十一話 野花、おちた (リディア)
突然聞こえてきた悲鳴に、私は校舎の中に入ろうとしていた足を止めた。
「誰か教官を呼んできて!」
「まずいぞ、ケンカだ!」
ざわめきが、私の所まで届く。
ルイと、ロラン、二つの名前が耳に入った瞬間、私の足は逆戻りしていた。
――遠巻きに見ている生徒達。その中心には、異様な様子のルイがいる。
なにかに馬乗りになって、腕を振り下ろしていた。
目をこらした私は、その『何か』に気付いて、青ざめた。
無抵抗で、ルイに殴られているのが、誰なのか理解すると同時に、私の体はルイの方に向かって走り出していて……。
「何してるのよ、ルイ!」
振り上げられた、その腕にしがみついた。
「――はぁ? ……チッ! うるさいな、引っ込んでろ!」
「出来るわけ無いでしょう! 無抵抗の相手に、何をしているの!」
「……リディア嬢、危ないよ、下がってて」
私を案じる、掠れた声がルイの下から聞こえる。
「ロラン様……!」
なんて事だろう。
ロラン様の、端正な顔はルイに殴られたせいで腫れていて、鼻血まで出ている。
とても争い事に向いているとは思えない、常の彼を思い出した私は、ここまで傷つけたルイを睨んでしまった。
「どいてよ! 今すぐ、ロラン様からどいて!」
不快そうだったルイは、初めて表情を変えた。
驚いたような目で、私を見ている。
いつもだったら、喜んだかもしれない。
ルイから、不快以外の表情を引き出せたと、関係改善の光が見えたと、はしゃいだかもしれない。
(嬉しくない。何も嬉しくない。こんなの、全然嬉しくないわ!)
理不尽な暴力をふるっておいて、恥じるどころかなおも手を上げようとした。
私が止めたときも、不愉快そうに鼻を鳴らしただけで、反省する素振りすら無い。
「はやく、どいてったら!」
「……なんだお前、こんな顔だけの男に、惚れたのか?」
「っ……!」
ルイは、何を言っているのだろう。
私は一瞬頭の中が真っ白になった。
ルイの言っている事が、理解できなかった。
この人は、この状況で、なぜこんなにも馬鹿げたことを得意げな顔で言っているのだろう。
「構われて、うぬぼれたか? 自分もすてたものじゃ無いって? 残念だったな、この軟弱な男は、女なら誰だって良いんだ。お前は遊ばれているだけなんだよ!」
「――どきなさい!」
こんなにも強い口調でルイに言い返したのは、もしかしたら初めてかもしれない。
ルイに、これだけ怒りを覚えたのも、初めてだ。
あの時だって、ルイにはもどかしさを覚えただけで、怒りはわかなかったのに。
――子供の頃、まだ関係も良好で、私は初恋の相手であるルイとの婚約にのぼせ上がっていた時、ルイを金目当ての卑しい犬だと馬鹿にされた事がある。
言い返して、叩かれて、それでもルイを馬鹿にされたことが悔しくてくってかかったあの時、かけつけたルイは、自分を馬鹿にした女の子の嘘泣きを見て私を責めた。
この一件から、ルイは私を拒絶するようになった。酷い言葉をぶつけてくるようになった。彼がその女の子を好きだったと、後から知った。だからかもしれない、悲しいという気持ちの方が強かった。
だから、私は今まで、ここまで正面切って、ルイに歯向かった事が無いのだ。
ルイの目が、剣呑に細められる。
余計に嫌われるかもしれない。周りは私を、でしゃばりな勘違い女だと噂するかもしれない。
怖かった。色々なものが、怖かった。
本当なら、逃げ出したい。
でも、彼を置いていきたくなかった。
(分かってるのよ、気まぐれだって。ロラン様の優しさは、ゲームだからだって。分かってるわ、全部嘘だって。でも、私はその嘘に助けられたんだもの……!)
