4話:秋田への転勤と楽しみ
1990年4月、秋田の新珠三千子と結婚し松本市内の病院の婦長さんとして赴任した。1990年も信州大学病院の医局を中心とした面の営業活動により親しい先生が赴任先で順調に業績を伸ばしてくれて、昨年にも増して長野市以外の長野県の売上げ金額が増え、2年前よりも45%も伸び、地道な大学病院での活動が、赴任先での医薬品の増量という形で急激に業績が伸び、遂に55%増量で1990年も長野県全体の売上増加金額、全国トップで2年連続の表彰と報奨金で所員全員の年収が過去最高となった。
1991年も順調に信州大学病院の派遣先病院の売上増加と、交際費を更に増やした、長野市の売上が増えてきて、2人の増員が決定した。1991年も伸び率の勢いは、止まらず、1991年には、1986年の石津健之助の赴任目の売上金額の2倍の売上を上げて、3年連続の表彰を受けて、長年、頑張った山根悟の個人表彰とは別に、営業所も表彰を受けて、過去最高の年収を、また更新した。そして、山根悟は、初めて1千万円を越えたのに感激して、うれし泣きした。
しかし、実際には、石津の営業活動での頑張り過ぎて身体の方がもたないのか、1992年2月1日の寒い朝、信州大学へ歩いて早朝訪問に出かける時、玄関で、石津健之助が倒れた。その時に、奥さんが、布団に寝かせ、すぐに大学病院の救急に現状を話して救急車を呼んで入院した。救急で、注射をして意識を取り戻したが、まだ、朦朧としていた。脳と心臓のCTを取って、脳内出血、脳梗塞、心筋梗塞がないことがわかり、奥さんは、ひと安心した。
その日の昼過ぎ、斎藤東京支店長が来て石津健之助を見舞ったが、顔を見て支店長の手をにぎり返したが顔に生気がなった。その後、約1ヶ月入院し最初に1週間はICUに入院し徹底的に調べたが過労による症状だろうと言うことになった。3週間して一般病棟に移り、念のためにと最新の機械で、脳の三次元スキャンと心臓周辺を中心とした大きな血管の詰まり具合を検査する事になった。脳の検査を受けながら、うつらうつらしている時、石津健之助は何か、映画を見ているような錯覚に陥り2つのシーンを見た。
1つ目は、車に乗って、曲がりくねった道を運転している時に、大型トラックが反対車線にはみ出してきて、石津の車と正面衝突して、車が原形をとどめていないシーン。もう一つは、寒い朝、女鳥羽川の橋を渡ってる最中に、急に胸が痛み出して、倒れて、意識だけは、はっきりしているのだが、身体が、思うように動かせず、次第に意識が遠のいていくシーンを見た様な気がした。そうしているうちに、頭の周りの円筒形の筒が、外れていって、あたりが明るくなった。
その後も、その2つのシーンが夢に出てくる様になり、奥さんに話すと、医薬品プロパーの激務を終わらせましょうと言ってくれ、奥さんが、今度は、私が、あなたの面倒を見て、稼いで食べさせて上げるからと優しく笑いながら言うと堰を切ったように石津の目から止めどもなく涙があふれ出した。それを見て、奥さんが、しっかりと抱きしめて、大丈夫よ、安心してと、看護婦が患者さんに言う様に、たっぷりと愛情のこもった声で慰めてくれた。
石津は、これを機会に、この仕事を辞める決心をした。翌週、退院して良いといわれ、外来で担当の先生から、今後、最低1年は、療養に専念しないと、悲惨なことになりかねませんと言われ、仕事を辞めて、療養に努めるように指示されて、了解しましたと答え、東京の斎藤貢支店長に、先生言われたことと、自分の退職の意思を伝えると、わかったと答えて石津所長の後任は、長野市担当の山根悟にして、松本営業所の山根所長を松本の信州大学病院に送り込むことを約束してくれた。
5日後、1992年3月7日、松本営業所で、緊急会議をひらき、東京の斎藤貢支店長に聞いたことを話すと、山根君が、僕には、石津所長の後任はつとまらないと言ったが、「大丈夫、自分の思った様に、思いっきり仕事をすれば、結果は必ずついてくる」と肩を叩いた。その後、観念したかの様に6人の営業所員がご苦労様でした、「お陰様で、給料も増えて、社内での個人評価も上がり、本当にありがとうございます。今後、療養に励んで、お元気になって下さい」と言われ、石津は、あたかも、もうやり残したことはないと言う、清々しい、笑顔を見せて、松本営業所を後にした。
その後、東京の斎藤貢支店長からの電話で、退職金2千万円と、愛宕製薬の愛宕宗一会長から、石津君の多年にわたる、我が社に対する貢献を考えて、退職金と同額の慰労金を出すように言われて、慰労金2千万円で合計4千万円を送ると言われ、送金先を聞いてきたので、お知らせして、今までの預貯金6千万円と合計して1億円となった。
つくば市の家に帰って、どこに住もうかと考えて、暖かくて、温泉があって、東京も近く、医療機関が近くにある場所を探してみると、湯河原、熱海、小田原が候補になり、熱海の賃貸マンションはどうかと言うことになり、熱海の不動産屋を当たると、数件あると言われ、賃料が10万円で広めの2DKがあると言われ、3日後の1992年3月13日、出かけ、熱海駅前の不動産屋へ行くと、不動産屋の車に乗って、5件を見せてくれて、古けれど、源泉を引き入れてる所が、良さそうなので、検討してみますと答えた。熱海から、一番近い大型病院はと聞くと隣町に、湯河原厚生年金病院、車で15分、その他、小田原市立病院が車で30分の所にあると教えてくれた。熱海のKM温泉ホテルに3泊して、源泉の温泉を引いてるマンションの2DKを1992年3月17日に月・10万円でマンションを借りる契約を結んで、住むようになった。ただ、家賃の他に諸費用が5万円かかり、合計、月に15万円の家賃とわかり、ここに決めた。
そのマンションの賃貸契約を不動産屋と交わした。やがて、4月を迎えて、春めいて暖かくなり、毎日、朝と夕方の2回、温泉につかり、美味しいものを食べて、石津健之助が、だんだん顔色も良くなってきて、散歩する意欲も出て来た。5月の連休があけた1992年5月7日に、石津は、奥さんと、東海道線で橫浜へ行き、中華街で昼食をとって、山下公園を散歩した。
熱海から橫浜まで約1時間10分、小田原駅まで21分、東京駅まで1時間35分、新宿まで2時間であった。その熱海のマンションは、訳ありで住んでいる住人も多かった。というのは、石津夫妻が入居したときに自治会で歓迎会をしてくれ、自己紹介をすると、以前、芸能界にいたとか、若くして、投資家として住んでいる人、また、作曲家、歌手、小説家も多く、一般サラリーマンは、ほとんどいない状態であり、もっと大きな、熱海芙蓉会という組織もあり、良かったら入会しないかと誘われた。
その時、自称投資家という30歳代、後半の男性が、石津真之介の所へやってきて、あなたも、まだ、お若かそうだが、今の資産を増やしてみませんかと話しかけて来た。彼の名前が、石本聡39歳と言い、大学を出てから、投資で、数億円の金をつくり、悠々自適な生活をしていて、人に縛られるのが嫌いで、いまだに独身だと、他の人に教えてもらった。