼から溢れた泪は鼻根を超え、もうひとつの眼に入り、また泪として溢れて行きました。声は出ませんでしたが、嗚咽が洩れる様でした。
其れ限り、アプロディテは黙ってしまいました。
どれ程の時間が経ったでしょう。ぼくは依然として泪を流し、アプロディテはぼくを見下ろして居ます。随分泣いているので、ぼくの顔の下には泪が溜って、恰度、雨の日に見る水溜まりの様に成って居ます。其の水溜まりは僕の顔にべったりと触れて居りましたが、温度が冷たく、心地良さを感じました。
ひとつ深呼吸をします。冷たい空気を肺いっぱいに吸って、ふうと息を吐き切ると、泪が幾許か引いた様に思えました。深呼吸を何度か繰り返し潤んだ目を瞑ると、ぼくは先程のアプロディテの声を思い出しました。罪を悔い改めよ、穢れを認め清めよ、主を信じ主に祈りを捧げよ、主に祈りを捧げよ──
冷え切った頭の中でアプロディテの声を反芻させると、次第に「ああ、どうやらぼくは謝らなければならないのだ」と思う様に成りました。アプロディテの言う罪が、穢れが何かは全く身に覚えが在りませんでしたが、屹度ぼくは大層な罪を冒してしまったのでしょう。幾ら記憶を探れども思い当たる節は何も在りませんが、然し、ぼくは謝らなければならない、と強く思いました。誰に謝るかも解りませんが、其れでも、ぼくは謝らなければならない。
──お赦しください、お赦しください、ああ。ぼくの咎を、どうか、どうか、お赦しください。
ぼくを見下ろして居るアプロディテに向け、心中で斯う念じますと、今度は声に出さなければならないような気に成りました。アプロディテに咎められた時とは打って変わって、ぼくの体は、ぼくが思った通りに、有りっ丈の声を出します。
「ああ。主よ、母よ。お赦しください。ぼくの咎を、いいえ、ぼくをどうか、お赦しください。」
言ってしまうと、どういう訳だか引いたはずの泪がだくだくと流れ出ました。泪の理由も解らないまま、ぼくは咽びました。アプロディテは薄笑い乍、噎び、喘ぐぼくを、唯唯見下ろしていました。陳謝したとて赦されぬ、然う言われているようでした。ぼくは堪らず、顔を地面に背けました。
然うして、泪の溜った水面に映る、アプロディテを見て酷く驚きました。其処に写って居たのは、彼のミロのヴィナスでは無く、又アプロディテでも無く──静かに泪を流す僕の姿でした。
昏い瞳から幾つもの泪を流し、口を真一文字に結んだぼくが、地面にへばりついて居るぼくを、凝っと見詰めて居るのです。
顔を上げようとしましたが、もう、指一本さえ動きませんでした。アプロディテが、ミロのヴィナスが見下ろして居たと思っていた事さえ、果たしてぼくは本当に然う思っていたか、解らなく成ってしまいました。水面に映るもう一人のぼくが、ぼくを混乱させてしまったのです。
「ああ、ああ。どうか、どうか。」口が勝手に開き、声を出しました。水面に映るぼくも、同じ様に、口を動かしています。「お赦しください。」ぼくは喋ろうとしては居ませんでした。「どうか、お赦しください。」ぼくの口が、勝手に喋るのです。
「ぼくの咎を、お赦しください。ぼくはぼくを蔑視し、嗤い、又、厭い、恥じて、終いには殺めたのです。ああ、主よ、母よ、どうか罪深きぼくをお赦しください。」
何を言っているのか、もう理解が出来ませんでした。叫ぼうとしても、思った様に声が出ませんでした。
具合が段々酷くなっていきます。ぐわんぐわんと頭が揺れます。息が切れます。首を締め付けられます。もう一人のぼくが泣き叫んで居ます。息が出来なくなってきました。
真っ白な頭で唯一つわかることは、どうやらぼくは死に行くのです。然うして、死に行くぼくを見下ろして居たのは、薄笑って居たのは、他でもない、泣き面のぼくだったのです。又、ぼくを殺めたのもぼくだったのです。
然うです。あれは、紛う事無く、ぼくだったのです。
遂に、眼の前が真暗になり、何も見えなく成ってしまいました。辺りは真暗な上、迚も静かに成りました。
もう一人のぼくも、どうやら居なくなりました。
此処には、地面にへばりついたぼくと、一寸の明かりも無い暗闇が、在る許りでした。
その他には、何も在りませんでした。
本当に、何も在りませんでした。
最後まで読んで頂きありがとうございます。またよろしくお願いします。