嘘だとしても、ロラン様が向けてくれた優しさは、私の心を救ってくれた。
その恩人を、見捨てていくなんて出来ない。
「…………ブスが、出しゃばるな。勘違い女、気持ち悪い」
立ち上がったルイが、私の方へ一歩踏み出した。
今まで向けられてきた中で、一番冷たい目だ。
「……お前は本当に、気持ち悪いよ」
底冷えするような声を私に突き刺すと、ルイは振り返りもせず校舎の方へと歩いて行った。
罪悪感なんて、欠片も見えない態度で。
「ロラン様、大丈夫ですか!」
最後まで見送らず、私はルイが離れてすぐロラン様に駆け寄った。
「いてて……。うへぇ、口の中切れてる……」
もっと、こう、怯えたりしているのかと思ったけれど、起き上がったロラン様は飄々としていた。
ぐしぐしと、制服の袖口で鼻血を拭ってる様は、ケンカ慣れしている風にも見える。
なんて言うか、普段の貴公子然とした態度とはまるで違って、男らしい。
「これ、使って下さい!」
何故見とれていたんだと、私は自分を叱咤して首を左右にふる。
そして、慌ててハンカチを差し出した。
「……え? いいよ、汚れるだろう?」
以前、この人から差し出されたハンカチを、使わなかったことを思い出す。
その仕返し、という訳ではないとは分かっている。それなのに、どうして私はさみしいなんて思うのか。
「騒がせて、悪かったね」
「いいえ、あの、せめて医務室に……」
「そうしようかな」
立ち上がったロラン様は、やっぱりちょっと足下がふらついていた。
「肩につかまって下さい、医務室までついて行きますから」
「……そんな、悪いよ」
困った顔で笑うロラン様。
こんな時まで笑わなくてもいいのに、こんな時くらい頼ってもいいのに、彼は私を頼ろうとしない。
「ぼっ……、ロラン様ぁっ!」
私が歯がゆく思っていると、遠巻きにしていたせいとの中から女子生徒が一人飛び出してきた。
「大丈夫ですか、ロラン様っ! アタシ、もう心配で心配で! あぁっ、自慢のお顔が酷いことにっ!」
すらりとした長身の女子生徒だった。
艶やかな長い髪と、赤い唇が印象的な……、色香のある美女は、私を押しのけるとロラン様の肩を支える。
「……ジャスミンか、面倒なのに見つかった」
「もう! ひねくれたこと言うのは、このお口ですか? ……本当に痛そうですね、早く医務室に行きましょう」
笑顔を消したロラン様を茶化しながらも、その人の目はとても心配そうにロラン様を見ている。
私なんて目が入っていないようだった。
「……あ、リディア嬢……、僕は大丈夫だから、君は心配しないで授業に出てくれ。……ルイとのあれは、よくある男同士の殴り合いだから」
多分、痛いのを我慢して笑ってくれたんだろう。
優しい声だった。
でも、拒絶されている。
「リディアさんよね? ケンカに巻き込まれて、怖かったでしょう? もう、行っても良いわよ」
突然やってきた彼女は、立ち尽くしているだけの私を振り返り、そう説明してくれた。
口調は優しかったけれど、少しの時間すら惜しいと思っているのがうかがえる、おざなりな説明だった。
「あの、私も……!」
「――ロラン様には、アタシがちゃんと付き添うから……ね?」
言いたいことだけ口にして、彼女はロラン様と寄り添うようにして行ってしまう。
ロラン様は怪我人なんだから、肩を貸すのは当たり前の事なのに……、寄り添っているなんて考えてしまう自分が嫌だった。
私はついて行くことを、許されなかったんだと考えてしまうのが、嫌だった。
「…………」
徐々に、人が散り始める。私ものろのろ足を動かして、もう一度校舎に向かう。
鼻の奥がツンとして、目が熱いのは、気のせいだと思いたかった。
でも、ぽたりと地面にしずくが落ちて、私は慌てて茂みの中に飛び込んだ。
人目を避けるように、丸くなる。
(私、馬鹿だわ)
ルイが好きだった。
こじれてしまったルイとの関係を、なんとか改善したかった。
二人の結婚を望む親を、失望させたくなかった。
……だから、私は、ルイを好きでいなければいけなかったのに。
(最低なのに――最低の遊びを、暇つぶしのためだけに始める人なのに……!)
自覚なんてしなければよかった。
距離を取られて、それでようやく自覚するなんて、自分はなんて鈍い人間だろうかと後悔する。
(私、負けちゃった……)
三ヶ月限定の恋愛ゲーム。
寄り添って医務室に向かう、美男美女の姿を思い返した。私は、自分が敗者になった事を知った。