第7話 自分と向き合うということ(後編)
五十嵐香織は特別可愛い訳ではない。
それは自分自身でもわかっている事だし、高校の同級生からの評価も同じようなものであろう。
五十嵐香織は特別不細工な訳ではない。
人よりは少ないかもしれないが告白もされたし、中学の頃には先輩と恋仲になった事もある。
五十嵐香織は特別頭がいい訳ではない。
学力テストで注目されるような事はなかったし、雑学に優れていたり話術に優れている訳でもない。が、赤点とも無縁の学生生活であり、理屈っぽい話し方と言われた事もある。
五十嵐香織は特別運動神経が悪い訳ではない。
部活などはやっていなかったが、人並みにスポーツは好きだ。体育祭などでも活躍するでもなく、かと言って笑われるような事もない。
そう。
五十嵐香織は特別ではない。
五十嵐香織は偶々、偶然、選ばれただけだったのだ。
ある雨の日、家に帰ると珍しく父親が先に帰宅しており、定位置であるソファに腰掛けていた。普段から寡黙な父ではあったが、その日の沈黙はやけに静かに聞こえたのを今でも覚えている。
母親は香織を出迎えると、珍しく笑顔を消して、定位置であるキッチンに何をする訳でもなく電気の無い下にただ立っていた。普段は明るく優しい母親のその姿が、言い様のない不気味さと儚さを纏っていたのを嫌でも思い出す。
喧嘩でもしているのだろうと自室に引きこもるためにこっそりと階段を上り、自室のドアが音を立てないようにゆっくりと開閉した。
部屋に電灯をともし、ふかふかのお気に入りのベッドにカバンを投げ捨てると、その上から自分もダイブする。柔軟剤と太陽の匂いを感じながらブランケットを両腕でしっかりと抱きしめる。密かな楽しみであった。
両親が喧嘩するのは珍しい事では無かったが、いつもはもう少し軽い雰囲気だったような気がする。
お互い黙り込んでいる事は経験がない訳では無かったが、今日ほどリビングに居たくないと思ったのは初めてだった。
原因は何かな、とぼんやり考えていた香織の耳に、重たい扉の音が一度下から響いてきた。
あの重たい音は玄関の扉だ。我が家は古いからか玄関の音でいっつも驚いてしまうし、朝父親が出勤するたびに扉の開く音で起こされてしまうのだ。
どっちか家から飛び出したのかな。
前もあったな、あの時は母が怒って3日ほど帰って来なかったっけ。
そう考えていると、家のすぐ外から聞こえてきた声は男性のものであった。
今回は父親だったらしい。聞き覚えのある声を静かに聴きながら小さく鼻を鳴らした。
さっさと仲直りすればいいのに。
そして再度響く重たい扉の音。
追いかけていったのか、と考えたが、その思考は階段を上ってくる足音にかき消された。
父親が自分を連れ出しに来たのか?と扉に意識を向けながらゆっくり身体を起こすと、扉側から音が響く事はなく、静寂がしばらく支配する。
「香織」
いつもより気疲れしているのか、力のない声に呆れながら扉をじっと見つめていると、次に響いたのは細く、ともすれば扉を突き抜ける事が出来ないような声だった。
「……すまない」
その言葉だけを残してまた静かに階段を降りていく音がして。
また扉の閉まる音が聞こえた。
「この世界はどうしてあるのかわからないし、何の意味があるかもわからない。そんな不気味な世界でも、存在する理由はあるんだよ」
未来の言葉を聞くと、香織は感情が感じられない彼の瞳をじっと覗き込んだ。
「ココは異世界だけど…都合のいい世界じゃない。最も近くて、最も遠い世界なんだよ」
薄い唇を少しだけ開きながら、決して大きくない音量で響く声は、ウルフの叫び声なんかよりよっぽど五月蝿く香織の鼓膜を揺らしていく。
「ココでボクが君を殺せば、本当に死んでしまう。現実に戻って眼が覚めるとか、そんな甘い事は無いんだ」
