8話:豪州、NZ旅行と中村さんの急死
1994年9月、レンタカーを借り熱海峠を上がり御殿場から富士五湖、冨士高原の涼しい高原で、自然を満喫して帰って来た。熱海は海と冨士と箱根と実に景色が良く良い所だと言うことを再認識した。やがて10月を迎え豪州旅行のため、休日に中村さんを誘って横浜へ行き石津三千子さんが旅行に着ていく、洋服を品定めして、数点、買い込み、旦那さんが似合う洋服も決めてくれた。そうして1994年10月1日、出発の日を迎えた。
成田出発が20時半だったので、午後16時半に石津夫婦と中村さんの3人で新幹線で東京駅へ、そこから上野へ、上野からスカライナーで成田まで行き、午後18時に空港に到着し、夕食をとり、航空会社のカウンターで搭乗手続きを取り19時半に、搭乗口でまって、定刻通りに成田を飛び立った。久しぶりの海外旅行で緊張していた事もあり、程なくして、飛行機の心地よい振動で、眠りに落ちた。目覚めた頃に、赤道を通過しますというアナウンスがあった。
中村さんが、興奮して、生まれて初めて、赤道を越えるのと、年甲斐もなく、はしゃいで話している姿は何とも微笑ましかった。そうして、彼女の話を聞いているうちに、もう少しでケアンズに到着しますとのアナウンスで、ケアンズ空港に到着した。到着時間が午前4時50分と早朝で、空港のカフェで、ゆっくりと、朝食をとって、十分に休息を取ってから、ケアンズの町に行くことにした。
最初に泊まるホテルに行って、荷物を預かってもらい、ショッピングセンターに入り、女性達は、ショッピングセンターを巡り、旦那さんは、フードコートで、お茶して待っていた。昼食をとり午後1時過ぎに、ホテルに行き、早めに部屋に入りたいというと、入れてくれ、2時には、部屋に入り、一寝入りし、午後4時過ぎから、行動開始、午前中にウィンドーショッピングで、物価の高さを感じて、夕飯もフードコートで、高級料理を手軽に楽しむ事に決めた。飲料水やジュース、ワインも全て、ここで買い込んで、ホテルに戻った。
翌朝9時過ぎ、タクシーでツアー会社に集合し、港から船に乗って、アウターリーフというきれいな海に行き、昼食をとって、1時間ほど自由行動で楽しんで、午後17時にケアンズに戻ってくるツアーで、近くのフードコートで食事をして、タクシーでホテルへ戻った、買い込んだ、ビールを飲み、疲れたので早めに床につき、3日目はシドニーへ、5日目は、ニュージーランドの首都、オークランドに到着し、6日目は、ニュージーランド南島のクライストチャーチへ、7日目はオークランドに戻り、成田行きの飛行機で日本に帰った。
1994年10月11日に熱海に戻り、写真を整理したが、オーストラリアも、ニュージーランドも新鮮な魚は旨いが、脂っこい食事が多く、ホテルは、施設が割安なので良い季節にコンドミニアムに長期滞在が良いかも知れないと考えた。 中村さんは、料理が口に合わないので、景色も自然も良かったのにと、残念がっていたが、ショッピングセンターで自分の好きなものを買って、食べるのが一番良いかも知れないと言った。やがて1994年が終わり1995年となった。
1995年1月12日、寒い日、中村さんから、風邪をひき、高熱を出して動けないと連絡があり、慌てて、石津三千子さんが、管理人さんに事情を話して合い鍵で部屋を空けてもらうと、彼女がベッドに横になっていた。熱を測ると39度を超え、関節が痛くて、昨晩から急に熱が出始め、悪寒がしたと言った。管理人さんに車を借りて、近くの開業に、石津夫婦が行き、診察してもらうと、インフルエンザの疑いがあると言われ、湯河原厚生年金病院の救急に電話をして、救急車を手配し、奥さんがついて病院に向かった。
石津がマンションに戻り管理人さんに借りた車を返した。午前10時過ぎインフルエンザの可能性が高いと奥さんから電話が入り、このまま病院で仕事をして夕方に帰ると言われ家で待ち、夜18時半に家に戻った。そして中村さんから、もし私に何かあったら部屋のタンスの上段の左の引出に封筒があるので読んで、その通りにして欲しいと言われた事を話した。そして翌日、1月13日、中村さんは一進一退の状態が続き1月17日に肺炎を併発し1月18日、早朝、帰らぬ人になった。
その週の土曜日、1月20日に管理人さんに事情を話し中村さんの部屋の鍵を開けてもらいタンスの上段の左の引出の封筒を取り出した。封筒の空け文面を読むと、私は石津さん夫婦と知り合って、再び、生きる活力をもらい、楽しい日々を過ごさせてもらった。また、歌も、みんなの前で歌えて、本当に幸せな毎日で特に魚を釣ってきた日の夕食に招かれて、美味しい魚と、酒と、楽しい話を聞くのが一番の楽しみだったと切々と書いてあった。
しかし、私も80歳近くになり、体力の衰えを感じ、いつ、何時、倒れるかわからないので、ここに遺書を書いておきますと書いてあった。次の便せんの冒頭に、遺書と書いて、私の預金通帳が一番下のタンスの引出の着物の下に置いてありますが、また、宝石類を預けてある銀行も記しておきます。この遺産を全てを、お世話になった、石津夫妻に、相続していただきたいと思っていますので、何卒宜しく、お願いしますと書いてあった。
追伸として、赤道を渡る、瞬間、私は、最初に舞台に立った様な、感動を思い出しました。そんな素晴らしい、瞬間を与えてくれた、石津夫妻に、本当に感謝しています。本当に、素晴らしい、晩年の4年間を与えてくれてありがとうと締めくり、実印も押してありました。最後の文字が、滲んでいたのを見つけて、文書を見ていた石津夫妻の目に、大粒の涙が、あふれていた。
そして管理人さんが、確かに、中村さんの遺言書を確認しましたと、きっぱりと言った。石津健之助が、葬式をしなくちゃと言うと、せっかくだから、葬式の記事を地元の新聞に、載せましょうと、奥さんが言うので、そうしようと答え、1月22日の地元の新聞に載せた。