第3話 変わり始める
「あっ…未来くん!」
足音に反応して視線を向けたのは瑠奈のみで、途端に嬉しそうな声を上げる。
「っ………瑠奈ちゃん…」
飛び上がるように立ち上がって駆け寄ると、未来は驚いたように短く息を吸い、そのまま申し訳なさそうに俯き長い黒髪で自身の顔を覆い隠してしまった。
「ごめんね、約束から大幅に遅れて」
そう呟いた彼の頭を茜色の夕日が優しく包み込む。
すぐに香織の存在にも気が付いた未来は、そちらに向かって歩きだし、すぐ側でまた静かに頭を下げる。
「香織ちゃんも、ごめん」
「いえ、別にそれは構いませんが…今どこから?」
本当に気にしていなかったのであろう。香織は特別気に止めるそぶりもなく首を横に振った。
それよりも興味が湧いたのは未来の現れ方だ。まるで瞬間移動。何もないところから急に飛び出してきたように伺えたのだ。
「うん?…あぁ…ココの説明もされてないのか」
乾いた笑いを浮かべながら、未来はちらっと自身の背中を確認し、マナリスの裏にある青白い模様を眺めはじめた。
「マナリスの中には良く入ってるでしょ?…あそこは入り口で、現実からまたこっちに来る時は、なぜか建物の裏側に出ちゃうんだよ」
その簡単な説明にメモを持ち直してペンを走らせながら、追加の質問をしようとした時、未来と香織の間に随分と可愛らしい音が鳴り響いた。
くぅ、と何か小動物のような鳴き声。
視線を向けると、顔を真っ赤にしながら両腕でお腹を抱えて隠す瑠奈の姿があった。
「ふふっ、ごめんね。瑠奈ちゃん。食べないで待っててくれたんだ?…ありがとう」
ゆっくりと手を伸ばして頭を撫でる未来に、また瑠奈は耳まで真っ赤に染め上げながら声にならない音を口から漏らして俯いてしまった。
「もし香織ちゃんが時間大丈夫なら、約束はお昼じゃなくて晩御飯にしてもいいかな」
「それは構いません…聞きたいこともありますし」
決まりだね、と美しく微笑む未来は瑠奈の頭から手をどかし、夕暮れにそまるイヤリスの街道にゆっくりとその身体を躍らせるように進み出た。
「はぁっ…帰ってこれた。……ほら、2人とも。行こう?」
空を見上げて安堵したように声を漏らした未来は、いつもと同じような笑顔を浮かべながら、立ち尽くす2人に振り向いて声をかける。
その影はマナリスに向かって長く、細く伸びていた。
「えっ!?それじゃあ2人で待ってた訳じゃないの?」
イヤリスの街で最大の食事処。酒場「ハニービーツ」の一階の角に座る3人。
注文を終えて話し始めたところで、未来は驚いたように声を上げた。
「えぇ。瑠奈さんが今日一緒に食事する方だとも気がつかなかったですし」
「私はもちろん分かってたけど…未来くんが居ないからどうしようかな、って」
それぞれ出されたお水を同時に口に運びながら返答を言葉にする。
「凄い偶然だね。たまたま約束してて面識ない同士がいるなんて。…香織ちゃんは分かるけど、瑠奈ちゃんはあそこで何してたの?」
こて、と可愛らしく首を傾ける未来。
対して瑠奈は赤くなって恥ずかしそうに俯き、香織は呆れたように鼻を鳴らした。
「うーん、何となく、かなぁ。少しだけアジトに戻りにくくて」
その答えにため息を1つ吐いた香織は、メモを広げて確認しながら少しだけ視線を未来と瑠奈に向けた。
「瑠奈さんは貴方を待ってたに決まってるでしょう」
「ちょ、ちょっと香織ちゃんっ!」
もはや茜色の空は沈み、少しずつ青黒い空に変わっている。
酒場の中はランプの明かりが灯り始めたせいか、瑠奈の表情は何度目か分からぬほどに赤く染まっていた。
「改めて、ごめんね。2人に約束したのはボクだったのに」
座りながら申し訳なさげにゆっくりと頭を下げた未来に、指を遊ばせながら逡巡したように時間をとった瑠奈が恐る恐る口を開く。
「私は大丈夫。………でも、未来くんに何かあったのかなって心配で」
随分と小さな声だったが珍しくはっきりと言葉にした瑠奈は、また少しだけ迷いながら口を動かしていく。
「………何か、あった?話聞くよ?」
おずおずと視線を上目遣いにしながら様子を伺う瑠奈だったが、返ってくるのは苦笑いと申し訳なさそうに首を横に動かすだけだった。
