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君の声

 遠くで人のざわめきが聞こえた。

 

 救急車だ。とりあえず応急処置だ。車の男の方はどうだ。

 歩道は温かかった。今日はいい天気だから太陽に暖められたんだろう。行き交う人たちの靴の裏から温もりが伝わるのかもしれない。歩道の上に寝そべった事なんてないから知らなかった。

 深涙くんのおむつ、届けなきゃ。ティッシュが安かったからそれも買ったんだ。

 

 深涙(ふかる)くんは今頃何してるだろう。7ヶ月でつかまり立ちするくらいだけど、夏菜さんの奥に置いたベビーベッドでお昼寝でもしてるんだろうか。夏菜さんは深涙くんの夜泣きに手を焼いて、最近すごく疲れて見える。一緒にお昼寝してたらいいなと思った。

 居眠り運転の車が突っ込んできた時、僕は横断歩道の信号待ちをしていた。

薄れゆく意識の中で、僕は記憶の中を泳いでいた。

 


 数学は苦手だ。眼鏡をかけているばかりに「インテリ」のイメージを持たれ、やがて「感情の起伏が薄い説」が浮上し、人を慮る事よりただ機械的に解を導き出す数学の方が得意だと思われている。そうじゃない。たとえ基礎中の基礎でも因数分解ですら危ういのだ。 

 

 数学の宿題だけ後回しにしたのがいけなかった。夕飯を食べ、ひと休みし、ドラマを見終える頃にはやる気が出るだろうと思っていたら、夢の世界に容易くいざなわれてしまった。こうして学校のベンチに1人、昼休みに座って数学と対峙していると孤独感が押し寄せ、学校生活とは果たしてちゃんと将来のいしずえになるんだろうかと不安になる。

 今日が暖かくて良かった。太陽の光で中庭が明るく見えるし、座面も温かい。それでも数学を倒せる自信は出て来ない。


「Milってさ、多野っていう名前なんだって」

 どこからか声が聞こえてきた。くすぐったくなるほど「甘えんぼ」な歌詞の多いアーティストで、人気だと知りながらあまり聴く気にはなれなかった。少し大人びてきたせいか、最近では曲調が変わり始め、ポツポツ、僕にも聴けそうな曲が増えてきた。

「Milで検索したらサブキーワードに多野っていうのがあって、何だろうと思ったら本名みたい」

「あっ」 と女子の1人が声を出した。

 新入生にはいなかったはずだし、多分先輩だろう。僕を見つけた途端、そこで2人して立ち止まった。

「先輩たち使いますか? 今、退きますんで」

「宿題? あぁ…いいよいいよ。別の所行くから。宿題頑張れ」

 語尾の上がった「頑張れ」が可愛いなと思いながら、「ありがとうございます」と答えた。

「これあげる」 

 先輩が去り際に振り返るその手から、ビスケット入りのチロルチョコが投げられた。「甘い物は元気出るからね」と。



「井口 めぐむさんですよね?」

 学生服の生徒ばかりいる中で、1人だけ白いパーカーを着た男の人がいた。規則だから仕方なく着てるけど僕は上着を脱ぎたくて仕方ないのに、パーカーなんて暑くないのかなと思った。


「誰ですか?」

 それが38年後の僕たちの子供だった。稲垣夏菜という名前はその時知らなかったし、チロルチョコの先輩だとさえ思ってなかったから、初めて聞く名前だった。僕がそう遠くない頃に死に、その後30年も僕を想ってくれる女性がいると聞いた時は嬉しかった。

 


「実用英語技能検定準1級 合格者 3年 稲垣夏菜」

 夏休み前最後の日には全校集会があった。沢山の思い出を作るように。でも休み中に羽目を外し過ぎないように。海やプール、山のルールを守るように校長先生に訓話された後で、様々な能力検定で優秀な成績を収めた生徒に授与される。その中に君の名前があった。

 無関心に授与式が終わるのを待っていた僕の耳に飛び込んできたその名前に、慌てて目を舞台の上に向けた。それが夏菜さん、君だった。



 これが、僕が死んで30年経ってもずっと愛してくれる女性だと思うと嬉しかった。それと同時に何でなんだろうと悔しくなる。唇に感じる痛みに噛んでいたんだと気付く。

 オープンカフェで長く過ごすには少し暑すぎる。でも今の僕にはこのくらいの熱に浮かされた方が良い。高鳴る胸の鼓動を全身で感じるほどの緊張が僕を包んでいる。

「どうしたの?」

 もう彼女とは長くはいられない。だけど今から告白しようと思う。

 結婚さえしなければ、夏菜さんに僕の死を悲しませる事はない。

 でもその後にあるはずの30年がなくなる。深涙ふかるくんが生まれ、僕を想いながら生きてゆく夏菜さんの30年。深涙くんの笑顔、今より筆圧が弱くなったものの、代わりにキレイになった夏菜さんの文字、何度読んでも伝わってくる僕への揺るぎない愛情も。

 高校時代ショートボブだった彼女は、卒業後から伸ばし始めた。肩の前に垂れるその髪を僕は見た。

「結婚しよう」 夏菜さんへ向けて指輪のケースを開いた。

 夏菜さんは瞬間目を大きくし、すぐに目を細めた。

「頼む」

 夏菜さんは優しいから僕が不安げにすればその裏を見ようとしてしまう。だから不安でいっぱいの時も強気な言葉で伝えてきた。僕たちの時間はもう少ない。でもこれだけは言える。

