1話 さよなら日常
なんとなくながめてた音楽番組に、エンディングのクレジットが流れはじめるころ、いつものように、田中颯太はそっと家を抜け出す。
さすがに容赦のない冬の冷たさは和らいだものの、夜の空気はいまだ直接肌に触れるには、もう少し早かった。
まだこのジャケットは手放せないな・・・などと思いながら颯太は、いつもの時間にいつもの公園に着いた。
パスッ、公園に備え付けてあるバスケットゴールのネットが揺れる。
「ナイシュー」とくに感情をこめずにシュートを決めた主に声をなげる。
いつもの場所にいる、いつもの顔。
ボールを拾いにいきながら、ちらっとだけ颯太を見る。
「明日入学式だろ、準備はもういいのかよ?」
「入学式なのはタケルも同じだろ」
「俺が終わってないとおもうか?」
滝越タケルは、身にまとったフードつきのパーカーをなびかせながら、ゴールに向け、次のシュートにむけ構えている。
適度に細身、色黒の肌に彫りの深い顔。いわゆる典型的なイケメン。スポーツ万能、ペーパーテストの成績も当然のごとく毎度上位の常連様。明日から通う高校も県有数進学校ときたものだ。
まるで非の打ち所がない。しかし、そんな彼も、背の低さだけがただひとつの悩みらしい。まったく、贅沢な悩みである。決して卑屈的な考えではなく、すべてにおいて平均前後の颯太は、背の高さ以外では全力で白旗を振るしかないのである。
ボールがタケルの腕からゴールに向け放たれた。ボールはゴールを外すことはないだろう。という颯太の予想そのままに、きれいな弧を描いたボールは、さも当然のごとくにゴールに吸い込まれていった。
何度も見てきた光景だ。颯太は気が向いた時にこの公園へ足を向ける。そこにはたいていタケルがいて、たいていこうして一人バスケをしていた。
いつもはバスケ、時には世間話や無駄話を繰り返す。お互いが、ただなんとなく、時間を浪費する場所。
なお、学校こそ同じだが、二人がこの公園以外でかかわることはほとんどない。お互いの携帯番号だって知らないくらいだ。まあ、クラスが違うからという部分が一番大きいのだが。
もっとも、タケルの周りにはいつも誰かしらがいて、たいていは彼を中心とした人の輪が築かれていて、たしかにそのサークルの中に飛び込むのは、颯太には面倒くさく感じてしまうのだった。
ではなぜ、そんな二人がこんな感じで会うようになったのか。考えてみれば夜な夜な男二人で公園で過ごしているなんて、それはあまり気持ちのいい話ではない。
しかしながらその答えはほぼない、といってよかった。理由が上手く説明できない、覚えていない、まあ、そんな感じだ。
いつしか、なんとなくこの場所をみつけ、なんとなくこの場所で過ごしてたら、たまたま同じような奴がもうひとりいた。それだけのことなんだろう。
ただ、確かにこの場所は颯太にとって気の置けない楽になれる場所ではあった。
「そういえば」
「ん?」タケルはボールを拾いつつ答える。
「タケルっておれが見てた限り一回もゴールをはずしたことないよな。考えてみればすごいことなんじゃないか?プロだって目指せるぜ」
コートの外側の、適当な段差に腰掛けながら颯太はハハと笑ってみる。
実際、こうしてそばで見ていると、素人目で見てもタケルのシュート技術は、一般の中学生レベルを超越していた。
冗談のつもりで話したが、本気で目指せばプロでも十分やれるんじゃないかと颯太は本気で思っている。それはバスケに限定しなくても、本人さえその気になればどの世界でも特に苦労することなく、頂点を狙える位置にいけるのではないか、そう思わせるものををタケルは持っていた。
「プロねえ、それも面白いかな・・・」
手元のボールをくるくる回している。その口元は自嘲ぎみに歪んでいた。
タケルが本気で考えてないのは一目瞭然だ。もっともこの反応もなんとなく予想通りだったりする。周りの期待などお構いなしに、本人はそもそも頂点とか、そういうものにはまったく興味がないらしい。
この男には、まるで執着心というものがない。たとえ自分のことでも一歩引いてどこか冷めた目でみている。それが滝越タケルのスタンス。
しばし生まれた沈黙の後、タケルは口を開く。
「そうだ、颯太にいいもの見せてやるよ」
「な、なんだよ突然」
「まあ、見てろって」
いつものようにタケルはボールをゴールに向けて放った。
放たれたボールはまるでレールでも轢いてあるのではないかとおもうほど完璧な弧を描く。
異変は、ボールはゴールへ入ろうとする直前に起こった。
ゴールリングの少し手前でボールは突然、ぴたりと停止した。
そのままボールはまったく動こうとはしない。まさに空中に自力で浮いている状態である。
あまりに突然のことで、颯太は口をパクパクさせ、それ以上のリアクションをとることができない。目の前に広がるのは、あらゆる物理現象を無視した異常の景色。
バスケットボールはしばらく空中で停止すると、今度は真上に向かって上昇をはじめる。およそ十メートルほど上がると、突然パンッという破裂音と共に空中で四散。公園はすぐに静寂を取りもどすが、ボールはもう跡形もない。
颯太は目の前の現状に脳が付いていけずに、目を何度もパチクリさせていた。
「な、な、な・・・なんだ、今のは・・・」
慌てふためいている颯太を尻目に、タケルは至ってドライだ。
「あ、ちなみにこれ、種も仕掛けもあるから」
「・・・え、これ手品なの?」
なにか腑に落ちない。手品だとしても、素人がやるには大掛かり過ぎる気がする。バスケットボールは空中で爆発した様に見えたのだ。前もって準備でもしてたのか?何のために?などといった思考がぐるぐると頭の中で暴れている。
うー、うーと一人唸っていると。
「じゃ、俺は明日の準備があるからそろそろ帰るわ」
「そ、そうか」あまりに唐突過ぎるが、これもいつものタケルのペース。
もう慣れたものだ。
くるりと背を向け歩き出そうとした時、タケルは思い出したかのようにもう一言を加える。
「今までありがとな。おれもこの場所は楽だった」
ゆっくりと遠ざかるタケルの背中を見送りながら、颯太は思う。
いつもの時間、いつもの場所、いつもの顔。何の疑問を持たず過ごしてきた、この日常。当然のようにずっと続くものと思っていた。だけど、それが叶わないこともなんとなくわかっている。
颯太もタケルもあしたから新たな生活が始まる。問答無用に見たこともない明日が押し寄せてきて、後ろを振り向く余裕なんてなくなる。
いつかはこの公園のことなんてすっかり忘れてしまう日がやってくるに違いない。
そう考えると、ただただ時間の無駄遣いだと思っていたこの時間も、とてもかけがえのないものに思えてくるから不思議だ。
もうタケルはいない。誰もいない真っ暗な道の先に向かって颯太は言う。
「明日の準備とっくに終わってるんじゃなかったのかよ・・・」
気が付けば体に当たる風が強まっているような気がする。
寒いから、颯太もさっさと家に帰ることにした。
何も考えなくても明日はやってくる。気が付けば中学生活は終わりを告げていた。私立星鵬学園、それが颯太の新たな生活の舞台。
結局さきほどのバスケットボールは消えたままだけど、まあ、本当にトリックか何かだったのかもしれない。それより明日の準備のほうが重要だ。
のど元を過ぎれば深くは考えない。結局『今』を受け入れてしまう。それが田中颯太のスタンス。