猫の子どこの子 1
○
十月三日。
この日から三日間に渡り十志英才学園では、
全校生徒を対象にしたメディックファーストエイドを取り入れた
救急スキルの講習が催される。
今日はその一年生の対象日。
実習室と技術室に一クラスずつ集まり、
それを一時限ごとに入れ替えていくながれで
日ごとに一年生、二年生、三年生と進めて講習を受けていく。
我らが有沢さんは一年生なので、本日この講習を受けることになっている。
平時の授業内容に対して特別な科目が組み込まれる形になるので、
本日の時間割は各学年ともに特別態勢である。
十志の授業には (他の学校でもままあることではあるが)
こうした臨時的な変更がなされることが年に何度かある。
四時限目、技術室。
トモは部屋奥の機材に囲まれる席に座って、救命救急講習を受けていた。
十月に入り十志も制服の衣替えの時期になっていた。
半月以内に冬服のブレザーに切り替えればよいということで、
生徒のなかには夏服の者も多々混じっている。
かくいうトモもまだ夏服のブラウスにセーター姿だ。
講習の内容は止血法や人工呼吸、
それにともなう心肺蘇生法、
AEDのスキルまでをプロジェクタの映像と、今日のために学校を訪れている指導員の実演を交えて進んでいく。
人工呼吸に対して小さな子供のように茶化すこともなく、
生徒たちはまじめに講習に取り組んでいた。
ここで一見して真面目な顔で、七面倒な諸々の手順に聞き入っているトモをクローズアップしてみよう。
……有沢さん、普段のゆるそうな顔もせずに授業を受けておりますね。
意外であります。
しかしトモは意外にもというか、驚くなかれ。
普段の授業態度は割とまじめな方な生徒なのだ。
実際小学校の低学年の頃以来、教師に注意されたことというのはほとんどなく、
問題も特に起こさないために教師受けの良い生徒といえた。
その点で言うと、日頃まじめなトモが
いざテストになると合格点を取れないこともあるのを心配してくれる教師もいたりする。
猫をかぶっているという訳でもないが、
真実を知る者達からすれば見事に教師陣を騙すことに成功しているトモ。
カオリに言わせれば、できれば普段からテストでいい点もとって、
真実から良い生徒になれば、という感じだ。
そこはそれ。
人間というのは自他ともに、想うようにばかり行っていれば世話は無い。
しかし根が高度精密機械として機能しないトモの脳髄である。
専門用語と略語の飛び交う一時間近い講習を終える頃になってみると、
頭はスポンジ状態だった。
「あー、トモが干からびてるー。
干物だ、干物だー! これは酒の肴にもってこいだわ」
講習が終わり解散となった生徒たちの中で、
机に突っ伏してぐったりしているトモに声をかけたのは
川島ハル (十六歳)。
トモの同級生にして小学部からの友人だ。
隣には同じく夏実アヤ (十五歳)。
「トモ、大丈夫?
さすがに小難しい内容の疲れる授業だったけど、
頭から煙ださなくてもいいんじゃない?」 とアヤ。
「にゅうぅぅっ アヤちゃん、ハルちゃんー、
私はもう駄目です。
ここは私にまかせて早く……、早く先に進んでっ
そ、そして……あの宿敵を、
私のかわりに必ず、討って……!
ぐふっ」
顔を伏せて右腕を必死に伸ばし、トモは絶命した。
その訴えにアヤとハルは視線を交わして溜息をもらす。
「はいはい、あんたの意志は私たちがしかと受け取ったよー」
ハルがトモの頭に 「ぺしり」 とノートを叩きつけた。
「あの宿敵って、次はトモの大好きな昼ごはんの時間だよ。
敵と戦うのもいいけど、ならしっかりお腹を満たさないとだねー。
ほら、教室いこうトモ」
アヤがトモの腕を掴んで椅子から立たせようとしてくれる。
だがトモは彼女のセリフに、伏せていた顔を勢いよく起こす。
その瞳が飢えた野獣のように貪欲な色に煌めき、口元にはよだれがぬらぬらと光っていたのに女子友二人はビクリとした。
というか、こんな女子高生とはお近づきになりたくない感が……。
「うにゅ! お昼ごはん! お弁当!
