2話:医薬品プロパー、秋田への転勤と楽しみ
石津が担当するのは中小病院7件と、開業医13件の合計20件と、大手、医薬品卸5件を訪問することになっていて、会社の独身寮が完備されて、朝7時過ぎに、会社の車、大手、医薬品卸5件を訪問して、エリア担当者と仕事の状況を聞き、必要があれば、訪問要請のある開業医や病院を訪問することになり11時半と12時に開業医を2件訪問して、昼過ぎに中小病院を訪問して、1時半から2時に、駐車場のある、ファミリーレストラン、牛丼、ラーメン屋で食事を取る。
時間があるときには、営業日報の話題をメモして、2時半には、店を出て、3時前に開業医に訪問、午後5時過ぎに患者の少ない中小病院の医局を訪問して、各科の先生からの情収収集の仕事して、その後、外来患者の多い中小病院を訪問して情報収集、次に早めに終わる開業医の訪問と、終わりの遅い開業医を訪問して、営業活動を終えてる。その後、午後7時に営業所に帰り、収集した情報で、特に大事な事や、他の病院、開業医に関係する情報は、営業所長、課長、係長、関係する開業医、病院の担当者に伝える仕事をする。
その後、今日の日報を書き、大きな問題や話題がない場合は20時半に仕事終了で酒好きや麻雀、好きな先輩に誘われると、12時近くまで付き合うことになる。平均して、週に2-3回は、遅くなる場合が多く、医薬品営業プロパーは、激務だ。その分、日当が2千円が出て、更に営業成績によって会社目標を大きく上回るとボーナスの加算が増える。また、営業のキャンペーン競争で全国トップになると、ボーナスと同額程度の報奨金が出て、2位で半分、3位で四半分が加算されるので年収は同年代では、かなり多い。
それに各営業所で必ず、月1回土曜勉強会と称して、自社の医薬品に関連する文献の読み込みや、関連するテストを行うのが常だった。城東営業所では、学術肌の諸山富雄係長が月に2回の勉強会を仕切っていて、若手に講師をさせ、鍛えていた。そうして、3年程度で、担当を交代して、石津健之助も、1975年4月から、国立、都立病院、企業関連大型病院4件担当して、中小病院5件、開業医6件の15件担当となり、月間目標金額も、大幅に増えて、面会する医者の数も倍増した。
そして仲良しの先生や愛宕製薬と親しい先生とのゴルフ、テニス、飲み会の接待が増えてきた。その交際費も若手で年間20万円だったのが、大病院を担当すると年間100万の交際費が与えられる。この接待というものが、実に難しい、ターゲットの先生の、お気に召すレストランでの食事、飲み屋、ゴルフ場、テニス場を把握しておかねばならないし、その先生の喜ぶ事、タブー、仲の良い先生の名前、悪い先生の名前を覚えねばならなく、接待は、はらはら、どきどきの時間を過ごすことになった。
食事の味やゴルフ場、テニスコートの良さなんて感じてる余裕はなく、常に神経を張って、先生の話や行動を全て、覚えて、メモしていなければならなく、実に大変な仕事だった。そのため最初の3回は上司同行接待の場合がの多く、胃潰瘍になる医薬品プロパーが多いのも、うなづける。しかし実際には馬が合う先生を探すことが一番大切だと言うことを知る場合が多く、いかに早く馬が合う先生を1人でも多く探すかによって、その医薬品プロパーの年収、出世が決まると言っても決して過言ではない。
だから、できる医薬品プロパーは、必ず得意技を持ってる場合が多い。例えばゴルフがシングルの腕前、テニスのインストラクターになれる腕前、釣りの名人、パソコンの達人、接待の達人、会話の名人、投資のプロ級の知識など。そして、その自分の特技を磨くため、使う金は惜しまない、成功すれば完全に元が取れて、おつりが来る程の収入が約束されている。もちろん出世競争にも勝てるわけだ。石津健之助の場合は愛想の良さが、一番目の武器で、ハンサムで女医さんの受けが良い。
二番目に、こまめに気が利き、小器用な点。三番目に、その気にさせるのがうまい。これらは、それ程の努力も、お金もかからない。ただ、自分が落とせると思う先生を探すには、営業経験がものを言うので5年以上経つベテラン医薬品プロパーになると、どれだけに早く、自分の落としやすい先生を見つけて、業績を上げるかが、競争に勝つポイント。石津健之助は、愛想の良さと、気が利き、ハンサムと来ているので、女性に人気があり、他の男性よりも良い経験をしていた。
そのため女性に不自由した事がなかった。独身寮にいても休みの日に多くの女性が訪問してくるので、同じ寮でも、うらやましがられた。1972年の最優秀新人賞で100万円の賞金を手にいれ、3年目の1975年には女性が使う皮膚科領域の薬のキャンペーンで全国一でトップ賞150万円を手にした。そして入社5年の1977年に係長に就任し秋田営業所に転勤した。秋田営業所では、月曜日に営業所を出て、金曜日に帰ってくるという、4泊5日の過酷な営業活動をさせられたが、そのハンデを克服した。
というのは1977年当時で出張手当が8千円出て、営業手当と合計して1日1万円の手当が出ていた。営業所では、独身寮を完備して、住居費もかからない。つまり、週に4泊で3万2千円と日当2千円の5日分で1万円の合計4万2千円が、給料とは別に入り、月に20万円近くの手当が給料の他に支給されるのだった。更に、石津健之助は、持ち前の愛想の良さと、気が利き、ハンサムと来ていて、出張先の小料理にファンを作ったり、アパートから通う少し年のいったナースのアパートに転がり込む日が多かった。
女性達がホテルに泊まらせてくれないという幸運を得て1977年当時で通常の年でも年収5百万円を超してキャンペーンで表彰されると7百万円を越える事も珍しくなかった。また、その金額の7割以上を貯金できると言う幸運に恵まれていた。まさに男冥利に尽きる青春時代を送っていた。