「ボクは大丈夫だから」
「っ、でも!……こんなこと今までなかったでしょう?私…」
そこまで必死に声を絞り出していたが、店員が料理を運んで並べ始めると押し黙ってしまう。
ものの1分程で全ての注文が並んだ後では、改めてその先を口にする勇気が出なかった瑠奈は、誤魔化すようにフォークを手にとって必死にサラダを勢いよく口に運び始めた。
「はぁ。…鈍感なんですか?」
ぼそ、と未来にしか聞こえないようにメモで口元を隠しながらそう告げた香織に、返答する存在は無かった。
諦めたように食事を始めると、卓には暫く食器の音だけが響き渡っていく。
ハニービーツは今日も盛況だ。
二階はギルドに登録している人間しか使えないため、未来と瑠奈は珍しく一階で食事をしているのだが、見回してみると二階よりも活気があるのかも知れなかった。
血気、という意味では討伐班、自警団や一般ながらも腕に自慢のある人間しか居ない二階とは全く空気感が違っていたが、一階は一階で一般客でごった返している。
農作業やお店を営む人間ばかりだが、皆一様に充実したように目を輝かせて今日も生きる為の糧をその身体に流し込んでいた。
「香織ちゃん、この世界…イヤリスの街はどう?」
沈黙を破るように声を上げた未来は、注文していたステーキを一足先に食べ終え、口元を優雅に布で拭いながら視線を向ける。
「…マナリスにしか行ってないですし…あのご老人としか話してないですから。どう、と言われても」
それは、以前言った未来の言葉の答えが見つかっていないという証拠だ。
少し皮肉のような意味も込めてそう返した香織だったが、未来はどこか親のような温かな視線を向けるだけであった。
「そっか。まだ1週間だもんね。…もしボクらFLATに出来ることがあれば何でも言ってね?今日迷惑をかけてしまったし…出来ることは何でもしてあげるから」
その言葉に目で答えた香織は、もともと少なかった食事の皿を空にしてからメモを開き直した。
「じゃあ、いくつか」
「うん、どうしたの?」
人一倍食べる瑠奈のグラスにお水を注ぎ直しながら、未来はそう返す。
「いい加減、ちゃんとこの世界の事教えてください。…マナリスについても、先ほど知らない事があったばかりなので」
どこか生意気にも聞こえるほど冷たくそう告げた香織に、頷く未来。
瑠奈はそんな事にも注意がいかないほど食事に夢中なようだった。
「魔法、でしたよね。……わたしも使えるんですか?」
その質問に対して、未来には珍しく即答はせずに暫く考えるように自身の顎をその細長い指先でなぞっていた。
「……………こっちに来る人は必ず使えるよ。けれど、才能に差はある」
漸く山のような食事が減って皿が見えてきた事に残念がりながらゆっくりと大切そうに食べ進める瑠奈をニコニコと優しく見つめながら、未来は言いにくそうに眉根を寄せた。
「そこは現実と同じ。…魔法にも種類があって得意不得意はあるしね。ボクは前も言ったけどそこまで細かい才能が無いから」
「才能、ですか」
嫌な言葉だ。
ため息混じりにそう返すと、未来は小さく首を横に動かした。
「才能…魔力量とかもだね。そしてそれは、いくら修行しても変わることは無い」
諦めたような声色。
聞き様によっては忌々しそうにも聞こえたその言葉を、インタビュアーのようにペンを片手に聞いている香織は、淡々と質問をぶつけていく。
「筋トレとかしたら体力つくとか言いますけど。魔力とやらは無理なんですね」
「それに関しては少し違うね。………こっちじゃ、筋トレも意味がない」
ペンを動かしながらも頭を別の方向に回転させる香織は、何かに引っかかったように唇をひき結んだ。
「………どうかしたかい?」
「いえ、意味がないというのはどういう意味ですか?」
「こっちじゃ、身体が成長しないんだ。こっちでいくら筋トレをしても筋肉がつく事は無い」
「なるほど…」
ペンを自身のこめかみに当てながら、香織はメモを覗き込みながらまた少し黙り込んだ。
その様子を食事をやっと終わらせた瑠奈と未来が黙って微笑みながら見つめ続けている。
