5話 少年は一歩前へ進む
事態は動き出す。それも相当に悪い方向に。
もう時間がない。颯太には自身が今何をするべきか理解していた。
今すぐに来徒に言葉を投げかけること。少しでも時間を稼ぐこと。いや、そ
れよりも来徒の意識をサクアから離さないといけない。
今この場でただ声を出すだけ。簡単なことだ。それだけで事態はいい方向に
進む。
いい方向に進む? それは小石のごとく小さな、小さな疑問だった。
本当にいい方向に進むのだろうか? ますます事態を悪化させることはない
のだろうか? もし、最悪な事態を生んでしまった場合、やはり責任がのしか
かってくるのではないか。
そもそも、何も知らない、いわば部外者である自分が、安易に首を突っ込む
必要があるのだろうか。
ひとつの汗が、颯太の頬を、つうと線を引く。
口元はすでにいつ言葉を発することができるように開かれている。あとは自
身の意思を乗せるだけである。
しかし、そこから声が発せられることはなかった。口から吐き出されるのは
荒々しく乱れた息だけである。目の前がチカチカする。息苦しい。酸素が足り
ない、気がする。
最初はたかが小さな石ころでしかなかったそれは、むくむくと成長を続け、
気がつけば颯太を飲み込むほどに大きな黒い塊へと成長していた。
―――ここで声を出すのは、自分である必要はないのではないか?
思えば、小学校、中学校、規則正しく並んだ机と椅子の羅列の中で、颯太が
一番学んだことは、『自分の座るべき正しい席』だった。
生徒には、それぞれの席が与えられていて、当然、自分の席以外に座ること
は許されない。そして、どうやら席ごとに求められていることが最初からきめ
られているようだった。
意見を言うことが許されているのは、教室の前の方に座っている選ばれた生
徒だけ。後方に座る颯太たちの声が教壇に届くことはないし、わざわざ周りの
注目を集めてまで声を出そうとする酔狂もいない。
最初こそ前の席に憧れたりもするが、慣れてしまえばそれはそれで心地よく
感じてくる。何も考える必要がないのだから。
道筋は勝手に決められていくが、自分たちはただ列に従えばいいだけなの
だ。それだけで、自分の場所が確保される。そこそこに充実した生活が約束さ
れる。
考えてみれば、『ふさわしい』ものは他にいるじゃないか。
いっそ、このまま目を瞑ってやりすごそうか。何とかなるにきまっている。
自分が下手に動くよりずっといい結果になるに決まっている。
―――そう、いつものように。イツモノヨウニ。
『いくじなし』
一瞬、呼吸が止まる、様な感覚に襲われる。
記憶の中の奥に押し込んでいた『思い出』から言葉が漏れ出す。
その時だった。
颯太の左手に何かが触れる感触。視線だけをその方向にむける。
それは雛乃の指先。颯太の手の甲に彼女の中指と人差し指がちょこんと触れ
ている。
その指先は小刻みに震えていた。
雛乃の温度が指先から、たしかに颯太へと伝わる。
颯太の指先に伝わった温度は、体全体へと広がり、じんわりと染み込んでい
く。
視界を上げてみる。
入ってきたのは颯太をまっすぐ見つめる雛乃の顔だった。
彼女の恐怖や不安、この状況を何とかしたいという気持ち。
様々な感情をまぜこぜにして、颯太にすがるような顔を向けている。
頼りに、されて、いるのか?
人から頼られるのははじめての経験だった。
雛乃からの温度は徐々に熱を帯びてきて、いつしか体中が燃えるように熱く
滾っていた。
うまく言い表すことはできないが、あえて言葉を与えるならば、それは使命
感という名の炎。
今まで経験したことのない感覚。ほんのささいな『つながり』だけど、それ
だけで今は『前』へ進むための十分な動機になる。
気がつけば、今まで積み上げてきた颯太の薄っぺらい人生の公式など、灰に
なり消えさっていた。
「ら、ら、来徒・・・・・・くん!」
ようやくはなたれた言葉はひたすら不安定で不恰好だった。
「なんだ颯太! 今取り込み中だ!」しかし、颯太の言葉は確かに相手に届い
た。さらに言葉をつみあげていく。
「少しおちつこう! こんなことをしている場合なの!? 何か嫌な感じをよ
感じているんじゃないの」
「……確かに嫌な感じはする」
「それってもしかして、さっきみたいな閃光がもう一度襲ってくるかもしれな
いんじゃないの」
颯太の問いに来徒は少し考えるような素振りを見せる。
「い、いや俺が感じている嫌な感じはそれとは違うんだ……そう、それはなん
ていうか……」
来徒が答えをしゃべり終わるか終わらないか、というタイミングだった。
『ありがとう』
突如、もうひとつの声が聞こえてきた。
「え」颯太は思わず声を上げてしまう。それは声が本来の手段、つまり耳から
入ってきたわけではなかったからだ。その声は音を解さず、直接颯太の頭の中
へ流れ込んできていた。
『形はどうであれ、きみの来徒への言葉は、確かにこの状況を打開した』
それは、サクアの声だった。
来徒の颯太への答えはいつしか自問へと変化していた。
「この感覚、近いぞ……まさか!」何かに気がついたのか、来徒はすぐに視線
をサクアへと戻す。
サクアの様子に何も変化はなかった。そう、最初に目にしたときから、この
瞬間まで何も変わってはいない。最初から彼女はまっすぐ前だけを向いてい
た。
サクアが口を開く。それは、声という皮をかぶっているだけで、鋭く研ぎ澄
まされた剣のようだった。
「はずれだ。君の感じていた『嫌な感じ』の正体は、こっちじゃあない」
来徒の目が、ゆっくりと驚愕に支配される。




