第5話 トラウマとこれから(前編)
香織が魔法の修行を始めて約2週間が経ったある日の自宅。
今日もいつも通り何も魔法が使えないのかもな、と半ば諦めた様にため息をついてから、日に日に重くなっていく扉を開けてイヤリスの街へと飛び出す。
すると2週間で何度も一緒に修行をして仲良くなった亜紀がニコニコと香織を見上げていた。
いかにもな魔術師のロープ、そしていかにもな魔女の帽子。そのどちらもがブカブカで、手のひらが見えない腕で帽子を持ち上げながら香織の表情を伺っている。
「おはよー!まほーれんしゅういこ!」
朝も早くから大きすぎる声に若干の辟易は有ったが、この少女はただ純粋でがむしゃらだともう理解し始めている香織は静かに頷くだけに留めた。
「うん、行こっか」
この世界ですっかり相棒となったメモ帳を握り直して、差し出された手を繋ぎながら歩き始める。
この2週間で顔なじみになった農家の方々と話しながら西門を抜け、いつもの草原に難なく辿り着くと、珍しく今日は人が待っていた。
初めて魔法を修行し始めた時以外は、花蓮がたまに見にきてくれるくらいだった。
というのもやはり何でも屋と自分達で名乗るだけ有って自警団FLATのメンバー達はとても忙しいようであり、亜紀と香織の2人で行うことが殆どであったのだ。
今日は珍しく先生役もいる上、しかもそれはFLATのリーダー空である。
2週間、全く進歩が無いことがバレることは恥ずかしかったが、今や本気で魔法を使いたいと願い始めた香織には随分と頼れる存在が用意された椅子に腰掛けていた。
「そらーっ!おはよー!」
「おう、今朝も言ったろ」
香織の手をパッと離して駆け出した亜紀が、椅子に座る空の膝の上へと勢いよく飛び上がった。
椅子を傾けさせながらもしっかりと抱きとめた空が、宥めるように亜紀の背中を2度ほど叩く。
指の露出していない袖で、赤ん坊のように空の服を器用に捕まえた亜紀は猫のように喉を鳴らす音が聞こえそうな顔で頬を擦り付けながら甘えていた。
「久しぶりだな。どうだ?修行は」
甘えられているせいかいつもより優しげな声と微笑みを浮かべた空は、静かに手のひらを向けて空いた椅子を香織に勧める。
香織は腰を下ろしながらもその質問の返答に困ってしまい、曖昧に頷きメモをテーブルの上に広げた。
細かい字でびっしりと書かれたソレは、香織の努力と本気具合が一目で分かるものであり、空とその膝に乗る亜紀も興味深そうにメモを覗き込んでいる。
「ふむ…なるほど。あまり良くはないみたいだな」
読み込んでいくと。
香織の試した方法、亜紀が提案した方法。
その全てが最後には「効果なし」で締められており、小さく罰印が重なっていた。
修行の成果を亜紀に聞いてもいまいち要領を得なかった空には効果的だったようで、やがてメモを持ち上げながら真剣に覗き込む。
メモが自身の頭の上に乗せられた亜紀の表情は、サイズの大きい帽子に隠れて伺うことはできなかった。
「色々な事試してたみたいだな…そうかそうか」
何かに納得したように顎を指先で触れながら頷く空と、バツが悪そうに肩身を狭くさせる香織。互いの姿はどこか対照的である。
「ここまでやって無理となると…違うのかもな」
メモを置いた空は亜紀の帽子をぐしゃぐしゃと手のひらで弄びながらそう零した。
「違う…ですか?」
「あぁ」
言葉の意味がうまく掴めず、ただ諦めろという訳でもない空に不思議そうに声をかけたが、返事をしたきり空は腕を組んで考え始めてしまう。
真剣なその美顔に見惚れていたわけでは無いが、声を挟むことも出来なかった香織はただ変に渇く喉を唾液で誤魔化しながら黙り込んでしまって。
やがて数分が立って亜紀が勢いよく空から飛び出して草原に着地するまで、誰も身動きすらとることは無かった。
「飽きたー!………ね、しゅぎょうしないの?」
「ん、悪い…今日は俺が見てやる約束だったな」
ゆっくりと立ち上がり、亜紀と向かい合うように移動した空は帽子越しに頭を撫でる。
