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そら音のイデア  作者: 金田悠真
第1章 慣れていく非日常編
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第7話 香織が変わった日

 


 香織は、所謂一般家庭というもので育ったのだと思う。


 サラリーマンの父親と主婦の母親。


 お金持ちではなかったが、一人娘ということもあって何か不自由なことがあったわけでもない。



 喧嘩も少なくない家庭ではあったが、基本的にはあたたかい家族だと思っていたし、毎晩食卓を囲むのは、今思えば幸せだったのだろう。


 中高一貫の受験に成功して、泣きながら喜んでくれた父親と食べたお寿司は今でも香織の大好物だ。





 だがある日、自分の部屋の前で声をかけてから父親は居なくなってしまった。


 帰宅して、何故か雰囲気が悪い家。

 そして自室の扉越しに謝った父親の声は、未だに忘れることが出来ない。


 あのときすぐに扉を開けていれば。




 あのときすぐに父親を追いかけていたら。









 あのとき、ガレージを開けなければ。


 そう、未だにふと思ってしまう。




 両親の喧嘩の内容はその時知らなかったが、後から聞くと借金の問題だったらしい。


 とはいっても父親自体が借金したものではなく、叔父。つまりは父の兄がしたものであった。


 叔父は水商売の店を出すにあたり、借金の保証人を香織の祖父、叔父の父親にしたらしい。



 だが、その店もすぐに潰れ、祖父は癌で他界。

 借金返済が滞っていた叔父は遺産を使うも完済は出来ずにそのまま蒸発。


 元々遺産を受け取っていなかった父が借金の事実を知ったのは4ヶ月ほど経った後であり、一会社員である父の手に負えなくなって。


 そうなってから初めて母に話をしたところ、揉めてしまったそうだ。



 自身の兄弟の行為に精神的に参ってしまったのだろう、今思うと扉越しの声は本当に弱り切っていて覇気がなかったように思える。





 夜遅く、宿題を忘れていた香織は鞄を探すが見当たらなくて。


 そうだ、父の車に入れっぱなしだったと思い返してカギを取り、無言の母から逃げるように玄関を飛び出して。



 錆びてやけにうるさいガレージを少し持ち上げ、身を屈ませながら中に入った香織は見つけてしまった。


 夜の街灯の明かりが、半開きになったシャッターから地面を這い、父親の足元を照らしていた。


 香織がいつだかの父の日にプレゼントした安い部屋着。


 その部屋着姿のままで、父はガレージの中にぶら下げたロープに首を括り付け、夜風に少しだけ揺れていた。


 コンクリートの床に拡がった汚物の匂いと、まるで物のように微動だにしない父の姿に頭が真っ白になってしまった香織は、暫く何も考えることが出来ずに立ち尽くしてしまった。