「………………」
香織は何か言いたそうにその肺を酸素で満たしたが、その空気たちは言葉に乗って震える事なく、綺麗に吐き出されてしまう。
「現実と違って魔物なんかが普通にいる世界だから、絶対に現実の方が安全で安心なのかもね。でも、ボクらはずっとココにいる」
汚れていない澄んだ瞳で告げた未来は、徐に立ち上がってカップやポットを片付け始める。話はそこで終わりだ、とばかりに。
「…訳がわからない」
「きっと分かるよ。もう少しだけ、こっちに居てくれればね」
その様子を立ち尽くしながら見つめる香織。
いつのまにか空も離れ、未来の近くに立ちながらこちらをじっと見ている。
「なんですか、さっきから。何の説明にもなってない事ばかり…自分の言いたい事ばかり言って」
香織には我慢ならなかった。
自分の言いたい事だけ告げて、自分を丸め込んで良いように扱うのは。それは自分の大嫌いな大人達と全く同じであり、その事でどれだけ自分が苦しめられているか知りもしないくせに。
現実への不満?もちろんある。
それは友達と笑い合っても消えるものでは無いし、忘れようと思って忘れる事ができるほど軽いものでは無い。
世界の貧困に喘ぐ子どもたちよりは軽い悩みで、一般的な恋人への不満なんかより遥かに重い悩みで。
「魔法で記憶を好きなように書き換えられるんですよね?…いつ戻っても不自然じゃ無いように」
とても信じられない話だが、向こうが言い出したのだから思う存分乗ってやろう。
自分に言い訳をして納得させるのは得意だ。得意になってしまった。その能力すら活かして全部利用してやる。
そう考えながら、香織は学生服の胸ポケットに入っていた生徒手帳を布越しにぎゅぅっと握りしめた。
「じゃあ、今は言いなりになりますよ。なんだかこちらに残って欲しいような言い方ですし」
そう言いながら2人を置いてイヤリスの西門へと歩き始める香織。
力の限り握りしめていた手はゆっくりと解かれ、血液が流れ出したのが鮮明に感じられる。
西門をくぐっても何処に行けば良いのか、何処に何があるのかもわからない。
それでも、香織は街の中へとゆっくりと歩き始めた。
自分の足で、何も知らない街中を。
その様子を見ながら、空は呆れたようにため息を1つ。
「なんであんな嘘ついたんだ?」
それは決して重みのある言い方ではなくて。
1+1が2である事を知らない子どものように、純粋にその疑問をぶつけていた。
それを受けた未来もまた、楽しそうに口角を上げて。美し過ぎるほどの笑顔を浮かべながら空を真っ直ぐに見つめ返した。
「たぶん、ボクと同じ境遇だから」
相変わらず未来の言い回しは遠くて面倒臭い。そう空が呆れながらまた椅子へと乱暴にその身を預ける。
「お前と同じだったら、嘘でもココにいさせて五十嵐ちゃんを救えるって?」
「そうは言ってないよ。でも、自分が思ってるより自分の存在って小さいんだよって分かる時間にはなりそうだから」
どこかイラついた様子の空と、落ち着き払って優雅な笑顔を浮かべる未来。
対照的な2人だが、お互いに認め合っている相棒だ。これしきの事で気まずくなるような事は無い。
だからこそ空は気を緩ませて真上を向き、雲と青空、太陽へとその言葉を吐き出した。
「魔法が、現実でも使えたら良いのにな」
その言葉への返答はなく、ただどこまでも嫌味な程に澄み切った空が。
世界の果てまで変わらずに拡がっていた。
歪な関係が、歪な世界が、音を立ててゆっくりと動き始めたのを感じさせない程に。
どこまでも、どこまでも。
序章はここで終わりです。
次話よりようやく空達の冒険が始まります。
もうしばらく、空達のお話に付き合っていただけると幸いです。