15話 光の中で少女
窓からの光が教室内に注がれている。埃やらの細かい浮遊物が光に当てられキラキラと瞬いて見える。
窓から溢れる光を、彼女は一身に浴びているような、そんな錯覚を颯太はおぼえた。
目の前の見知らぬ少女は雛乃とはまるで印象が違っていた。
太めの眉に意思の強さを感じさせる目元、活発さを感じさせる健康的な絞まりが、制服の上からも想像できた。
雛乃が文科系ならこちらは体育会系と言ったところか。
しばらく目を瞑っていたのに加え、頑ななだんまりだ、いわばコミュニケーションの完全な拒否と言われても文句は言えない。
すでに少女は心配を通り過ぎて、呆れ果てていた。
「やっと、目を開けた。まさか、寝てたとか言わないわよね」
外見はもはやすっかり別人だが、その仕草、喋り方、雰囲気までもがさっきまでの雛乃そのものなのである。
「ねえ、今度は何?」
訝しげな視線を向ける少女に、颯太が返せる言葉は一つだった。
「君は誰なの?」
「え、何が?」
当然、言葉の意味が飲み込めないという表情を見せる。その表情は心から出ている偽りの感じられない表情で、もし、外見が雛乃のままだったら、間違いなく目の前の少女を信じていたに違いがなかった。
「君は誰」二回目の問いは確信という力のこもったものだった。
「……」
少女から表情が消える。その変化の分かり易さは、例えるなら、今まで被っていた仮面がベリベリと音を立てて剥がれ落ちたかのよう。
「”私”が見えてるの?」
颯太は黙って頷く。
「なんだ、やっぱり聡太君、チカラあるんじゃない」
観念したように、聡太の瞳をまっすぐ捉えて彼女は言葉を紡ぐ。口元に微かな笑みを湛えていた。最早そこには雛乃の存在は完全に消え去っているように見えた。
「みたいだね……正直、僕もビックリしてる」
体を目の前の少女に改めて向ける。自然と脚が揃って背筋が伸びてしまう。
「なにそれ」
「うん、チカラは最初からあったみたいなんだけど、こうして見える様になったのはホント今さっきなんだ」
『颯太くん、正直すぎだ』
すかさずのサクアからのツッコミ。颯太は自身も、ご最もだと思った。
「ね、やっぱりあたしの言った通りじゃない。ずっとあやしいとおもってたのよね」
満足げに少女は何度もうなずいている。お手本のような綺麗なドヤ顔をしている。
「あやしいって思ってたの? まさか、君も他人のチカラが覗けるとかじゃないよね……」
「そんなんじゃないわ。何ていうか、感ね、女の感」
と言うと、彼女はフフンと笑う。普段ならそんな非科学的な言い分は一笑だろうが、こう、非科学的が普通の環境に身をおいていると、素直に笑飛ばせない颯太がいた。彼女のドヤ顏は真顔で受け止めるしかない。
それにしても、今の彼女を見ていると、彼女にとって、正体を見破られたことなどまったく意に介していないように思えてくる。
颯太が座っている席のすぐ隣に座っている、という彼女の体制はそのままだが、今は頬に手をついて肘を机に乗せている。
じっくり話を交わすという意思が伝わってくるし、リラックスしている節さえある。”とるにたらない小さなイタズラがばれてしまった、だから何?” といった感じである。
「それで、君は一体誰なの?」
颯太は気を取り直す。聞かなければならないことはたくさんあるからだ。
「あたし? あたしは、ええと」
何かを思い出そうとするように顎に手を当て、瞳を上の方でキョロキョロさせると、少し間をおいた後「ヒカリよ、西宮ヒカリ」と答える。
いきなりの不自然さである。
「ど、どうしたの?」
「うーん、名前って言われてもすぐに出てこなかったのよね」
「どういうこと?」
「上手く言えないけど、部分部分で記憶が曖昧なのよ」
「それって……」
『記憶喪失だと言いたいらしいな』
答えたのはサクアだった。彼女の言い方は、”当然、鵜呑みにするなよ”という念押しの意味も含まれているようだ。つい先ほどまで本当の姿を表すその瞬間まで、完全に欺かれていたのだ。流石にそのまま受け入れることはできない。しかし、相変わらず、彼女の仕草は嘘を感じさせない。
「他に思い出せない事ってなにがあるの?」
「そうねえ、あたしがこんな風になる前の記憶はほとんどないみたい」
「こんな風ってどういうこと?」
「こんな風はこんなふうよ」
そういうと彼女はすくっとその場で立ち上がり、自然な所作でクルリとまわって見せる。微かに起こった風が聡太の頬をそっと撫でた。
「ほら!」とヒカリは両手を広げてアピールする。なぜかドヤ顔だ。
「ほらって言われても……」
颯太の反応がお気に召さなかったのか、ヒカリはおもしろくなさそうに再び腰を下ろす。
「なんていったらいいんだろ、なんか他の人たちには見えないみたいだから、もしかしたら幽霊みたいな状態なのかも」
「見えない?そんなことないでしょ。だって、さっきまでみんなとも普通に話してたよね、それに体にだって触れることができてたし」
先ほどの雛乃だった時の手の感触が思い出される。颯太は何故か赤面してしまう。
「ああ、これね、これは雛乃さんの体を少し借りているのよ」
ヒカリはポンポンと自分の胸のあたりを軽く叩いている。まるでボールペンや消しゴムを借りているかのような答えの仕方だ。おかげで颯太がその意味を理解するのに少し掛かった。