「少し香織と話すから……先にこっちな」
頭に触れながら目線を合わせるようになった空は、何もない場所を指差して少しだけ深く息を吸った。
青い光が眩く輝くと、みるみるうちに地面から人間の5倍ほどはある巨大な氷山が出来上がっていく。
数秒で発生したそれを確認すると、亜紀はゆっくりと2.3歩前へと進む。
「まずはお前の得意な土系からだ…かなり頑丈に作ってあるから…とりあえずそれを壊してみろ」
「うんっ!すぐこわしちゃうからねっ!」
そう無邪気に返した亜紀は両手を広げて目一杯前に突き出し、大きく音が聞こえるほどに息を吸い込んだ。
途端に亜紀の身体全体から光が放たれ、赤、青、黄色と瞬く間に光が変化していって。
さらに息を吸い込むと光の輝きが何倍にも膨れ上がりーーーそして何も起こらなかった。
「はは、思いっきりやれよ?」
楽しそうに笑う空は、顔を真っ赤にさせて頬を膨らませる亜紀から離れて立ち上がり、香織の座る場所へと戻ってきた。
「待たせたな」
「いえっ、亜紀ちゃんの方が長く修行してますし…優先で大丈夫です」
一部始終を見ていた香織はプルプルと小さく首を横に振った。
「ありがとうな」
暖かい目線で亜紀を見守りながら座り直した空は、ゆっくりと脚を組みながら黙り込んでしまう。
また少し耐えていた香織だったが、堪らずに少し身を乗り出すようにして声を絞り出した。
「…………さっきの、違うというのは」
「あぁ。魔法ってのはゲームみたいにわかりやすいものだけじゃないんだ」
何度も光を放つが何も起こらない亜紀を優しく見守りながら、空はそう返した。
「俺も基本は氷とか雷みたいな魔法は使うが…花蓮の魔法を以前見せただろう?」
「えぇ…石に魔法を閉じ込めるとか…」
「アイツは逆にそれしか使えないが自由度は高い。ある意味ではこの世界にいる奴の魔法は全部使えるからな」
そこまで言うと、空は亜紀から視線を切ってテーブルに乗り出して、少しだけ声を潜めた。
「………香織は、この世界について調べてたんだろう?」
急な話の転換に戸惑いながらも、香織はしっかりと頷いた。
マナリスに通い詰めて老人の話を聞いたのも、どこか不安定で謎だらけなこの世界について知りたかったからだ。
そして、この世界にやってきた日。
空と未来の話を聴いた時に少なからず違和感を覚えていたのも理由の一つだった。
世界の成り立ちも、ルールと呼べるものすら無い上、みんなが当たり前に使っている魔法ですらよくわからないという。
それだけでは無く、彼らから言外にそれを知りたいという気持ちすら感じられず不安になってしまったためだ。
来た時の戸惑いなどといった感情を思い出しながら、香織はもう一度頷いて見せる。
少しだけ目を細めながらそれを確認した空は、組み合わせた手で口元を隠しながら更に声を小さくさせた。
「俺も調べたことがある。…そして、1つ方向性を見つけた」
「………っ」
今までに無いほど真剣で、どこか重苦しい雰囲気に戸惑いながらも無意識にメモに手を伸ばしたが、空はその手をとって小さく首を振った。
「これは、2人だけの話にしてくれ」
急に手を取られた事に戸惑う余裕すら与えない低い声に、思わず視線を逸らしてしまう。
いつからこの世界にいるのかは分からないが、自警団のリーダーというくらいだ。恐らくこの世界の中でも古参なのだろう。
そんな彼が見つけたと言う情報は、昨日今日やってきた自分なんかより正確で、重要な話に違いない。
香織は頭の中にしっかりとメモを取るようにまっすぐに見つめ直した。
「もちろん言いたくない事もあるから全ては話せない…。それでも、こと魔法についてだったら話せる」
「魔法についてだけ、ですか?」
「………他は、特に香織には話せない」
話したくない、と申し訳なさそうに呟いた空に握られた手をそっと解いて、香織は首を横に動かした。
「直接言うって事は、理由があるんだと思いますから…大丈夫ですよ」
2週間、空と直接関わりあった時間は殆ど無かったが、一緒に生活している亜紀や街の人々の声から、空が悪い存在ではない事。
