第12話
一昨日と、昨日と、恐らく明日とも変わらないイヤリスの街。
そしてFLATのアジト前にある木で出来た机と椅子に座っているのは今日も美しい少年、未来と机に突っ伏している空だった。
空は眠っている訳ではなく、早朝に現実からこちらに戻ってくると朝の鍛錬をしている未来を待つように座って直ぐにこの格好になっているだけであり、意識はもちろんある。
未来が鍛錬を終えて汗を拭きながら空と机を挟んで座った音を聞くと、空はだるそうな声を上げる。
「……で?香織は起きたか?」
その質問に未来は一瞬呆気に取られたように固まるがいつものことか、と諦めたように笑う。
現実に戻った香織が帰ってきたのがいつかは未来も分からなかったが、彼女は今朝太陽が昇るよりも早い時間に散歩をしていた瑠奈に見つけられ、今はFLATのアジトで眠っている。
数時間前の出来事である事を考えれば起きているかもしれないが、空は数日前からイヤリスを離れており、香織が帰ってきた事も知らない筈だった。
だが彼の口振りでは香織が帰ってきた事を知っている上にアジトにいる事も察しているようだった。
「僕が鍛錬を始める頃はまだ眠っていたみたい。香織が起きたら直ぐに知らせに来るって瑠奈ちゃんが言っていたから……まだなんじゃないかな」
「そうか」
空はそれだけを返すと興味を失ったようにそれ以上は聞かずに顔を伏したままで黙り込んでしまう。
空がなぜイヤリスを離れたのか追求するのはライン越えの感覚もあり、未来は自然と話題を逸らす。
「香織ちゃんが急にイヤリスを離れたのは、あの子の魔法が理由だと思う?」
香織が持つノートに書いた事に対するヒントが浮かぶ魔法。行方不明になった母親を探す為にイヤリスに留まっていた彼女が急に飛び出して行ったのは明らかに理由があってのことだろう。
未来の推測に空は気怠げに身体を起こしてため息混じりに頷いた。
「そうじゃなきゃ変だろ。……何を掴んで来たかは知らんが」
「瑠奈ちゃんに呼ばれて香織ちゃんを運んだ時は、穏やかな顔をしていたから」
もしかして、と未来は明るい結果を予測して声を弾ませたが空はひらひらと右手を振った。
「そう簡単に見つかるとは思えないね」
冷たく聞こえる言葉に未来が可愛らしく眉根を寄せたのを見て、空は無駄な言い争いが起こる前に静かに脚を組んだ。
「ところで、香織を運んだんだろ?変わったところは無かったか?」
「ん?んー……」
顎に人差し指を当ててアジトへ運び込んだ時のことをゆっくりと思い返しながら、未来は笑顔を見せた。
「なにも。さっきも言ったように安心したように眠ってたくらいだね」
裏表の無い明るい表情と言葉に、空は面倒そうにため息だけを返した。
香織が目を覚ましたのは昼を過ぎて夕方とも呼べる時間になった頃であった。
自分が思っていたよりも現実での事は心身共に負担になっていたのだろう。ここまで寝過ごしたのは初めてであった。
見覚えの無い部屋で目覚めた事は事実だが、建物は明らかに自分の部屋でも、ましてや現実にある建物でも無い。
イヤリスに戻ってきたのだと再認識した香織は安心したように全身から力を抜く。
もう自分に危害を加える人間はここにはいないのだ、と。
寝坊した脳が活性化してきたので自分が今何処にいるのか確認しようとベッドから両脚を降ろすと、見計らったかのように扉が開いた。
香織がそちらに顔を向けると並んで入ってきた空と瑠奈と目が合った。
「よう、起きたか」
見られていたのかと思う程タイミングが良かったが、空の隣で水を持ってきてくれた瑠奈も驚いて様子だったので、どうやらいつもの空の不思議な力のようだった。
「はい、お水どうぞ」
その声も表情も慈しみと優しさに満ちており、香織はさらに安心したように笑顔を返す。
グラスに注がれた水を半分ほど一気に煽ってから申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません、心配をかけたと思います」
「ううん、無事帰って来てくれて良かったよ」
瑠奈の言葉に香織は苦く笑いながら自分の頬に恐る恐る触れる。
「無事とは言えないですけどね」
皮肉っぽいその言葉に瑠奈は可愛らしく首を傾げる。
そして心配そうに真剣な顔つきに変わって覗き込んだ。
「……何かあったの?」
「見たまんまです……私には力が無いから」
自分の嫌な記憶を思い出して顔が暗くなってしまった香織だったが、瑠奈はまだ察していないのか不思議そうにしていた。
「ええと、ごめんね。見たまんまって言われても……」
「瑠奈」
瑠奈が不思議そうにしている事が不思議だった香織だが、2人のすれ違いを引き止めるように空が真剣な声で間に入る。
「ちょっと2人で話させてくれ」
空に対しても不思議そうに首を傾げたが、彼の声が真剣そのものであった為、瑠奈は何も言わずにゆっくりと立ち上がった。
「香織ちゃん。また会えて嬉しいよ。また後でね」
お腹の前で小さく手を振った瑠奈は空の表情を一度確認してからゆっくりと部屋を後にして行った。
扉がもう一度締め切られたことを確認して、空はベッドの縁、香織の隣にどっかりと腰掛けた。
