16話 来徒と雛乃
「おい、ヒナの体を借りているって言ったよな」
「え、ええ、確かに言ったけど」
「それはどういうことだ、結局ヒナは無事なのか!?」
悲壮感さえ伝わってくる勢いで凄む来徒に、ヒカリは明らかに怯んでいた。視線を伏見がちに泳がしている。
「見ての通りよ、無事っていえば無事よね」
ヒカリは表情を強張らせたまま、今度は来徒に向かって両腕を広げて見せる。今の彼女の態度は明らかに強がっているように見える。
今にも溢れそうな感情を何とか抑えている、といった様子だ。
「そうか、無事なのか」
天上を見上げて大きな息を吐く。来徒は心から安堵しているようだった。
「ねえ、だったら雛乃さんの体を返してもらうことはできないの? 」
颯太は思わず口を開く。
「え」
至極当然のことを言ったつもりだったが、ヒカリはその言葉に強張りを深めた。膝の上に乗せてある彼女の手がキュッと拳を作る。
「できないことはないと、思うけど……」
「じゃ、じゃあ、もう返してあげよう」
「……」
さらに詰め寄る。うまくは言えないが、あと一息のような気がしていたからだ。次の言葉を放とうとした時、ふと、ヒカリと視線がぶつかる。
颯太は思わず言葉を飲み込んでしまった。彼女の表情にあったのはハッキリとした”悲しみ”だったから。いまにも泣き出しそうな表情を颯太に向けている。
その表情もまた予想外のものだった。ことごとく彼女の反応は颯太の思いも寄らないものばかりだ。
「頼む! ヒナを返してくれ! 」
来徒の方はそんな彼女の様子に気がつかないのか、気にする気がないのか、構わず彼女に向かって言葉を放っている。 気になって彼の方に目を向けると、驚いたことに、来徒はヒカリに向かって頭を下げていた。もともと机に寄りかかるような体制だったため頭はもうほとんど机にぶつかっているといってよかった。
彼の今の行動は颯太にとって、この上なく意外だった。少なくとも颯太の中では来徒は人に頭を下げるタイプには見えなかったからだ。
「頼む……」と机に頭をつけながら言葉を重ねている。
『つくづく真っ直ぐな男だな』
『サ、サクアさん……』
頭に直接響くサクアの冷静な声。毎回不意打ちなので、通信がくる度いつも颯太の体はピクッと解りやすい反応をしてしまう。
『最初に彼と通信した時もまず雛乃さんの安否を何よりも気にしていたな』
『……うん、二人は幼馴染らしいね』
『来徒の反応を見る限りはそれ以上の感情を抱いているように感じたがな』
『それ以上って?』
聞いたあとで少し後悔する。つまり、好きとか、付き合っているということをサクアは言いたいのかもしれないと颯太は思ったからだ。
そういう類のことを話題にすること自体が、何か恥ずかしいことのように思えた。
『それがいったいどういう類のものかまでは図れないが、来徒にとって雛乃さんはとても重要なキーワードのようだな』
颯太の羞恥心など御構い無しで相変わらず彼女の言葉は淡々としている。それほど気にすることでもなかった
らしい。ただ、二人の関係は、二人に出会ったばかりの時に颯太がまず感じた通り、とても強くて深い、という事は改めてわかった。彼女の話は続く。
『雛乃さんが巻き込まれたとわかった時の、来徒のうろたえ方は相当だったよ。強く自分を攻めていた。もしかしたらさっきの騒動も、雛乃さんのことを思っての行動だったのかもしれないな』
少し間を置いて『まあ、その行動自体はあまり褒められたものではなかったがな』と加えた。
自然と颯太の目は来徒へいく。彼は依然頭を机に擦り付けたままだ。もしかしたら、来徒という人物を間違えて捉えていたのかもしれない、と思う。
”感情を抑えきれないで、状況を悪い方向へ掻き回す不良”というのがさきほどまで颯太が来徒へ感じていた正直な感情だった。もしかしたら、そうではなく、”感情を抑えられないふりをして、雛乃にも向けられるであろう目を自分に集めていた”とは考えられないだろうか。そしてそれは、今回一度のことではなく、何度も繰り返されてきた事なのかもしれない。そう考えると、最初の唐突すぎるキレ方もなんとなく納得がいく。
もっとも、これはできる限り来徒を尊重した上での考えで、確かにサクアの言うとおり、あまり賢いやり方ではないように思えた。
「わ、わかったわよ 」
いじけたように目を伏せたまま、ヒカリの声は絞り出される。
「返せばいいんでしょ、返せば」
その声色は、弱々しさの中にどこか投げやりな印象を受けた。彼女はすぐ行動に移す。
ヒカリはスっと目を閉じる。直後、突然彼女はその場に倒れこんだ。まるで、先ほどの力を抜かれ崩れ落ちた来徒のように。突然全身の力が何者かによって切断されたような、意図的な不自然さがそこにはあった。
刹那、先ほどの来徒が倒れた時の”雛乃だった彼女”がそうしたように来徒も直ぐに彼女を目指した。
しかし、彼にはまだ十分な体力は戻っていないのだろう、颯太の机から離れた途端、崩れるように倒れてしまう。
慌てて颯太は来徒に手を貸そうとする。しかし、彼はそれを必要とはしなかった。颯太の手を邪険に払うと、這いつくばったまま、体を引きずるように雛乃の体へと向かう。その目には既に彼女しか見えていないようだ。なんとか雛乃の体まで着くと、今まで溜め込んでいたものを一気に吐き出すかのごとく、雛乃の名を叫ぶ。 来徒はいつしか彼女の体にしがみつくようにしながら、何度も何度も雛乃の名を呼んでいた。
彼女を見ると、変化は明らかだった。さきほどまで颯太の目に映っていたヒカリという少女は既に”消えていた”。もしかしたらこれは”戻った”、というべきなのかもしれない。気がつけば少女の姿は、”雛乃”を取り戻していた。
『颯太君!!』
ただ、某然と光景を眺めていた颯太を現実に引き戻したのは、やはりサクアの声った。
『サ、サクアさん……』
まるで、強制的に夢から引きもどされたような心地がした。
『棒としている場合じゃない! ”彼女”はどうした!?』
『え、急に倒れて、今は来徒が側にいるよ』
『雛乃さんの方ではない! ヒカリだと名乗っている彼女はどうした!』
ここまで言われてようやく颯太の思考は活動を再開する。ヒカリは雛乃の体を”借りている”と言っていた。ということは今の現象はヒカリが雛乃の体を”返した”ということなのかもしれない。
雛乃の体を手放した後のヒカリ、それが今もっともサクアにとって重要なことなのだろう。
颯太は弾かれるように席から立ち上がる。視界を上げ、教室を見回すと、案外直ぐにヒカリは見つかった。
視界に入った彼女は背中を向けていた。この教室から出て行こうとしているらしく、間も無く廊下の向こうへと姿を消した。
颯太はサクアへ、今見たことをありのまま報告すると、なんとなく予想していた通りの言葉が帰ってきた。
『彼女を追うんだ、颯太君!!』