悪役令嬢になったのは、ずっと聖女が王子に粉をかけていたから ──ヴァルメラ視点 婿育成録
本編『悪役令嬢になったのは、ずっと聖女が王子に粉をかけていたから』を先にお読みいただけると、流れがより分かりやすいです。
妹グレイシアへの婚約打診が王家から届いた時から、姉ヴァルメラの側でも別の話は静かに始まっていました。
本編と同じ流れの中で進んでいた、ヴァルメラ視点の一編です。
モルヴェン公爵家は、外から見れば武勇でも財でも名を持つ家だったが、内側は案外静かだった。
怒鳴ることで人を動かす家ではない。泣き落としで場を回す家でもない。腹が立てば腹が立ったなりに話し、切るべきものは切り、残すべきものは残す。そういう家だった。両親が健在だった頃から、食卓で声が荒くなることはあっても、皿が飛んだり、誰かが部屋を飛び出して泣き崩れたりしたことはない。長女のヴァルメラはよく笑い、よく動き、よく決める女で、次女のグレイシアはさらに無駄がなく、必要なことだけを言った。姉妹喧嘩はあったが、終わったあとに居場所を失うような家ではなかった。
ただし、それは両親が生きていた頃の話でもある。
喪が明けるのを待つより早く、ヴァルメラは家督を継いだ。
好き好んで背負いたかったわけではない。だが、背負うべきものがそこにあったから立った。公爵位というのは、綺麗な衣装の上からでも肩に重く乗る。領地、家臣、金の流れ、周辺貴族との均衡、王都との距離。何一つ、少女の感傷を挟む隙はなかった。
それでもヴァルメラは泣かなかった。
泣く意味がなかったからだ。
泣いたところで帳簿は軽くならないし、境界の見回りに出る騎士の脚も増えない。なら立つしかない。そういう類の諦めの良さを、彼女はもともと持っていた。
背は低い。女として見れば、決して大きくはない。柔らかな胸も、細い腰も、鏡の前に立てばちゃんと女の形をしている。だが、その身体の内側に通っている芯は、外からの印象ほど柔らかくはなかった。剣も握る。馬にも乗る。領境を回る時の足腰もある。小柄な体に女公爵の重さと剣の癖とが同居しているせいで、近くで見ると案外怖い、と昔からよく言われた。
もっとも、妹の方はそうは言わなかった。
グレイシアは、ヴァルメラの背を見て育った。
家を継いだ者が、何を切り、何を残し、誰を遠ざけ、誰をそばへ置くのか。優しさだけでは家は回らないこと。けれど厳しさだけでも、人はついてこないこと。そういうことを、教本より先に、日々の食卓と執務室の往復の中で覚えていった。
だから王家から婚約の打診が来た時、グレイシアは驚かなかった。むしろ、ようやく来たかという顔をした。
その書簡を最初に開いたのはヴァルメラだった。重厚な封蝋を切り、ざっと目を通し、机の上に置く。王家らしい大仰な文面の下にある本音は、一行で足りた。
要するに、グレイシアが欲しいのだ。
ヴァルメラは執務机の上の書簡を指先で弾き、鼻を鳴らした。
「王家はあんたが欲しいんだって。見栄えもするし、頭も回るし、場も締まる。便利ね」
祝辞にしては素っ気ない言い方だったが、グレイシアは肩をすくめただけだった。
「便利、ですの」
「でも間違ってないでしょう。向こうが欲しいのは、甘く微笑んで横に立つだけの花嫁じゃない。王子の横で手綱を握れる女よ。だったら、うちで出せるのはあんたしかいない」
それは誉め言葉なのか、厄介事の押しつけなのか、半々くらいの声音だった。自分でもそう思う。だが、そうとしか言いようがない。
グレイシアは少しだけ考える顔をしたあと、結局ひとつだけ確認した。
「姉上は、それで困りませんの」
「私が?」
「ええ。公爵家は」
その問いに、ヴァルメラは一度だけ真面目に窓の外を見た。庭へ続く石畳、刈り込まれた低木、その向こうの訓練場。全部、自分がこれからも見続ける場所だ。
「困らない。あんたが王家へ行くのは、家にとっても悪い話じゃない。むしろいい。こっちはもう私が握ってる。あんたは、あんたが一番厄介そうな場所へ行けばいいのよ」
「厄介そうな場所」
「そう」
それはたぶん、王家のことだった。
実際、間違っていなかった。
その時のグレイシアの顔を、ヴァルメラは今でも覚えている。怖がるでもなく、喜ぶでもなく、ただ腹を括る前の顔をしていた。妹はあの時すでに、自分がどこへ行くのか半分以上分かっていたのだ。
見送る朝、グレイシアはいつもと変わらない顔で馬車へ乗り込んだ。裾の整え方まで普段通りだった。あまりにもいつも通りだったので、ヴァルメラは少しだけ意地悪を言った。
「泣かないの?」
「姉上こそ」
「私は泣く意味がないもの」
「私もですわ」
そこまで言って、グレイシアは馬車の扉に手をかけた。
「厄介そうな場所に行ってまいります」
「ええ。好きに暴れてらっしゃい」
馬車が動き出してから、ヴァルメラは少しだけ息を吐いた。好きに暴れろとは言ったが、暴れるだけで済む場所ではないことも分かっていた。王家というのは、下手な戦場より厄介なことがある。剣が飛んでくるならまだいい。笑顔で寄ってきて、善意の顔をして、責任だけを押しつけてくる連中の方が面倒だ。