 少しずつ現実を理解し始めてしまった香織は、無意識に遠ざかるため脚を後ろに下げ、ヨロヨロとシャッターへとその身体をぶつける。


 ガシャ、と無機質な音がガレージに響き渡り、次いで車の鍵が地面に落ちた音が響くけれど、父親が反応してくれることはなかった。




 その日を境に、香織の人生はガラリと変わった。


 白と黒。両極端のように今までの人生とは全く違うものになってしまったのだ。


 母は家にいない事が多くなり、見知らぬ男が出入りするようにもなった。


 最も母が荒れていたという事でもなくて、母の笑顔はあの日以降見る事は無くなっていたし、男と会うときもどこか苦しそうな顔をしていたのが印象的だった。




 今までのような会話もなく、父親の事はまるで触れてはいけない禁忌のように話題にすら上がらなかった。


 香織がエスカレーターで高校に上がり、1年が経ってもそれは全く変わらなかった。


 家での居心地も悪くなり、学校生活にアルバイト。少しだけ疲れてきた頃、ソイツは急に現れた。



 その瞬間が香織の人生で1番のターニングポイントであり、最も最低な1日であった。







「五十嵐っ、なんか宮原が呼んでんぞー?」


 家計のために隠れて始めたアルバイト。今日もそのアルバイト先であるカフェに向かうため、香織は帰りのSHRの後、すぐに荷物を纏めていた。


 声をかけてきたのは中学の時からずっとクラスが同じだった男の子で。


 今思えば初恋の相手だったようにも思える。


 そんな彼が高校に上がってできた彼女と手を繋ぎながら、香織の席へと声をかけにやってきた。


「香織ちゃん、なにやらかしたのー?」


 高校から編入してきた彼女は、とても明るくておしゃべりで。香織や他のクラスメイトともあっという間に打ち解けてしまった。


「もう!そんなんじゃないってばー!」


 怒ったよ、とアピールするように声を大きくさせて唇を尖らせる。



 香織は父親の事があってから、余計な心配をかけないようにと学校では今までよりも努めて明るく振舞っていた。


 父親が亡くなっているという事に同情をされたくはなかったし、仲のいい友人達には余計な気遣いをさせたくも無かったから。


 アルバイトには間に合わせてもらわなきゃ、と呼び出してきた学年主任の宮原を訪ね、職員室に向かう。


 教室と違う空気にいつまでも慣れない緊張を隠しながら1番奥の席にまで行くと、宮原教諭は忙しそうに引き出しを次々開けては、何かを探している様子だった。


 香織にも気が付いていない様子で声をかけるのも憚られたが、アルバイトもあるのだ。

 

 香織が申し訳なさそうにその背中に声をかけると、勢い良く振り返った宮原はいつもよりも笑顔が強かったように思える。



「おー、五十嵐。悪いなー呼び出して」


「いえ、大丈夫ですけど……どうしました?」


 学年主任という立場もあってか、香織と宮原教諭にはほとんど関わりはなかった。

 寧ろ今名指しで呼び出されている事で、自身の顔と名前が一致していたのかと思ったくらいだ。


 わざわざ学年主任が自身を名指しで呼び出すなど怖い気分であったが、香織自身特に怒られるような事もしていない。


 戸惑いの感情だけを持ちながら顔色を伺うと、宮原教諭は茶封筒を持ち上げて席を立った。


「ちょっと付いてきてくれ」


 優しげな笑顔を浮かべていたが、この場ではできない話という事に嫌な予感を少しだけ感じながら職員室を後にする。


 廊下を挟んで向かい側の生徒指導室に促されると、さらにその嫌な予感は膨れ上がってしまう。



「あの…本当に何かしましたか…?」


 記憶には無い、と続けながらも促されるままにソファに腰を下ろす。


 無駄に質のいい革のソファは香織だけでは持て余すほどに大きく、学校という世界の中では普段見る事のない部屋とソファに香織の心臓は少しだけ冷たく高鳴っていく。


「五十嵐が何かしたわけじゃない…ただ、大丈夫かと心配してるだけだ」


 職員室の時から、貼り付けたように変わらない笑顔のまま香織に視線を向ける宮原教諭。


 背中の下が冷えたように軽く身震いをしたが、香織も真っ直ぐに宮原を見つめ返した。



「大丈夫…って…別に虐められたりとか…そういう事は無いですけど…」


 確かに高校に上がって虐めの話は聞いた事があった。

 だがそれはそもそも隣のクラスであり、大問題になる前に虐められていた人物は不登校になってしまったと聞いている。

 さらに言えば、その虐めは中学からの話で、あまりにも時間が空きすぎている。


 心配される事など何も無いはずだ、と首を傾げる香織の目の前に、ゆっくりと茶封筒が突き出された。


 反射的に受け取ると、促すように頷く宮原を怪訝そうに見ながらゆっくりと封筒に視線を落とす。


 普段使わないような重厚な茶封筒は、開け方すらよくわからない。円形になっているところから紐を回しながら外していくと、封筒の口が香織を受け入れるように大きく開かれた。



