第6話 トラウマとこれから(後編)
それには、なんの根拠も無かった。
現実にはあり得ない魔法というものを何度も見せつけられ、常識から外れた考え方が当たり前になってはいたけれど。
その言葉だけは、最初から今まで本気で信用してきたわけでは無かった。
きっと、未来の言葉は、香織のために向けられていた言葉であり、優しい嘘だったのだろう。
結果的に香織は現実世界に帰る事なく1ヶ月弱こちらの世界に滞在し、魔法の勉強やこの世界についての調査など、やりたいこと気になることに取り組んでいた。
それはしばらく感じていなかった充実感であり、自分のための時間だったと思う。
何処かで気が付いていながらも、『周りの記憶を書き換えられ、自然に現実に戻ることが出来る』という言葉を言い訳にしてこの世界に逃げていたのだろう。
「今の空さんの話を聞いて、何となく理解しました」
香織がそう告げても、特に反応を示すことなく、空は座ったままその言葉を聞いていた。
「空さんの話はともかく、未来さんの場合…魔法が使えるようになった時点でもう不満が消えてるはずですよね?」
1から10まで聞いたわけではないが、心の奥底に関係してくるのが魔法だと目の前の彼は言う。
未来は身体が弱く、身体を思い切り動かしたいと言うのが奥底にある不満なのだとしたら、既にウルフ達相手に超人のように動き回ってるのを香織はその目で見届けている。
何か病気を抱えてるようには見えなかったし、瑠奈の治癒魔法というものもあるのだ、治っていて当然だと思われる。
それでも。
未来は自身との約束を遅らせ、謝罪しながらもこの世界へと頻繁にやって来ている。
同居しており、自身がサブリーダーをしているFLATのためだとも考えられるが、それは既に不満では無い。
未来自身が言った『この世界には不満がある人間だけが来ることができる』という言葉に矛盾してしまうこととなるはずだ。
「未来さんは現実世界では何も変わってない…。……魔法が影響出来るのは、この世界でだけ、ですよね?」
最早質問や意見などではなく、ただの確認作業のように、言葉を選びながらも香織は真っ直ぐにその言葉をぶつけた。
「……未来の事情は俺も知らないと言っただろ?アイツが未だにどうこうは分からないよ。知りたいと言うつもりもない」
きっぱりとそう告げた空だったが、まるで出来のいい生徒を見るように満足げに微笑んで頷いた。
「でも、正解。………現実に魔法は使えないし…玲奈の石とか魔法が使える道具も持っていけない」
正確には持って行っても何も起こらない、と事も無げに続けたまま、今度はまるでどこか試すかのように挑戦的に香織を見つめた。
「で?……それが確信できたらどうする?1ヶ月経たないくらいとはいえ向こうじゃ行方不明扱いだろう。今すぐ帰るか?」
現実では些細な事件として扱われているかもしれないし、反対に物凄い重大な神隠し事件として扱われているのかもしれない。
香織はその言葉の真意を探りながらも、現実にある自分の家のことを思い返して行く。
あの母親の事だ。警察に素直に捜索願を届け出てるとは思えないが、何もなかったかのように過ごしている事も、もちろんないだろう。
一人娘が1ヶ月近く消息不明なのだ。
今戻ってしまうと、と心が重くなってくるのは仕方のない事だった。
「魔法の影響を向こうに出す事はどうやっても出来ないし、向こうの人間をこちらに連れてくるのも無理だ。例えばそれが俺でもな」
確かに嘘をついたのは空ではなく未来であったが、悪びれもせずにそう続ける空の言葉に感じたのは、怒りなどでもなく只の疑問であった。
「空さんでも、と言うのは?…こっちに来れる人なのに連れてこられないんですか?」
「こちらに来る時に見える光る扉。アレを潜り抜けられるのはそいつ自身だけだ。…お前は、自分の部屋で見たと言っていたな?」
以前の香織では考えられなかった事だが、怒りを覚えたり心を投げ捨てたりするわけでも無く、ただ興味のある話を聞くように純粋に頷いていた。
「例えば現実世界で俺がお前の部屋に行っても扉は見えないし潜れない。もちろん、俺が来る時の扉も、俺以外には見えもしない」
なるほど、と漏らした香織は空が伝えたかったであろう言外の言葉にまで意識を動かして行く。
他人をこちらに連れてきて魔法で記憶を書き換える事も出来ないと言うことか。
そう整理して受け取った香織は小さくため息を吐いた。
「……最初は興味本位でした。…世界についても、魔法についても」
テーブルに広がったメモを取ると、最初のページからパラパラとめくり始める。
ギルドの人間から住居を提供してもらう時に同時に受け取った物だ。
最初は空白だらけ、雑然と自身の文字が踊っているのだが、段々とページを捲るごとに文字数は増え、びっしりと細かく書き連ねられて行っている。
「でも、今は本当に知りたいんです。何故魔法があるのか…何故こんな世界があるのか」
その言葉通り、メモは終盤に差し掛かってくると研究者の手記のようにひたすらに詳細に内容が記されている。
2週間も成長のないことに努力を続けられるのも、本気になった証なのかもしれない。そう自分のメモが教えてくれているようだった。
「魔法。使いたいです」
空の少し前の質問にハッキリと応えた香織は、メモを閉じて真上を見上げる。
どこまでも高い青空が眩しいとばかりに静かに目を閉じると、静かに息を吸い込んだ。
「不満と、向き合わないといけないんですね?」
震える小さな声で告げるが、その言葉は空へとしっかり届いたようだ。
おもむろに顔を下げると、空が真剣に香織を見つめていた。
「魔法が使えるようになるには、良いと思う。何が嫌で、何が不満なのか。自分で整理できるしな」
でも、と珍しく先ほどの香織よりも小さな声を紡いだ空は、随分と頼りなさそうに俯いてしまった。
「それが、どれだけ辛い事かは分かる…。……魔法への近道ってだけでしていい事じゃない」
自分よりも不安げで寂しそうな姿を見てしまうと、寧ろ安心してしまう。
くす、と小さく笑った香織は、清々しいまでの青空に両手の拳をゆっくりと突き上げた。
「私、帰ります!……帰って、また来ます!」
これから、自分のトラウマとも呼べる過去と向き合う香織の表情は、青空と同じようにどこまでも澄み切っていた。