アイムリターンイントゥファイヤ!
イッツアフェニックストモ!
バァァードッ ゴー!
なんだよ――っ!」
そう叫ぶとトモは勢いよく片腕を振り上げて立ち上がる。
食い物が絡むと人が違ってくるのだから、
解かりやすいというか、難儀な娘というかである。
さておき。
トモが立ち上がったその時にセーターの端が机に引っかかったのだが、
彼女は気にせずアヤとハルの手をとると、
グイグイと引っ張って猛然と技術室を出ていった。
この日の授業も全てこなして放課後。
「トモ、あんたセーターの裾がほつれてるよ。
どうしたのそれ? 一体いつからそんなになってたの、もう」
そう声を掛けてきたのはハルだった。
帰宅下校の前にトモはハルと一緒に掃除当番で作業に取り掛かるところで、
ハルがその異常に気づいて指摘してきたのだ。
「にゅ?
……うわっ! 本当だ。なにこれ、いつのまに⁉
……ハッ
これはついに組織の手の者が動き出したのか!」
大げさに驚いてみせるトモの反応に、
額に手を当てて友達としての優しさを見せるハル。
「組織の陰謀にしては規模が大人しいわ。
これは前哨戦ね、きっと」
とノリを合わせてみたものの、
その寒さに咳払いを一つ。
表情を変えずにトモに向き直る。
「……っていうかいつからか知らないけれど、ずっと気づいてなかったのね。
何というか、トモらしいわ。
どうする、セーター脱いでおく?」
そう訊いてくるハルの言葉に、しかし沈黙でもって応えるトモ。
訝しんで彼女の顔を覗き込むハル。だが、
「どうしたの? トモ」
ハルの問いに、しかしトモはいまにも溢れてきそうなほどに目に涙をためて、
泣き出しそうに顔を歪めていた。
「……どうしよう……ハルちゃん……、
私の猫バッジがなくなってるようぅ……、
ふにゅうぅぅ」
しおしおとガスが抜ける風船のように膝からくずおれるトモ。
ハルは慌てて彼女の肩に手を伸ばした。
もはやしゃくりあげるように泣き出してしまったトモの肩は繰り返し上下する。
「……ちょっとトモ、しっかりして。
猫バッジってあんたがいつも着けてるあれだよね?
ないの?」
ハルの目を見つめて、あふれる涙を手で拭いながら
トモはなんとか答えようとする。なおも涙は勢いを増す。
「うにゅううぅぅう………、
ないんだよう……っ」
ハルは一瞬考えるように間が開いたが、
すぐさま表情をやわらげるとトモに告げる。
「トモ、大丈夫だから落ち着いてね。
こういうときは取り乱しちゃいけないんだよ。
冷静に自分の記憶をたどってみれば、
案外失くした場所を特定できて、すぐ見つかるものなんだからね」
普段はおふざけが過ぎるトモの狼狽ぶりに、
事態が思ったよりも彼女にとって大ごとであると判断するハル。
「ほら、トモ泣かないで。
そうだね、まずは息を吸って、吐いての深呼吸をしよう。
大丈夫、きっと見つかるから。
私も一緒に探してあげるから、まずは落ち着こう。
ね?」
泣きじゃくるトモの背中を撫でてやりながら立たせると、
「はい吸ってー、吐いてー」 と深呼吸をさせる。
ここで素直に指示に従うあたりは、トモの歪んでいない処なのだが、
それ以上にトモが何かに縋り付きたい思いだったのかもしれない。
五度繰り返すうちに咽び泣きも少しはおさまって、
涙の代わりに鼻水が流れ出てきた。
さすがにその事態の女子的デンジャラス度を弁えていたのだろう、
小動物のように手をばたつかせるトモ。
「鼻かんでね、トモ。はいティッシュ」
びぃーむッ と盛大に鼻をかんで、
ふぃーっと息をつくトモ。
どこかおっさン臭い女子高生である、
とは口が裂けても言えない。
心配そうなハルの目と自分の目が合ったので、
トモは何とか笑おうとしてみるが無理だった。
「トモ、大丈夫? 少しは落ち着いた?」
「うう……、
ありがとハルちゃん……、グスッ」
「……うん、
じゃあ少し考えてみようか」
とハルは教室の戸を閉めてきた。
邪魔が入らないようにだろう。
そして教壇に立つとチョークで黒板に板書していく。
「まず、いつどこで失くしたかのか。
その可能性を想定して、絞り込んで、限定してみようね。
トモ、いつの時点までは確かにそれがあった、っていう記憶はない?」
「……にゅう……、
そうだね、う――んと……」
腕を組んで目をつむり、首をかしげて記憶をたどってみるトモ。
記憶を冷静に辿ってみるくらいには動転から立ち直ったのか、
しばらく考えて思いついたように目を開いた。
「そうだ、四時限目、救急講習の前にお手洗いに行ったときにはあったよ。
まだセーターに着いてた!