 その中も先も見えない封筒の口に手を突っ込むが、中のたった一枚の紙が抵抗するように出てこない。


 無理に引っ張ってしまうと破れてしまうような頼りなさを持つその紙を、なんとか封筒から取り出して外気に晒す。




 色もないシンプルな紙は真っ白な、所謂白紙だった。


 戸惑いながらも紙を裏返すと、そちらには色もない無機質な文字がただ羅列されていた。





 学費未納について


 1-C 五十嵐香織



 上記の生徒の学費について2年間の未納が確認されており、再三の督促にも反応が無いため、今年度を持って退学処分とする。


 」





 一度全てに目を通してからも、理解が出来ないように香織は何度も何度もその短く、冷たい文字に目を滑らせていく。




 学費の未納など聞いていない。しかも2年間。今から母と相談しようにも、恐らくこの件について無視をして隠していたのは母であるだろう。


 それに2年分だ。既に処分の内容すら書かれている状況では、ここから何とかしてもらうのは簡単では無いだろう。



 いつだったかのガレージの時みたく身体から力と栄養が抜けていくのがよくわかる。

 軽い一枚の紙を持つ手がブルブルと震え、ついには手を離してしまった。



 父が居なくなって、母も辛そうに日々を消化している中、香織に力をくれたのは友人達であり、学校であった。


 楽しいことばかりでも無いけれど、この学校を去らなければいけないというのは、とても考えられない。



 目の前で心配そうな顔を向けている宮原教諭に何か伝えなければと思うが、そんな事も出来ないほどに唇が弱々しく震えてしまう。


「その様子だと聞いていないみたいだね…残念だけどそういう事なんだ」


「……………」


 返事だけでもしようと喉に力を込めるが、香織からはヒュゥ、と風を裂くような音しか出なかった。



「何か事情があるのかな…?もし僕がその話を聞いて理事長を説得できれば、何とかなるかもしれない」


 真剣な顔で顎に手を当てながらそう声をかけてくる宮原。


 そんな言葉に、香織は知らぬ間に瞳から涙がこぼれ始める。


 ポロポロと止めようの無いその雫が頬を伝い、嫌な事実を突きつけた茶封筒にシミを残していく。


 どうしようもない無力感に苛まれ、香織はソファにどこまでも沈み込むように肩を落とした。





「た、ぶん……っ……ぅく………っ!」


 何とか落ち着かせて声を絞り出すと同時に涙があふれ、喉がしゃくり上がった。

 ツン、と鼻の奥が痛くなるが、香織は言葉にならない言葉をその喉を潰すほどに絞り出していく。



「ち、父がっ………じさつ、してしまって…!それも、しゃっきん、だからっ………ひっく…ぅ……」


「そうか……辛いことを聞いてすまないね」




 そう返した宮原から隠れるように香織は両手で顔を包み込み、慟哭とも呼べるほどに思い切り泣いた。


 幸い生徒指導室は壁が厚く、鍵もしっかりしているお陰でその悲鳴のような泣き声は誰にも聞かれる事は無かった。








「………学校、辞めたくはないよね…」


「………ひっく…ぅ………はい…っ」


「辞めて働くとなっても……その借金や学費を返済するのは難しいと思うから……何とかして続けた方が将来的には良いと思う」


 その言葉についてよく考えられるほど今の香織に余裕はなかった。

 止まらない嗚咽を繰り返している香織の隣に移動した宮原は、そっと小さな背中に掌を当てて撫でさすった。


 その掌の暖かさに香織の堰き止めていた何かが溶かされ、父が居なくなった後の全てを吐き出すように大声で泣き続ける。


 ただ側にいてくれる宮原に香織はたくさんの思いをぶつけた。


 父が死んでしまった事も、母が笑顔にならなくなった事。生活費のためか見知らぬ男に付きまとわれている事。自分が学校のみんなにどれだけ救われているのか。


 しっかりとした文章にもならなかったけれど、香織は数十分に渡って思いを吐露し続けた。










 やがて涙も枯れ果て、疲れ切った様子の香織からゆっくりと離れ、宮原は立ち上がって窓際に歩き始めた。



「そんな大変な状況とは知らなかったよ……」


 力の入らない体で宮原を見ようとするが、その表情は茜色に変わっている夕日に晒され、逆光になっていた。