「何があった?」
香織がその言葉を聞いてまた表情を暗くした事は当然空にもよく分かっていたが今は気を使う場面では無いと判断したのか空は腕を組んで香織の言葉を待った。
数分、十数分と経っても香織が口を開くことはなかった。
何があったのかを伝えるのも憚られたが、それ以上にその事を伝えるには自分の今まで起きた事も伝える必要があった為だ。
空に聞かれたくないという無意識の感情もあったが、他人に軽々しく言える話でもない。
困ったように押し黙った香織を見兼ねて、空がそう言えば、と口を開いた。
「見たまんまって言ってたよな。……どうして見たまんまなんだ?」
話題が変わったのかと少し安心した香織だったが話題が変わるどころか更に追及されただけである。
言いたくない、言えないと自分の頬に手を当てて考えるが、空は気にしないかのように人差し指を立てる。
空の指先が青く輝くと空気中の水が凍る音が響き、香織の目の前には薄い氷の板が出来上がっていた。
今まで見たことのある空の魔法ではあったが、違うのは氷がまるで鏡のように香織を映し出していることだろうか。
こんな事もできるんだ、と気分が変わったように感心しかけた香織だったが、見慣れた自分のいつも通りの顔を見て表情も凍り付いてしまう。
「俺にはいつも通りにしか見えないんだが……お前は違うのか?」
あれだけの事をされた香織だ。
自分で確認はしていなかったがまず間違いなく傷は残るだろう。痣が残るだろう。腫れていてもおかしくない。
だが、空の作った氷に映し出された香織の顔は傷ひとつないいつも通りのものだった。
「わ、たし……何日眠ってましたか……?」
「正確には知らんが数時間だな」
そこで思考を停止しかけた香織だったが以前空から聞いた事を思い出して縋るようにその考えを口にする。
「瑠奈さんが魔法で治してくれたんですね」
「…………」
だが空は黙ってゆっくりと瞬きをした。
「あいつは何もしていないと聞いてる。……そう言うってことは怪我でもしたのか?」
香織に残された自分を納得できる理由が見当たらず黙って脳を高速で回していると、空は何かを諦めたかのように深い深い息を吐き出した。
「……悪いな」
何に対しての謝罪だろうか。
自分の顔に怪我が見えれば聞きにくい事を聞いてしまった事だと考えられたが、今の現状を考えるとそうではなさそうだ。
「まだ香織には言ってないこの世界の秘密がある」
それ自体は正直不思議でもなんでもなかった。
空が1から10まで話していないとは分かりきっていたからだ。
「……もしかして、向こうで怪我してもこっちに来たら治るんですか?」
「いいや、違う」
真っ先に思いついたあり得そうな可能性を一瞬で否定されて、香織は他の理由を考え始める。
その事も伝わった空は一度だけ鼻を鳴らした。
「考えても分からんだろうな。思い付くはずも無い」
そう言われると少しムキになって考え始めるが、空の言葉通り幾つかあげた答えは悉く即否定されていった。
何も思いつかないまで考えて答え終えた香織を見て、空は組んでいた腕を解いて力無くだらりと下げる。
「言っておくが、意地悪で言わなかった訳じゃ無い。……あまり言いたく無いんだよ、誰もな」
「……どういう意味ですか?」
「言葉通りだよ。みんな分かってるけど触れたく無いんだ」
その言葉をヒントにしてまた考え始めるが、なかなか思いつく事も無い。そして今度はその答えを待たずに空が氷の鏡を指差した。
「そして香織には絶対思いつかない。……香織だけが思い付かない、と思う」
「……?」
もったいつけるのもいい加減にしろと少し香織が怒りを覚え始めたので空もそれ以上誤魔化さずに鏡に当てた人差し指をもう一度動かして注意を引く。
「香織が映ってるだろ。初めてこっちに来てウルフと戦った時、同じ質問をしたのを覚えてるか?」
急に異世界とやらに来てしまい、狼型の魔物との戦闘という非日常を体験させられた事ははっきりと覚えている。
その後急にされた質問は頭から抜け落ちていたが、そう言われれば聞かれた気がする、と頷いた。
「ありえないんだよ。ありえない筈なんだ。……イヤリスに居る俺たちは俺たちじゃ無い」
またもったい付けたような言い方になっている自分に呆れたように空はため息を吐く。
結局、自分も話題にしたく無いだけなのだと気がついたのかもしれない。
「この世界に来れるのは不満があるやつだけ。そして、こちらの世界じゃ見た目は自分の理想に変わる」
「……はい?」
「見た目だけじゃ無い。魔法も、声も。全部自分の理想になるんだ」
誰に聞いても格好良いと言われるであろう空。女性のように美しい未来。瑠奈も亜紀も花蓮も。その全てが作り物だ。そう言われても香織は素直に飲み込むことができなかった。
「変わらないのは内面だけだな。自分が大好きなやつも、この世界じゃ何かは変わる。全く同じ姿になるやつなんて聞いた事も無い」
だが現に香織が見る鏡の中の自分は現実にいる時と何も変わらない。鏡の中の自分は、困惑したようにただ表情を曇らせているだけであった。




