3話:秋田から新潟、その後、松本で絶好調
そう言う事で1人の女性に決めることもできず、ひたすら昼の営業活動と夜の活動の激務を楽しんでいた。秋田に赴任して、また、色白の綺麗な看護婦さんが、多く、その中でもベテランで仕事に夢中で、婚期をのがした20代後半から30代後半の脂ののりきった美人と仲良くなって、その看護婦さんから、愛宕製薬の薬を使ってやって下さいと、宣伝してくれるようになり、まさに、濡れ手に粟の状態で業績を上げていき、秋田赴任3年目にして業績伸び率、全国一で表彰された。
会社に入って8年目で2千万円を越える貯金ができた。思い起こせば看護婦さんの中で、30代後半ので地方病院の外来婦長さんの新珠三千子「あらたまみちこ」さんには公私とも、本当にお世話になった。内科、外科、整形外科、皮膚科で中堅製薬企業の愛宕製薬が、院内薬剤売上ベストスリーに入り業績伸び率と新薬の売り上げでトップという2冠達成で1980年には年収が遂に1千万円を越えた。
やがて秋田での5年が終わり、新潟営業所に転勤の日、送別会を終えた週の土曜日、秋田で一番の温泉旅館に泊まり新珠三千子さんを個人的に呼んで、2人だけの送別会を開いて、夜遅くまで、飲んで、暖め合って、今まで、お世話になった事に対して、十分に、お答えして官能的な夜を過ごした。翌日、彼女を自宅に送り、別れ際、彼女が石津健之助の胸の中で、さめざめと泣いてくれた時、得も言われぬ愛おしさ、ゾクッとする程の色っぽさを感じ、映画俳優1シーンの様な、感動的な別れを経験した。
最後に彼女が「どこへ行っても、私の事を忘れないでね」と言って一粒の涙をこぼした。入社10年して優秀な業績を認められて、最年少で課長に就任し、日当が3千円で出張手当が1泊1万円になり、1982年に、新潟営業所へ転勤していった。新潟に転勤しても、秋田と、同じ4泊5日の出張で、新潟県でも、長岡、十日町、津南、六日町、小出、浦佐などの山間部を担当した。月曜日に、朝の会議を終えると、昼に、長岡の開業医を2件、訪問して、長岡中央病院か小千谷総合病院を訪問して、その後、十日町病院、津南病院、小出病院、六日町病院と開業医を訪問するパターンで訪問していた。この地でも、秋田と同様、最初は、ホテルに泊まっていた。
しかし2-3ヶ月過ぎて小料理屋の訳ありの娘さんと仲良くなり、呼ばれる日が多くなり、半年過ぎる頃には、ホテルに泊まることがなくなった。週に4泊で4万円と日当3千円の5日分で1.5万円の合計5万5千円となり、月に22万円の手当が、給料の他につく様になり。基本給も増えて、表彰の賞金がなくても、年収が9百万円となった。新潟でもホテルに泊まることがなくなったので、美味しい酒のつまみや取れたてのイカ、タコ、ノドグロ、イワシ、アジのひものなどを買って行って喜ばれた。
新潟も秋田同様、色白の娘が多く、違う所は新潟美人の方が肉着きが良いというか、腕も太く、昼間に野良仕事をしたり、稲の刈り入れをしたりして、重労働をしている様だ。特に、中越地方は山菜も旨いし、へぎ蕎麦もいける。酒も銘酒が多く、どれも皆、美味しい。日本酒の銘柄としては八海山、久保田・萬壽、雪中梅、越乃寒梅、千代の光、緑川・・・書き切れないほど、いっぱいある。新潟の病院は東京から新幹線で近く、山奥の病院にも東京からの若手の先生が交代で赴任してくる場合が多かった。
薬剤の選択権は看護婦さんが持っている中小病院が多く、石津健之助は、ターゲットを決めると、徹底的に先生と共にターゲットの看護婦マークして、接待をして、自分を売り込んでいった。スキー旅行や忘年会、送別会にも、できる限り参加して、ことごとく、マークした看護婦を落としていき中小病院の売上占有比率を増やし、2年目には担当病院の売上伸び率トップで、再び、手取りで年収1千万円を越えた。そして新潟赴任3年目、全国売上金額で毎回ベスト5に入り昇給して手取り1200万円となった。
その後、隣の長野県で苦戦してるので信州大学を中心に建て直すように言われた。1987年に信州大学病院のある長野県松本市に駐在を命じられ、売上を20%伸ばせば松本営業所を新設し課長待遇の初代所長にすると東京支店長から電話が入った。また、新潟から気に入った後輩を2人連れて行って良いと言われ、吉野重光28歳と坂井茂雄27歳を連れ、松本に赴任した。長野市担当の山根悟、東信担当の鹿島健介と長野県内を5人に回る事になった。
赴任して5人の話合いで長野市担当の山根悟が交際費を20%増やしてもらえれば40%売上を伸ばしてみせるといった。そこで石津健之助が自分の交際費を回すと約束した。1987年に春から長野市担当の山根悟がゴルフ接待を増やし大型病院のターゲットの先生に入り込み売上が伸びた。その後、飲み会を増やし大型病院の若手の攻略に成功した。最後に、定期的に開業の先生のゴルフコンペを企画し、1987年7月には目標通り売上を20%伸ばした。
その後、その勢いは衰えず1987年12月、単月で40%も売上を伸ばし売上金額、全国一になり表彰された。そして1988年4月松本に松本営業所が開設する事が許可された。1988年4月10日、戸倉上山田温泉で松本営業所設立の豪勢な祝賀会を芸者さんを呼んで、開催し更なる飛躍を誓い合い派手にのんだ。石津健之助は信州大学病院に毎朝8時に医局を回りを継続し医局の秘書さんに気に入られた。そして秘書さんから医局の教授以下の人間関係や貴重な情報を調べ上げてた。
そして医局のテニス同好会やコンピュータ研究会に入り込み大学の各医局に食い込んだ。また地元の大手卸の毎日の訪問で開業医や中小病院の情報を集めて、その集めた貴重な情報を松本営業所の営業会議で細かく伝えた。親しくなった先生が赴任した先に同行訪問し売上増をお願いして回った。その結果、1年経った1989年、長野市以外の地域の売り上げが30%伸び、営業所の売り上げ伸び率33%と全国一になり表彰されて報奨金のお陰で営業所員1人当たり60万から200万円、その年の年収が上がった。