19話:加納夫妻の死
2007年3月、加納幸夫さんに前立腺癌が見つかったと言う話を平成芙蓉会の会合の時、石津三千子に加納夫妻が相談に来たが進行の程度がわからないと答えると次回の病院の診察の時に、ついてきて欲しいと言われて断れず石津夫妻でついて行き泌尿器科の先生と加納夫妻と一緒に診察室に入り話を聞くと前立腺癌が大きすぎて手術はできないと言われ女性ホルモン療法で進行を抑えるしかないと言われた。
奥さんが、あと何年、持ちますかと質問すると何年とは言い難いけれど奥さんが10年と聞くと、それは厳しいと言い5年ですかと聞くと、それ位と考えた方が良いと答えた。後は転移しない様に願うしかないと言った。釣りは続けて良いですかと聞くと身体がきつくなければ何をしても良いと言い薬を欠かさずに使って下さいと言うだけだった。診察を終えて出て来て石津三千子は何も言えずに黙っていると、奥さんがたまらず、今度どうやって生きていったら良いのでしょうかと聞いた。
今まで通りに、できるだけ人生を楽しむしかないし現在ひどい症状があるわけではないのだから、趣味や小旅行も、できますと言った。釣りも良いのですかねと聞くと先生も言われたように基本的に身体がきつくなければ制限はないと言ったとおりに人生を楽しむしかないのではと助言した。その話を聞いて加納幸夫さんはカラマラン・クルーザーに乗って近くの海を走ったり釣りをしていくと話した。奥さんが私たちには子供もいないし故郷と遠く離れて親しい親類が1人もいませんので気は楽ですが余命5年と言われて動揺していますと言い泣いた。それは当然ですと言い肩を抱いた。
残された自分達の人生を精一杯、楽しんで生きる事を心がけるべきでしょうと励ました。加納幸夫さんは吹っ切れたよ様に石津健之助に、また、いっぱい大きな魚を釣って刺身、塩焼き、煮付けにして食べましょうねと言い肩をたたくと石津健之助の目に涙があふれ、流れ落ちた。その後、石津健之助は気を取り直し加納幸夫さんの手をしっかり握り、精一杯、楽しんで生きようというと2組の夫婦が涙を流しながら、がっちりと握手を交わした。
その後、2週に1回程度、釣りに同行するようになり釣ってきた魚を石津健之助がさばいて石津、加納夫妻の4人で食べて楽しんだ。そして、ある日、加納さんが石津健之助に一級小型船舶操縦士の免許を取れよと言い、俺が死んだら、君に、この船を任せるから外洋までいけるように是非、取ってくれと頼まれた。その話を聞いて、わかりました一級小型船舶操縦士の免許を取りますと言った。その後、参考書を買いに行こうと言い小田原の大きな本屋で参考書を買い勉強を初めた。
2007年4月、ヤマハの教室に入りカラマラン・クルーザーヨットの運転を習い始め、2回目の実技試験、10月、念願の一級小型船舶の免許を取った。その晩は加納幸夫さんと石津健之助は加納さんのマンションで祝賀会を開き、いつになくビールを飲んで喜んだ。為替では2007年になり豪ドルが急上昇し、2007年10月2日に1豪ドル107円になり200万豪ドルが年利6%で7年で50%の利子がついて300万豪ドルになり1豪ドル107で両替して3億2千万円となり税引き後利益1.6億円となり残金2.2億円と合計して3.8億円となった。
その後、2007年11月になり、寒いか風が吹き始めた頃、加納幸夫さんが、咳き込む様になったのを奥さんが気づいて石津夫妻と一緒に小田原市立病院の泌尿器科を受診すると、すぐに呼吸器内科に連絡し診察を依頼しレントゲン、CT検査をすると癌が肺に転移している事がわかった。前立腺からの転移である事と、78歳と高齢であり抗がん剤の治療は難しいと言われ、加納夫妻も、その意見に同意し自宅で療養する方が良いと言われ、症状がひどくなったら入院する事にした。
その後、石津夫妻が頻繁に顔を出した。12月22日、ひどい咳で苦しんでると電話があり行くと喀血して救急車を呼んで小田原市立病院に入院した。その後、症状が落ち着き2008年となった。1月の暖かい日、急に元気になり、ひなたぼっこしていた。しかし翌週、体調が急変、呼吸困難を起こしICUに入院、3日後の2008年1月21日に帰らぬ人となった。最後の時、奥さんと石津夫妻が立ち会っている時に加納幸夫さんが石津健之助を呼んで奥さんとカラマラン・クルーザーを頼むと言い息を引き取った。
奥さんは取り乱したが先生からご臨終ですと言われ、我に返り現実を認めようと努力したが、やはり号泣して、石津三千子に抱き付いた。数日後、平成芙蓉会の仲間とマンションの友人達、30名が参列し告別式を行い、お別れした。葬式を終了時、加納和美さんが石津三千子に、もし私に何かあったら部屋の奥のタンスの真ん中の引出を見て下さいと言ったので縁起でもない事を言うものではないですよ、しっかり生きて行きましょうと励ました。
葬式を過ぎると加納和美さんは食事を足らなくなり元気がなくなったので毎日、石津三千子が部屋をたずねて食べ物と飲み物を手の届く所に置いて帰るようになった。その後3月の小春日和の日に散歩に出かけた加納和美さんが帰ってこないのを不信に思い消防署と警察に電話をして調べると加納和美さんが車にはねられ熱海の病院に運ばれたと知らされた。石津健之助が車で病院に着くと既に息絶えていた。病院に着くと、お知り合いの方ですかと聞かれ、そうですと言うと警察へ行って欲しいと言われた。
警察に行くと加害者と思われる40歳代の男性と警察官が話していた。石津夫妻が警察に着くと親戚か、お知り合いですかと聞くので知り合いですと言うと、この方の肉親の方は近くおられますかと聞くので、いないと答えると仕方ない、それでは話をしますと言った。警察官が事故の話を始め運転手さんが言うには前方を注意しながら、いつもの通りに運転していて下りの急カーブにさしかかった時、歩道を歩いていた高齢の女性が急に道の方に倒れたかと思った瞬間には前輪でひいてしまい衝撃があった。
そこで、すぐに車を止めたが頭をひいた様で顔面、血だらけで倒れていた。そこで、すぐに110番に電話したと話した。警察官が近くを歩いていた人に聞いても、その女性が倒れた様に見えたと証言したので過失とは言えないと困り顔だった。どうしますかと石津夫妻に聞くので警察の方の判断に従いますと伝えた。