「幸せになれるよ」 深涙くんが届けてくれた通り。

 夏菜さんが指輪のケースを引き寄せた。

「いつ言ってくれるか、ずっと待ってたのに全然気付いてくれないんだもん」

 いいよ、と夏菜さんは笑った。


 1度は涙に替え悲しませる、その笑顔に30年後の夏菜さんを想像してみた。深涙くんは容姿については教えてくれなかったけど、きっと優しい笑顔だけは変わっていないはずだった。



「赤ちゃん出来たみたい」

 そう告白された時一気に涙が出た。これで未来が繋がった。そう思った。たとえそれが叶わなくても別の未来があったのかもしれない。それでも僕は深涙くんを2年見てきたし。30年分の夏菜さんの気持ちを痛いほど感じてきた。呪詛のかわり「ごめんね、ごめんね」と思いながら。

「赤ちゃんの名前、女の子だったら“もみじ”にしようと思うだけど、どうかな?」

「なんで?」と訊けば、「だって私たちが出会った日に慈くんが見てたから。私たちの始まり」と答える。

 あの公園は今では遠くになってしまったけれど、久しぶりにデートに良いかな。

「あの公園か。懐かしいな。お腹が大きくなる前にドライブ行こうか」

 もう会えないけど、30歳の深涙くんが目の奥に映っていた。

「もし…お腹の子が、男の子だったら“ふかる”くんってどうだろう」

 どうやって書くの? と訊く夏菜さんに電話の前に置いたメモで深涙と書いてみせる。

「慈くんが泣き虫だから?」

 もう、といじけてみた。

「違うよ。涙ってね。温かい感情から生まれると思うんだよ。人の事を考えてあげられるようにと願って」

 涙は温かいかぁ。考えた事なかったな。夏菜さんは快諾してくれた。



 遠くで、夏菜さんが呼ぶ声がした。パソコンに我を忘れている僕に「ご飯だよ」とあきれながら言う声とは違う、必死の声。

 そっか、事故に遭ったんだっけ。そう思い直す。

 でも声は出なかった。出せなかった。

「慈くん、めぐむくんっ」

 泣きじゃくりながら、僕を眠りから醒まそうとしている。起きてるよ。そう言ってあげたいけど、声が出ない。そうか、やっぱり死ぬのか。公園で出会った日の夏菜さんが揺れた。



 駅の近くだと聞いたからとりあえず駅まで出てみた。紅葉を見に行くのはいつぶりだろう。第一、夏菜さんがあれほど紅葉、紅葉と言わなければ僕は好き好んで公園まで見に来る事はなかっただろう。

「どこかで紅葉が見られる所ある?」

 そう訊ねる僕に、母は怪訝そうな顔をして、駅前の公園で見れるでしょ、と当然のように言われてしまった。


 学校帰りの時間帯だからかもしれないが、公園は駅側からではなく、反対の入り口から、まるでそちらが正しい順路であるかのように、こちらへ向かって来る人が多かった。流れに逆らって進むのも何だったので、道をそれ、極力毛虫のいなさそうな木を探し、近くまで行く事にした。

未来の夏菜さんには病院の後輩に紅葉という名前の子がいて、これが可愛いらしい。「やっぱり女の子にもみじと名付けたかった」と書いてきたところを見ると、少なくとも夏菜さんに女の子はいないらしい。未来の夏菜さんは紅葉が好きなのかな、と思うと自然を頬が緩んだ。

何か気配がしたから振り返ってみた。夏休み前の最後の日、体育館の舞台に呼ばれたその人が立っていた。


「こんにちは。あなたも紅葉を見に?」

 てっきりそう思ったけど、夏菜さんは帰り道だからと言った。

「僕は井口と言います。井口 (めぐむ)。慈愛のジと書いてめぐむ」

「稲垣です。稲垣夏菜。夏の菜っ葉です」

やっと2人で話せた事が嬉しくて、やっと出会えた事が嬉しくて

「また会えますよね」 ついそう訊ねていた。

このままでは、抱きついたりして高まってしまった感情を吐露してしまう。

「帰り道という事は電車ですよね。時間大丈夫ですか?」

 そう訊ね、感情を堪えた。

「1本や2本、遅れても大丈夫」

良かった。でも僕もそろそろ帰らなきゃ。そう言って、荷物を取った。


「また会えますよね」 今度は夏菜さんが訊ねた。

 やっぱり僕たちはまた出会えるみたいだ。

「えぇ。また会えると思います」 僕もそう答えた。


   完





発想のきっかけになったものはいくつかあります。辻村深月 サクラ咲く第1話「約束の場所、約束の時間」、ロバート・F・ヤング 「たんぽぽ娘」、Kinki Kids 「薄荷キャンディ・MV(ドラマver)」など。Kinkiさんは影響大きいです。

 実をいうと、第3話の結末に予定通りにするか、もっとハッピーエンドにするかで悩んでいました。第2話で十分まとまってるかなと筆が進まなかったのですが、予定通りにしました。恋愛ストーリーとはちょっと違いますが、気に入って頂けると嬉しいです。

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