第9話 残ったもの
たっぷりと数分かけて涙を流していた香織であったが、幸いにもその間宮原が戻ってくる事はなかった。
痛む顔と心を引きずりながら、フラフラと立ち上がると、危なっかしい足取りでミーティングルームを後にする。
その表情は虚ろで、何の感情も感じ取る事はできなかった。
長く暗いL字の廊下を時間をかけて歩き、ふらつきながら虚無の顔で進んでいくその姿は、幽霊のようにも見える。
ズキ、と顔が痛むと香織は壁にそっと手を当ててもたれかかった。
自然と溢れてくる涙を隠す事も止める事も出来ないまま、彼女は壁に手をつきながらまた歩き始めた。
どこかに行きたいわけでもない。
考えがあるわけでもない。
ただ無意識にミーティングルームから逃げ出そうと両の脚は動いているのだ。
曲がり角も手をつきながらゆっくりと曲がると、ビールケースに入れた何本もの金属バットを重たそうに運ぶ女生徒がいた。
ショートカットで、健康的な身体。
マネージャーとはいえスポーティで快活なイメージを与える彼女は、両腕に力を込めながら香織くらいの速度で歩いていた。
後ろから足音がして気になったのだろう。ちら、と彼女が振り返った事を、なんの感情も抱かぬまま香織は脚を動かし続けた。
「………ひっ………!」
暗くなったボロボロの部室棟。その廊下に不意に現れた血まみれの女。
異形のものを見てしまったと悲鳴をあげた女生徒は、けたたましい音を立てながらバットを全て床にぶちまけた。
「きゃぁぁっ!!!」
そして絹を裂くような悲鳴をあげて床の惨状に気も向けないまま全力で走り去ってしまった。
だが、悲鳴をあげられた香織の表情は虚無のまま何の色も付く事も無かった。
視線すら向けずにただひたすら壁を這うように歩き続け、部室棟を抜けただけだ。
部室棟から少し離れた場所で洗濯をしていたマネージャー達のところに悲鳴をあげた女生徒が泣きながら駆け込み、幽霊がいた、と泣き叫ぶという非日常な光景すら気に留めない。
フラフラと、フラフラと歩き続けながら香織は部室棟から離れていく。
身体にまとわりつく宮原の呪いのようなトラウマから逃げるように、ふらつく脚でゆっくりと。
そんな逃避行を数分続け、部室棟からも校舎からも離れた香織は、意識する事もなく長い坂道を下って学校を後にした。
幸か不幸か、部活動を終えるには早く、学校が終わってすぐ帰る人たちに比べれば遅い時間のため、香織の惨状に気がつく人間は居なかった。
坂道を下り終えるほど歩いていると、香織の頭はほんの少しだけ落ち着いてきたのかもしれない。
気にしないなんて事は出来るはずも無いし、考えないようにしたところで行為の1つ1つが鮮明にフラッシュバックしてしまう。
それに加え、今まで長い期間に渡って宮原にされてきた仕打ちさえも暴風のように脳内に吹き荒れ、少し慣れてきたはずの顔の痛みがまたぶり返してくる。
ズクンズクンと緊張したままの鼓動に呼応するように顔が痺れ、心が悲鳴をあげ続ける。
また溢れてきた涙を誤魔化すように、そして血濡れの顔を戻すため、香織は坂道の下にある小さな公園へと入った。
砂と虫だらけの錆びついた蛇口をひねり、冷水を両手の中に受け止める。
並々に注がれた水をゆっくりと顔に押し当てると、冷たさが余計に染みて、香織は人知れず顔を歪ませた。
絶え間なく流れる脳内の映像を洗い落とすようにそのまま勢いよく顔を手のひらで擦り上げた。
血が落ち、美術の終わりに絵の具を洗い落としたような赤い水が排水溝に吸い込まれていく。
何度かその行為を繰り返し、落ちる水が透明になった頃、香織はぼーっと流れ落ちる水を見つめながら、きゅっと唇を引きむすんだ。
ポケットに入れていたハンカチで水気を拭っても、両頬は瞳から溢れる涙でまた濡らされていってしまう。
力の入らなくなった手からハンカチがヒラリと舞い落ちて、流水に押しつぶされるように流されていく。
その様子も感情を感じられない濡れた瞳で見つめながら香織は震えるような小さなため息を吐いた。
こんなはずじゃなかった。
魔法という非日常な力を身につけ、確実に母親へと近づいていたはずだ。
周りの人間の影響もあり、トラウマを、過去を乗り越えることができると信じて勇気を振り絞って戻って来たのに。
魔法の結果をを宮原に突きつけ、はじめてアイツに負けたと、言いなりだけの女では無かったんだと思わせられると考えていたのに。
蓋を開けてみれば単純な暴力と力の差でねじ伏せられた。
これだったら今までと同じように言いなりになっておけば良かったのだろうか。
母親の事など忘れてイヤリスで魔法の修行をしながら空や仲間たちと一緒に生きていけばよかった。
無力感と後悔からか、香織は水の流れる音に紛れて、また嗚咽をしはじめた。
「ひっ、………ぅ………うぅ………」
情けなく、みっともないほどにしゃくりあげながら、溢れてくる涙は拭き取ることもできない。
腫れ上がり、痛む顔に触れることもできない。
ただ砂の地面にへたり込んで体を震わせることしか出来ない。
「ぅぅ、うぁ………ぅぁあああああああああっ!!」
慟哭とも悲鳴とも取れるような香織の泣き声が暗い公園に何処までも響き渡っていく。
痛い、情けない、みっともない、悔しい。
様々な感情を混ぜて溶かしたような粘っこい涙を溢れさせながら、香織はいつまでもいつまでも泣き続けた。