周りから頼られていて信頼の置ける人物だとは理解していたつもりだ。
香織はそう告げてから、また頭の中を落ち着かせてから空の言葉の先を促した。
「この世界は、現実に不満のある人間だけが来ることができる。これは前も話したよな?」
こくり。
ゆっくりと頷く香織。
それに倣って首を縦に動かした空は、少しだけ苦しそうに酸素を取り込んで言葉を続けた。
「魔法は、それに密接に関わってる」
空は氷と雷。
花蓮は魔法を閉じ込めて取り出せる石を。
未来は身体を強化できるもの。
瑠奈は傷を癒すことが出来るらしい。
今までにわかっている情報を整理しながら、香織はテーブルに広がったままのメモに視線を落とす。
「細かい話は…正直なところ俺も知らない。が、未来は生まれつき身体が強くないみたいでな…思い切り動いてみたかったそうだ」
リーダーとサブリーダー。
互いに相棒のように話して振舞っていたが、そんな空でも知らない事はあると言う。
香織は、またほんの少しの違和感を抱きながらそのどこか悲しげな瞳を見つめ返した。
「俺は………。昔、その…」
そこまで言って空は言葉を一度区切り、浅く息を吸い込んだ。
その瞳は辛そうに濡れ、僅かに手が震えていた。
「虐待を、受けていてな。……何かあると、風呂に氷水を張られて…そこに何度も沈ませられた」
「………」
ぎり、と音が聞こえるほどに歯を食いしばりながら、憎憎しげな声を上げる空の姿は、今までの中では想像ができないほど暗くて、何処か儚げであった。
「瑠奈は、近しい人を交通事故で亡くして…命が無くなっていくのを、間近で見ていたらしい」
空の話の暗さとショックに戸惑っていた香織に突きつけられた新たな情報。
どれも言葉に詰まるような話ばかりで、このまま聞いていていいのか、と俯いてしまう。
そんな様子を察してか椅子に背中を預けた空は、今までとまた打って変わって気楽そうに息を吐き出した。
「まぁ、何となくの話だが………言いたい事はわかったか?」
「………………えぇ」
空の氷水の話と、氷を発現させる魔法。
身体の弱かった未来と身体強化の魔法。
怪我を間近で見たという瑠奈の治癒魔法。
要は、不満そのものなのだ。
この世界に来れる人間の、根本の部分。
その1番深い所に魔法の秘密はあるのだと言うのだろう。
そして、それから導き出される事とは。
「………………香織」
「………………はい」
「魔法、使いたいか?」
それは、とても軽い質問で。
それは、とても重たい質問であった。
この世界は現実にいつでも帰ることができる。
この2週間でマナリスに行く事は少なくなってしまったが、そこを行き来する人間は少なくない事はわかっている。
嫌だったら、いつでも逃げ出せるのだ。
それでも、香織はこの世界にいる。
このイヤリスの街で寝て、食事をして、調べ物をしている。
数日に一度討伐隊の誰々が亡くなっただとか、魔物が街に襲ってきたりなどと言うこともあった。
魔法だってそうだ。2週間も成長していないのに努力は続けている。
どのようにしたら使えるのかをメモに並べ、試行錯誤しながら魔法のために頭を働かせている。
きっと。
自分はもう、以前未来が言ったように無意識的にこの世界に留まってしまっている。
いつ帰っても何とかなるという言葉を信じて、甘えて。
「………1つだけ、確認させてください」
「1つじゃ無くてもいい」
「記憶を書き換える魔法は、あるんだと思います」
それは未来の言葉で。
ギルドにいたスーツの女性、リザとは一度しか会っていないが、その個性の強さから忘れることもできていない。
そのスーツの彼女が記憶を書き換える魔法というのも、間違ってはないのだろう。
でも。きっと。
「………………現実に戻って、周りの記憶を書き換えてくれるって…嘘、なんですよね?」
空は、その言葉を分かっていたかのように驚くそぶりもなくて。
泣き出しそうに鼻が痛くなってきた香織を見ながら、ゆっくりと一度頷き返した。