23話:投資活動と福祉
その後2009年が終わり2010年を迎えた。その後、桜のシーズンを経て今年は長野の戸倉・上山田温泉に泊まり更埴の杏の祭りに出かけ長野の善光寺、上田の真田神社を巡って、松本の浅間温泉につかって帰ったきた。その後、ゆっくりするのに飽きた奥さんの石津三千子さんが旅行会社で、クルーズに同行する旅に出たいと言い出して、その時に石津健之助さんも一緒に行かないかと誘われて、ついていった。
8月3日からバンクーバーからアラスカクルーズの仕事をもらったので7月22日にバンクーバーへ行き花の一番切れなシーズンなのでビクトリアに泊まった。数日間、ブッチャードガーデンを散策して回り多くの花の写真を撮って楽しんでバンクーバーに戻った。27日にアムトラックでアメリカ国境を越えてアメリカのシアトルに行って4日間滞在しボーイングの工場見学、シアトル市内見物とスターバックス・コーヒーの店や港町の美味しい魚屋を食べ歩いてた。
この町は魚だけでなくパンも料理もアメリカでは珍しく美味しいので多くのカフェやレストランを食べ歩いた。その後、8月2日にバンクーバーに戻り7泊8日のアラスカクルーズに石津夫婦が上船した。バンクーバーを出航して3日目にグレーシャー・ベイと言う巨大氷河に圧倒され、その氷河が、崩れ落ちる光景は荘厳であり、あらためて自然の迫力を痛感させられた。その氷河はグレーシャー・ブルーと言う名の通り、透きとおる青は引き込まれるような美しさだった。その後、ジュノー、スキャグウェイ、ケチカンに立ち寄り8日目にバンクーバーに帰って来た。
そして奥さんはバンクーバーとシアトルを行き来して、多くのクルーズの旅に看護婦として上船する仕事を9月初旬までして9月10日に日本に帰ると言い石津健之助は8月11日に日本に向けて、帰っていった。日本に帰ると、うだるような暑さでエアコンの効いた部屋から出ないで1日中、本を読んだりして過ごした。日が暮れてから買い物や熱海港の防波堤で夜釣りを楽しんだ。そうしてるうちに2010年9月6日に奥さんが熱海に帰ってきた。
その後、暑い日には富士山周辺の高原へ行き車の中で涼んだり山中湖、芦ノ湖、河口湖で散歩して、近くのホテルで食事したりして過ごした。今年は11月からロサンゼルスに行ってメキシコクルーズに乗船し看護婦として12月末の頃まで働きに出かけると言った。11月も石津健之助は奥さんと一緒にロサンゼルスから7泊8日のバハカリフォルニア・クルーズへ出かけた。
バハカリフォルニア半島は世界でも有数の大きな半島になっていて冬場に鯨が産卵のためにやってくる、暖かく、きれいな海だ。半島の陸地の砂漠や乾いた高原には特徴的な動物が多く自然保護区として保護され自然豊かな観光地。海から眺める景色や降り注ぐ強烈な太陽の光が特徴的な場所で多くの豪華ホテルや観光施設が林立している。しかし厳しい環境で中高年の人達が日射病になったり脱水症状になったりして体調不要を訴えるケースが多く、そういう時に看護婦の初期治療と寄港地での医療機関への付き添いの仕事が必要になってくる。
そして石津三千子は英語の日常会話には不自由しないだけの語学力を身につけて旅行会社、クルーズ会社でも名が知れてきて仲間が増えて楽しそうに仕事をこなしていた。2010年11月7日から16日のクルーズを終えて奥さんと別れて11月20日に日本に戻ってきた。石津健之助は日本に戻ってきて釣りや麻雀の日々が始まり東京へ出かける日が多くなった。この頃から東京でも高齢者の人口爆発の問題が言われはじめ2025年問題と言う言葉も知られる様になった。
やがて老夫婦が増えて一般的には亭主の方が先に亡くなり、おばあさんだけの独居老人世帯が増えてくると言う。石津健之助も年を取ったら自然豊かな熱海の老人施設に入り余生を暮らしたいと思っているが将来の病気や人生の行方は全くわからず不安だけが募った。やがて奥さんが年末に帰ってきて2011年を迎えた。近くの来宮神社に初詣でに行き今年の夫婦の健康と安全を祈願してきた。
1月中旬に避寒のためにオーストラリアのパースへ6週間滞在する予定で出かけ最初に石津健之助は、郊外のフリーマントルへ行きノースモールという海岸で釣りをして6-8匹ほど釣れるとコンドミニアムに持って帰ってシェフに渡して夕飯のおかずにして冷蔵港に入れて数日、食べたが美味しかった。その後、エギングをして大きなイカを数本、釣ってきて、最初は刺身で、その後は焼いて食べたが、これもうまかった。
しかし町は小さく名所と言われる所を回り終わると、次に、やることがないことに気づいて2週間後、ブリスベンに飛んでゴールドコーストの海辺のコンドミニアムに滞在してサウスポーとと言うエリアで釣りをして、タイを4匹とマナガツオ4匹を釣った。そしてコンドミニアムに持って行き塩焼きにして食べた。その後、列車で1時間半のブリスベンへ行きシーワールドを見てウオーターパークで遊んで夜に帰って来た。その後ゴールドコーストからブリスベンへ行き、そこから列車で丸一日かけてケアンズへ移動した。
ケアンズに到着しパームコーブのコンドミニアムに2週間滞在して釣りや海で泳いで楽しんで3月2日に日本に帰ってきた。その後、今後の事について話し合うと既に60歳になって資産もあるので、何か、我々と同年代の人達に対して福祉事業を始めてみないかと、石津健之助が提案して、具体的に何をしたら良いのかについて熱海の芙蓉会の人達やインターネットなどを調べて見ると話した。
その後、2011年3月11日に東北大震災があり石津夫妻は熱海のマンションで昼食を終え、テレビを見ている時に、大きな地震に襲われた。マンションの外に出るべきか中にいるべきか迷ったが結局、部屋の中から出なかった。地震が収まった3時過ぎ、一度は、電気が切れたが、程なくして、電気がつき、テレビをつけて見ると東北沿岸の津波の映像が入ってきて愕然とした。
仙台空港の映像では空港内に洪水が押し寄せ屋上に全員が避難している様子が移されて家が流されている生々しい映像や気仙沼では、石油コンビナートが大火災を起こしていた。その後も避難している車のが洪水に飲み込まれる映像など信じられない様な悲惨な映像が流れて海津夫妻も食い入るように見いっていた。東京から帰宅する人達の行列が大きな国道を埋め尽くしている映像も流されて呆然と放心状態で夜通しテレビを見ていた。