「では筋トレとかする為には、現実でやって来なきゃいけないんですね?」
「残念だけど、それも違う」
ぴしゃりと全否定した未来は、どう説明したものかとゆっくり言葉を探しながら質問の回答を告げていく。
「向こうでいくら筋トレをして筋肉をつけても、こっちではずっと見た目が変わらない。初めてここに来た時のままだ」
「………本当、不思議なものですね」
現実には考えられない。
いや、現実ではなかったか。
そう頭を整理するのに苦労しながら、香織はまた新たに疑問をぶつけていく。
「じゃあ食事は?いくら何を食べても太ったりはしないって事ですか?」
「残念ながら。ちゃんと太っちゃうんだ」
そう唇を尖らせながら呟いたのは香織だった。
理不尽だよねー、と能天気に笑い合う未来と瑠奈であったが、香織はとてもそのような気分にはなれなかった。
「おかしくないですか?…太って肉がつくなら、筋肉もつくと思うんですけど」
「…………うーん、そこはあんまり考えたことが無かったなぁ」
「もー!未来くんはスタイル良いから羨ましいなぁ」
ボク男なんだけど、という言葉を皮切りにまた2人は楽しそうに笑い合う。
だが、その様子すら異質なものを見るように目を細めた香織は、自身の書いているメモを真剣に覗き込んだ。
「おかしい。そんなの訳が分からない…。じゃあカロリーは?どうやって消費してるの?」
いつのまにか必死になり始めたのか、香織は敬語も忘れて素の自分を出しながら疑問をさらに追加していく。
だが、そのどれもが芳しい答えが返って来ず、納得のいかないような表情を露わにしてしまう。
「爪は?髪は?」
「それも伸びるね」
「でも筋肉は付かない」
「…うん」
「食事をしなかったら?」
「痩せるし…栄養なくなって死んじゃうよ?」
矢継ぎ早の質問に答えていく未来と瑠奈はどこか呆れたように呑気に笑顔を浮かべていた。
「じゃあ未来さんは、ずっとあれくらい強いんですか?」
「………いや。ボクは空に鍛えてもらった」
未来のその回答は、香織にとってはありがたいものであった。
イヤリスの街。ひいてはこの世界。
香織がここに居るのは、未来の言葉が気になったからというものだ。
だがしかし、今はそれ以上に興味が湧いてきているのも事実だった。
恐らくはパラレルワールドというのが1番近い考え方だろうと思っていた彼女にとって、筋肉は付かないが太りはするというのが全く一貫性がなくて理解ができないものであったのだ。
だが、今の言葉によって明らかになったことがある。
身体は成長しない。それを信じたとしても、才能というのは伸ばすことが出来るようだという事だ。
もちろん、魔力量などは言う通り変わらないのかもしれない。
けれど、鍛えたから強くなった、と言うことは成長は出来るらしい。
刀を素早く振る力は付かないが、素早く振る技術は身に付けることが出来る。
それを聞いたところで、香織はここ数日で思い始めていた願望を未来にぶつけてみることにした。
「私に………っ」
そこまで口にして、香織は改めて自分の中へ問いかける。
今はまだこの世界に慣れているわけでもないし、興味本位で居るだけだ。
だがもしその言葉を口にすれば、自分から進んでこの世界と関わろうとしていることになってしまう気がする。
それは、現実を捨てることにも思えて。
その中には友人であったり、母親であったりの存在もあるのだから。
「私に………」
違う。そんな事はない。
あくまでこれも興味本位。
記憶を自由に変えられる魔法があるなら、好きなだけ遊んで帰っても良いだろう。
少しだけ自分のやりたい事をして生きても良いだろう。
それは母親を裏切る事ではないし、今まで頑張ってきた分、少しだけ良い思いをしても良いはず。
感情に言い訳の蓋をしながら、香織は改めて未来の顔を真っ直ぐに見つめた。
「私に、魔法を教えてください」
はっきりと口にした自分の願望。
瑠奈は意外そうに。未来はどこかわかっていたかのように微笑みながらゆっくりと頷きを返したのだった。
次回は魔法勉強編。
まだ少しだけ世界の説明があります。