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そら音のイデア  作者: 金田悠真
第1章 慣れていく非日常編
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第9話 香織の現実世界 2

 


 町へと飛び出した香織だったが、特に母親の所在について予測を立てているわけではなかった。


 父が亡くなった後、母が長く家を空けるとすればパートくらいなのだが、それは夜勤の仕事であり、この時間にいないことはあまり考えられない。



 一瞬よく家に来ていた男性の所かとも思ったが、母が進んでその男性といたわけではなかったのが普段の表情からも伝わっており、すぐにその選択肢は香織の中から削除された。



 残りの候補自体、学校と母のパート先の病院のみ。


 だが1か月連絡も取っていないのに、平日の昼間にいきなり学校に行くわけにもいかず、自動的に行く先は病院にはなってくる。


 だが、もしそこにもいなかったら。そう思ってしまうと香織の歩みは自然とゆっくりなものになってしまう。




 行ってみないと始まらないことは香織自身よくわかっているのだが、どうしても足取りは重くなり続ける。



 結局、家から歩いて15分くらいのその病院に着いたのは、香織が家を飛び出してから1時間も経った頃であった。



 診療客と同じように正面玄関から入った香織は受付に立つが、そもそも母の同僚とも面識はなく、言葉に詰まってしまう。


 香織のその様子で不審そうに首をかしげながら、座っている女性が声をかける。



「あの、初めての診療ですか?……それでしたらこちらの用紙にご記入いただけますでしょうか」



 おずおずとカウンター横にある用紙を指し示す女性は、それでも反応が無い香織に困った様子で視線を向けた。


「看護師の五十嵐さんは、いらっしゃいますか?……少なくとも1か月前までは夜勤で勤めていたと思うのですが」


 前置きもなく絞り出したその言葉に、女性はさらに不審そうな色を濃く表しながら香織を見つめ返し、少しだけ声を潜めた。


「恐れ入りますが、個人情報ですので特定のスタッフについてはお答えできかねます」


 座ったまま軽く頭を下げた女性は、無言のまま離れない香織にこれ見よがしにため息を1つ。





 娘です。そう返してしまえばそれだけだ。学生証もあるし、母の生年月日などももちろんわかっている。



 それでも、香織はシャッターを閉められたような態度に二の矢を紡ぐことはできなかった。




 頭の中では理解しているのだが、心がついて来ない。


 どうすればいいのかなど幾つも頭の中には浮かんで来るのに、そのどれもが実行されずに香織の奥底へと沈んで行ってしまう。






 香織はイヤリスの街で現実の事を忘れ、自分のやりたいように生きてきた。



 1か月もなかった期間とはいえ、その間は本当に楽しくて充実していた。友人たちと会えなかったのは寂しかったが、それ以上に何も考えなくていい。



 自分のやりたいことだけをしていたし、立場の弱い自分を食い物にするような存在もいなかった。



 出会った人々は皆一様に優しかったし、1人落ち込んで涙するような時間は一度もなかったのだ。




 その貴重な時間で香織は充電出来ていたなような気がするし、前までは枯れていたエネルギーが満たされていると思う。慣れ始めたイヤリスの街から離れ、現実に戻ってきたのも、魔法が使ってみたい。ただそれだけの気持ちである。



 香織にとってイヤリスの街はいつの間にか住み心地が良く家や学校よりも居場所を実感できる場所になっていたようだ。








 忘れていた現実と向かい合って初めて、香織はそう思うようになっていた。





 このまま全て投げ出してあの街に帰ってしまいたい。





 そう悲鳴を上げて逃げ始めた思考と感情に揺さぶられた香織は、とうとう何も言えないまま足を引きずるようにして受付を離れてしまう。


 その様子は病院に入って来た時よりも怪しくて、危うかった。



 背中に受付の女性の声が投げかけられるが、特に何を言っているのか香織の心が理解することはなく、ただ唇を引き結んだままで病院の自動ドアをくぐって明るい街に身をさらす。



 人通りの多くなり始めた町で、流れに逆らうように香織は人の間を縫って歩き始める。家に帰ろうというわけではない。ただ足が勝手に動いて身体を運んでいくのだ。



 ふらふらと人ごみを危なかっしくぶつかりながら歩く香織の表情は固く、視線は何も捉えないようにと地面に向けられており、その感情は言葉にできない不思議な感覚で包まれていた。



 無力感、喪失感、迷走。近しい言葉はたくさんあるのだが、そのどれもが的確ではなくて。



 いつしか勝手に動く脚によって歩き慣れた通学路にその身体を運ばされていたと香織が理解した時、とうとう正面から来た人間にぶつかってしまった。



 たたらを踏んだ香織がようやく視線を上げると、ぶつかった小太りの男性が地面に尻もちをついて香織を見上げていた。


 表情は長い天然パーマの黒髪に隠されており、伺い知ることはできなかったが、怒っているわけでも戸惑っているわけでもなさそうで。顔の中で唯一見えている口元をほんの少しだけ動かした。



「……ぁ、す、みません」


 尻もちをついた姿勢のまま頭を下げた男性は言葉に引っかかりながら聞こえるかどうかの声で香織に謝罪を口にした。口元しか見えていないが小刻みに震えている唇がやけに重たそうに動いているのが印象的だった。


「あ、いえ……こちらもぼーっとしていて……」


 その言葉を聞いた男性は立ち上がるでもなく地面に手をついたままで止まっていた。

 そして、風が吹いて前髪が流されると、その半開きの目が香織をーー正確には香織の隣をぼんやりと見つめていた。


 何かあるのかと軽く肩を動かして視線を向けるが、特に何もない。また男性に目を向けると今度は香織のお腹当たりに視線を彷徨わせている。


 何かを凝視するわけでもなく、頼りなさげに視線を動かしながらも立ち上がるそぶりを見せない男性に香織は手を差し出した。


「あの、汚いですし……。立ち上がれますか?」



 もしかしたらぶつかった衝撃でどこか身体を痛めてしまったのかもしれない。


 男性で、しかも小太りな体格では香織よりも体重は倍ほどあるようには思えたが、当たり所が悪かったのかもしれない。



 申し訳なさそうに屈みながら差し出した手だったが、いつまでも握り返されることはなかった。


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