「えええ!!」
『なるほど、そういうことか。面白い』
心からの驚きを見せる颯太だが、サクアの反応はそれとは全く違うものだった。
『お、面白いって……サクアさん』
何をそんな驚いているのかと言わんばかりにとキョトンとしているヒカリと、しきりになぜか感心しているサクア、絶対この場合自分の反応が一番相応しいと、颯太は何度も自分に言い聞かせるのだった。
「じゃあ、雛乃さんは無事なの?」
「もちろん。だってあたしなんだから」
ヒカリの答え方はまた難解だが、とにかく雛乃の安否も颯太が知りたかった事の一つだ。
もっと詳しく聞かなくてはいけない。颯太は無意識にヒカリの方へと身を乗り出していた。
その時だ、突然颯太は足首を掴まれる感覚を覚える。
「ひっ!」とあまりの不意に驚きながらも、足元へと目を向けると、その先には一人の男の影があった。
滝越来徒、さきほどまでの騒動の主役だ。
正直な話、すっかり来徒の事など颯太の意識の中から抜け落ちていた。
ここでのこの男の登場は正に不意打ちだった。
「来徒くん!」
「来徒!?」
颯太とヒカリの声が重なる。
不思議とヒカリの声色には安堵や親しみが含まれているように聞こえる。
雛乃は昔からの知り合いというのは聞いていたが、ヒカリにとっての来徒の関係はまだ聞いていない。だからか、彼女の反応には自然と疑問が湧き出る。
来徒は颯太の足首左手で掴んだまま、右手で颯太の座っている椅子を掴む。右手が固定されたら今度は左手を机の高さまで持っていく。
まだ体が上手く動かないのか、プルプルと震えながらゆっくりと体を起き上がらせる。さながらゾンビ映画の死体が蘇るシーンの様だ。
二人に見守られながら、ようやく来徒の上半身は颯太の机の上まで到達する。腕を机に乗せ、もたれかかるように机に体重を乗せた。
教室には来徒の荒い息遣いのみが反復している。今の来徒にはこれだけのことも大変なことだったらしい。しばらくゼエゼエと息を整えていた。
颯太は息を飲み、来徒が放つ一声に集中する。
「て、手を貸し、て、くれ……」
まだ息が荒く、しゃべり辛そうだった。
「ごめん、あまりに急なことで……」
思い出したように颯太はアセアセと来徒の体に触れようとする。
「もういい! 遅いわ!」
颯太の手は来徒自身によって邪険に払われた。要するに、最初から手を貸してくれ、と言いたかったらしい。
「ご、ごめん」という颯太の情けない声がすぐについてくる。
「来徒! もう大丈夫なの?」
ヒカリは当然のように来徒へと駆け寄ろうとする。やはり彼への接し方は、雛乃だった頃と何も変わらない。心から来徒の身を案じているように見えた。
しかし、来徒の方もどうやら同じ、というわけにはいかないらしい。
「近寄るな!」
はっきりとした拒絶。ヒカリの表情と体がピシリと強張る。さきほどまでサクアに向けられていた嫌悪によって研ぎ澄まされた視線は今はヒカリに向けられている。
「全て聞いたぜ、クソが……ヒナの体を弄びやがって」
「来、徒……」
ヒカリの顔に動揺が浮かぶ。
『颯太くん、聞こえるか?』
『サクアさん、来徒が……』
『みたいだな、ここでもう一つ、君に言っていなかったことを思い出した』
最早この確信犯は悪びれもせず言う。
『実は来徒にも雛乃さんのことは言ってある』
『え、いつ!? どういうこと? 』
『ふむ、彼が目を覚ましたのは私たちがこの教室を離れたすぐ後になる。私の考えを教えた上で気絶しているフリをしてもらっていた。もっとも、最初のうちは動かしたくても体を動かすことはできなかったのだがな』
『何でそんなことを……』
言いつつも颯太はその理由は何となく理解していた。要は上手くこういう展開に持っていくには、来徒が途中で目を覚ましたら阻害されるとサクアは考えたのだろう。つまりはサクア達がこの教室を出るところから全て、この結果のために計画されたことだったのだ。皮肉にもさきほどの雛乃だったヒカリの言っていたことは一部、的を得ていた。
サクアは続ける。
『最初は来徒も半信半疑だったが、颯太くんのおかげでようやく信じてくれたようだな』
『今目を覚ましたのもサクアさんの指示なの?』
『いや、これは違う。雛乃さんの名を聞いて我慢できなくなったのかもな。ここからは恐らく私の言うことなど聞かないだろう。また暴走しないように注意しといてくれ』
『……そんな、無責任な』
『大丈夫だ、来徒も今の体の状態じゃあ、対したことはできまい』
『……もういいよ』
そんなやり取りの中も、苦しそうな来徒の息遣いはずっと颯太へ届いていた。
来徒は十分に体を動かせる状態ではまだないことは一目みればすぐわかる。しかし、それでも起き上がってきたのは雛乃を思ってのことに他ならない。二人の関係は知り得ないが、来徒の雛乃に対する情の深さは十分に伝わって来る。
「おい、颯太!」
絞り出すような声だった。
「こいつ、本当に雛乃じゃないんだよな」
来徒の目にはヒカリはまだ雛乃として映っているのだろう。無理もないが、長年の知り合いのさえも迷いがでてしまうということだ。
「う、うん。僕の目には雛乃さんはみえていないんだ」
「ああ、そうだな、今はお前を信じるぜ」
颯太に向かって一つ頷くと、改めて来徒はヒカリへ目を向けた。