「もしかしたら、君が何か悪い人に絡まれてるのかと思ったんだ。……禁止されているアルバイト、してるだろう?」



「………………はい………」


「お金に困っているのはそういう事情だったんだね……」


 変わらず逆光で表情の読めない宮原は、抑揚のない言葉でそう続けた。






「2年間で約250万円…未納分を一括で返済する事は難しそうだね。……でも、僕はキミの力になってあげられる」




「……っ!!」




 香織は勢いよく立ち上がった。




 茶封筒と通告の紙が地面に散らばるけれど、それすら気に留めないように香織は宮原に駆け寄った。





「どういうことですかっ!?」




「さっきも言ったけれど、キミが今退学になっても、返済は難しいだろう」




 泣き切って疲れ果てた香織にはその想像がいとも容易く出来た。




 言う通り、高校を退学になって働き始めても、何とかできるビジョンは浮かばない。



 高校生の香織には250万なんて大金がイメージすらできなかった。




「それに……お母様も、キミが退学になれば責任を感じてしまうだろうね」




 その言葉も想像に難くない。





 ただでさえ食費などのために自分を追い詰めている母の事だ。





 もしかしたら父と同じような結末になってしまうかもしれない。





 枯れ果てたはずの涙は、また香織の奥からとめどなく溢れ始める。





「でも、キミが努力すれば全て無かったことに出来るよ」





 そう言いながら宮原はスーツの内ポケットから小さな白い封筒を取り出した。




 その口を開き、中身を取り出すとそれを香織の目の前に広げた。





「僕はキミと違って立場もある大人だからね……」




 その封筒の先から飛び出していたのは茶色の紙切れ。




 最近歴史の授業で見た人物が、10人ほど揃って香織を見つめている。





「月これだけあれば、何とかなるだろう。前例もある」





 バサ、と整えられて香織に押し付けられた封筒は、やけに重かった。






「じ、10万円…」





 それはアルバイトをしている香織が月に稼げる額の軽く倍はある。





「これとキミのアルバイト代を全て渡し続ければ退学は免れる」






 優しく笑いかけてこちらを見下ろす宮原に、香織は縋りたくなった。なってしまった。



 母に迷惑をかける事もできないし、学校に通い続けながら今のアルバイト代の3倍近くを払い続けるなどとても現実的ではない。









「けれどね、僕だって簡単な額じゃない。これは、大人のキミとの取引だよ……」




 そう呟いた宮原は香織の顔を片手で持ち上げて視線を合わせた。





「お母さんに迷惑をかけずに学校に通い続けられるんだ……キミの願望通りだよね」






 そう呟いて笑った宮原の表情は、さっきまでと違い、恐怖を覚えてしまうような笑顔であった。






 言葉を失っている香織の身体を、宮原の大きな手が這い回り始める。





 とてつもなく怖くて、寒くて。






 震えてしまいそうになるけれど、香織はただ真っ直ぐに見つめ続ける。





「どうする?断って退学になって…お母さんに迷惑かけるかい?……言っておくけれど、僕以外の教師はみんな諦めていたよ」





 それは甘い毒のように香織の鼓膜を通って脳内へと書き込まれていく。





 走馬灯のように母や友人たち、そして父の顔を思い返して行くと、香織は震える手で制服のポケットへと手を伸ばした。






 数年前に父に買ってもらったスマートフォンを耳に当てる香織の身体がゆっくりと宮原によってソファへと運ばれて行く。










「も、もし……もし……」





 震えながら電話口に出た相手に声を掛けた香織を、宮原は笑いながら見下ろしている。






「体調……を、崩してしまって……。お休みさせて頂きます……店長」





 それだけ言ってスマートフォンを地面に落とした香織は、生気のない瞳で宮原を見上げた。







 生徒指導室が暗くなるまで、香織のスマートフォンからは電話が切れた音が鳴り響いていた。





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