第8話 香織の現実世界 1
とある昼下がり。
討伐隊も出払い、思い思いに昼食を取り始めた街の中、マナリスの中は非常に静かで別世界のようであった。
いつも通りと言うのか老人は今日も青い扉のそば、地べたに座り込んで寝ているのか生きているのかも分からぬほどにじっと身動きすら取らない。
「これに触れればいいんですか?」
香織はすぐ隣に立つ空を少しだけ不安そうに見上げた。
「……あぁ。お前の話だと自分の部屋に出るはずだ。……帰ってきたいときはまた自分の部屋にある扉に触れればいい」
腕を組みながら告げた空は、そこまで言ってから香織を見つめ返す。
その顔は香織以外でも見ることが珍しいパッとしない表情であった。もちろん、端正な顔立ちは今日も変わらず健在ではあるが、どこか瞳に輝きが灯っておらず、数分に一度物憂げなため息をついていた。
香織が頷いて一歩踏み出したときになって、その背中に空の小さな声がかけられる。
「……あー……。なんだ、ひと月近く騙した形になっていてすまない」
香織が振り向くと、バツが悪そうに自身の髪をくしゃくしゃとかきむしる空と目が合った。
申し訳なさそうに目線を斜め下に向けたまま、彼は小さく口を動かし続ける。
「向こうじゃお前は神隠し状態だ。イヤリスにはいつでも帰ることはできるから……」
その様子はまるで初めて子どもを旅に出させる親のようで。どこか口うるさくなりつつある言葉を手のひらで遮りながら、香織は小さく笑顔を見せた。
「大丈夫ですよ。なんだかんだでこの街は気に入ってますから。……ちゃんと、『帰って』来ますね」
それはまるで自分に言い聞かせるようでもあって。引き止められてしまう前に、香織は思い切って右腕を青い扉に触れさせた。
すると香織の身体は初めからココには無かったかのように霧散してしまう。
一瞬のうちに残されたのは俯いたままの空と身動き1つしない老人だった。
「………悪いな。俺がこんなんじゃ無ければ……」
その空の震えた独り言にも老人は特に反応を示すことはなかった。
不思議な感覚に目を閉じていた香織が次に目を開いたとき、そこには見慣れた自分の部屋が広がっていた。
1ヶ月弱離れてはいたが、幼少期より過ごしていた部屋は懐かしくて。そのはずなのに何処か嗅ぎ慣れない部屋の匂いにも思えた。
はっきりと覚えているわけではないが、自室は香織が離れた時と大きく様変わりしている様子はなかった。
もしかしたら警察や母親が調べる為に立ち入っているのかもしれないとは考えていたが、どうにもそのようには思えなかった。
着慣れた制服のまま自室廊下へと出る扉に手を掛け、香織は少し止まった。
昨晩この後のことはシミュレーション済みではあったが、実際に1ヶ月音信不通で帰ってくる一人娘に、母はどんな反応をするのだろうか。
怒られるかもしれないし、泣かれるかもしれない。
それならまだいい。
もしかしたら、父と同じ結末を迎えているかもしれない。
不安に押しつぶされそうになりながら香織は大きく首を振り、思い切りお腹のそこまで空気を取り込んだ。
まるで友人の家のような嗅ぎ慣れない匂いを感じながら、ひと思いに扉を開け放つ。
部屋の外、廊下も左側に続く下りの階段も何も変わっていない。
震える脚をゆっくりと動かして階段を降りていくが、どうにも静かすぎる。
昼頃であることは間違いない。時間の流れは全く同じだと空が言っていたのだから。
予定がないであろう曜日を選んで帰ってきたのだが、1ヶ月弱の間に母のスケジュールも変わってしまっているのかもしれない。
自室よりは幾分か軽いリビングの扉を開けるも、想像通りと言うべきか特に人の姿は見受けられなかった。
「お母さん……?」
呼びかけると言うには少しだけ物足りない声量で香織が声を掛けるが、返答する存在は無かった。
「いないの……?」
さらに確認するように言葉を続けたが、それでも当たり前のように結果は変わらなくて。不安げに奥へと進み、キッチンや母の部屋も確かめたが、人の姿はおろか生活をしていた痕跡すら見つけることは出来なかった。
「……………」
恐る恐る玄関に移動してみると、そこには扉の郵便受けから溢れた郵便物が散乱しており、長く誰も確認していないことが見受けられた。シューズボックスを確認すると、母親の靴が全て見当たらず、自身と亡き父親の分だけが残されている。
「………どうして……っ?」
少しだけ慌てたように声を漏らした香織は、そのままローファーに脚を突っ込んで、1ヶ月ぶりの現実の世界へと飛び出した。