出るときに鏡に映っていたのを憶えてるよ」
「となると四時限目以降に行った場所で紛失した線が強い、と。
救急講習のあとは昼食。
その後はこの教室で授業だね。
トモ、どこか教室以外に行った場所は?」
「ん――っ お手洗いに二回行っただけだよ」
「ふむ。これで失くした場所も限られてくるわね。
可能性としてこの一年八組の教室か、トモが入ったトイレ。
そして救急講習のあった技術室ね。
ここを探して見つかれば話は早いわね」
そこで一旦、ハルは周囲の様子をぐるりと首を回して見回してみた。
「さしあたってはこの教室を掃除がてら探してみよう。
それでなかったら残りの箇所を当たってみる、だね」
黒板の文字を叩いて最後に
「大丈夫、きっと見つかるよ」
とハルは微笑んだ。
「……ううっ
ハルちゃん、すごく頼もしいです。
お姉さまと呼ばせてください~」
途端に微笑が苦笑いになるハルだった。
百合百合するのは苦手らしい。
というか妹属性はリアルに姉妹のいるハルにしてみると、多少面倒なモノであった。
「あはは……、
それじゃあ今は掃除中だから、これさっさと済ませちゃおう。
他の箇所も掃除をしているのなら、もし紛失物が出てきたらすぐに聞けるだろうからね」
「うにゅう。そうだね、うん」
しかし教室を見て、その後他の聞いて回った場所でも、
トモの猫バッジは見つからなかった。
「ううん……、
落し物として見つけられていないっていうのはなぁ。
まだ技術室やお手洗いのどこかに見つけられずにあるのか、もしくはそこに後から入った人が見つけて持っていってしまったのか……、
あるいはその後誰かの手で処分されちゃったか」
自分の口にしたことに、はっと気が付いて、
ハルは手を合わせてトモを見る。
「……あ、ごめんトモ、あんたの大事な物なのに、
捨てる人なんていたら嫌だよね。
それに簡単に見つかるみたいなこと言ったのに、
ほんとゴメン!」
ハルの探し物が見つからないことも含めた謝罪に、
トモは必死に頭を横に振って返す。
「うにゅうっ
ハルちゃんは悪くないよう、謝らないでね。
ハルちゃん、可能性のありそうな場所はわかったから、
後は自分で探してみるよ。
ありがとう」
「トモ……」
「ハルちゃんは部活に行ってね。
ラクロス部、休んじゃ駄目だよ」
しかしハルはトモの手をとって力をこめて言った。
「でもトモ、あれ大切な物なんでしょう?
あんたと小学校から一緒だけど、
あんたずっと毎日、どこかにあれを身に着けてたんじゃない?
そんな者が失くなったら私だって悲しいよ!
悲しくって、困って、泣いちゃうよ!
だから放っておけない!」
「……ハルちゃん………」
また泣き出しそうになってしまうトモの頭をぽんぽんと叩くハル。
「一緒に探そう、トモ。
そもそも最初に一緒に探してあげるって言ったじゃない。友達でしょ!
部活には一度連絡入れてくるから、そしたら二人でレッツ捜索だ!
いいね、トモ。泣かないの」
「うにゅうぅぅ………。
ありがと、ハルちゃん……」
午後六時一五分。
学校玄関口から出て校門に歩いて行く部活あがりの生徒が数多く見られる下校時間。
トモとハルも下駄箱のローファーに手を伸ばしていた。
「ごめん、トモ、結局見つけられなかった。
本当にごめんね!」
ハルが顔の前で手を合わせて頭を下げてきた。
それを遣る瀬無い思いで見つめたトモは、力ないながらも笑顔を作って返した。
「にゅ。いいよ、ハルちゃんのせいじゃないし。
……ほんと、謝らないでね」
ハルが部活動に休みの連絡をとってきた後、
まずは職員室で紛失物と落し物の届けをチェックさせてもらった。
そのうえでなかったので、トモが入ったというトイレに行ってくまなく探してみた。
ここでは誤って下水に落ちていないことを祈るばかりであったが、探せるところは全て見た。
それから技術室に理由を説明して入室許可を貰うと、
この教室も一通り探してみたのだが、ここにもなかった。
技術室の掃除をした生徒に話を訊いてみたいところだったが、
既に下校したようで、
次に廃棄物に混じっていないかと焼却炉の中を掻き出して見てみたが、
目当ての物は見つからなかった。
そうこうしているうちに下校のチャイムが鳴ってしまったので、
職員室で教員にこういうものが見つかったらとっておいてください
と言伝ると、今日は仕方なく帰ることにした二人だった。
その日二人は久しぶりに一緒に下校した。
その道すがら、ハルはトモにあのバッジがどういったものなのかを訊いてみた。
「うにゅー、あれはね、
十志の小学校に入ったときにカオリ先輩とリョウくんがね、
お祝いにくれたんだよ。
三人そろった猫バッジ」
「紺谷先輩と木村先輩だね。
私も知っているけど、
そっか、入学前からの付き合いだってことだね」
それは思い入れも深いだろう、と思うハル。
小学生入学時に貰った種類のアイテムを、
高校生の趣味で身に着けること自体には多少のつっこみをしたいところだが。
それでも記念の品だというのなら、トモの中では別格にして特別なモノなのだろうことは察せられた。
それにトモは人一倍物持ちが良く、だから尚更愛着もあっただろうとハルにも想像できた。
「先輩が黒猫でリョウくんがぶち、私が三毛猫。
……あれはね、それぞれが違う性格をしてても、ずっと三人一緒でいようっていう約束みたいなものがつまってると、
私は思ってきたんだ……」
「トモ………」
沈痛な面持ちのトモの背中を撫でてあげるハル。
それでトモはなんとか、その場はまた泣くのをこらえることができた。
日の暮れた秋の夜道。
ハルと別れた後、トモはいたたまれずに走った。
涙が零れていたかもしれない。
―――夜。
トモは自室でベッドに突っ伏していた。
ごはんを食べても、
お風呂に入っても、
心の中の喪失感と湧き上がる哀しさが払拭できないでいた。
……気持ちが沈んでいた。
何も手に着ける気が起きずに、
ベッドの上でごろんごろんと転がって、
珍獣のような泣き声を出して悶えた。
(…………でも、これじゃ、いけないよね…………)
そう気持ちを切り替えようとする。
それ程に近頃のトモは勉強に対してポジティブだった。
こんなときにまでポジティブだった。
ある意味でお馬鹿さ加減が滲み出ているといえた。
辛いときにまで真面目でいるのは、美徳かもしれないが、それでも馬鹿げている。
机に向かって、テキストとノートを広げて、ペンを持ってみる。
世界史の年表を書き写してみる。
「………………」
しばらく続けて。
「………………………………」
肩が震えてくるトモ。
テキストの文字がぼやけて見える。
「……うっ……、
うう……っ
うにゅうぅぅう……っ」
ノートにぽたぽたと大粒の涙が零れおちた。
「うわああぁぁ~~~~~~んっっ!
うわぁ~~~~んっ!」
抑えていることに耐えきれなくなって、
トモは大声で泣き声をあげた。
馬鹿げているほどに矮小で、幼さが溢れている辛さであったかもしれない。
けれど、それでもトモは泣いたのだった。