案の定、王都から届く報せは、だんだんと嫌な湿り気を帯び始めた。
最初の頃の報せはまだ平穏だった。婚約者としての初仕事、夜会の立ち位置、王族への挨拶、王妃宮との距離。どれも表向きはきれいに整っている。だが、そういうきれいな紙の裏側にこそ、本当の癖は滲む。
アストル・ゼルバートは見た目だけなら婚約者として不足のない相手だった。金の髪に整った顔立ち、王族らしい華やかさ。人前に立てばそれなりに映え、受け答えにも最低限の知性はある。文字が読めないわけではないし、書類の意味が分からないほど愚かでもない。教えられた範囲ならきちんとこなせるし、場によっては器用に愛想を使うこともできる。
だが、そのすべてに「そこそこ」がつく。
そこそこ賢い。そこそこ見栄えがする。そこそこ仕事もする。そこそこ物も分かる。そこそこ優しい。
そこそこでは、上に立つには足りない。
グレイシアの手紙は、あからさまに婚約者の不満を並べるようなものではなかった。妹はそういう書き方をしない。だが、読めば分かる。
王子は見ない。
見ないくせに、見なかったことの代償を自分で払うわけでもない。
周囲は王子の機嫌を取りたがる。
その機嫌を取るために弱いところへ皺寄せが流れる。
そしてその皺寄せを、いつの間にか婚約者が拾う羽目になる。
グレイシアは拾っていた。
婚約者としての仕事なのか、王子妃としての仕事なのか、それともそれ以上の何かなのか、境目が曖昧になるくらいには拾っていた。
ヴァルメラはそれを読んで、ふん、と鼻を鳴らす。
やっぱり厄介だ。
王家というのは、本人が残酷でなくても周囲を腐らせることがある。本人が手を汚さなくても、機嫌を取られ、先回りされ、勝手に誰かが削られる。そこにいるだけで重さが乗るということを、本人が知らないまま育つとそうなる。
その頃から、別の名前も混じるようになった。
フェミナ・ユール。
最初にその名を見た時、ヴァルメラは少しだけ首を傾げた。聖女といえばもっと張り詰めた女を想像していたからだ。ところが手紙の中のフェミナは、やけに軽い。
小柄で、柔らかく、よく笑う。
声も高く、よく寄る。
無邪気そうな顔で距離を詰める。
そして第2王子の婚約者でありながら、第1王子へ粉をかけている。
ありふれている。ありふれているが、だからこそ面倒だ。
悪女の顔をしてくれれば切りやすい。けれど本当に厄介なのは、弱さの顔をしたまま人を動かす女だ。本人が全部自覚しているとは限らない。自覚がなくても、結果だけは同じになる。
報せの中に、第2王子リオネルの名も少しずつ増えた。
この子は分かっている、とグレイシアは書いた。
まだ若く、止め切るには立場も年齢も足りない。
だが見えている。
兄が見ないところを見ている。
そこは少しだけ意外だった。
王家の息子は二人とも甘いのだと思っていた。だが片方だけは、少なくとも場の歪みを知っているらしい。それが救いになるのか火種になるのか、その時のヴァルメラにはまだ分からなかった。
そうして嫌な湿り気を帯びた報せが積もっていき、ついに断罪劇の夜が来た。
報せは早かった。
王家の夜会で、グレイシアが第1王子に断罪されたこと。
聖女を怯えさせた、高圧的だった、嫉妬から強く当たった、突き落とそうとした証言まである、と並べて婚約破棄を宣言されたこと。
グレイシアが取り乱さず、それを断罪劇と返し、王子としての品位を問うたこと。
欲しいならどうぞ譲ると言い切ったこと。
それに続いて第2王子リオネルが、自分も聖女との婚約を解消すると言い出したこと。
そこまではよくある、とまでは言わないまでも、あり得る範囲だった。
ヴァルメラが吹き出したのは、その後だ。
王が大笑いし、第1王子を後継と見ていなかったことを明かし、処遇の決定をグレイシアへ渡したという。そこで妹は言ったのだ。
「なら第1王子は元婚約者としてわたくしが決めてよろしくて?」
その一文だけで、ヴァルメラはもう笑った。
ああ、そう来るのね。
妹がそういう女なのは知っている。泣いて終わるわけがない。だが、そこから先は予想よりももう一段上だった。
「我が公爵家の姉、ちょっと男勝りでして、婿がいなかったのですわ」
ヴァルメラはそこでいったん手紙を机へ置いた。
笑いがこみ上げる。
さらに続きがある。
「見た目は先程の聖女のようですわよ。あまり大きくなく私より胸ありますもの。それでよろしくて? 元婚約者様?」
「それに少しお鍛えなさっては?」
「元婚約者様。厳しいけど甘いですわようちの姉」
「朝ちゃんと立てるといいですわね?」
そこまで読んで、ヴァルメラはとうとう机へ額をつけた。
「やってくれるわね、グレイシア」
あの子は本当に自分をよく知っている。
見た目を入口に使った。
相手の好みを見抜いて、まず甘く聞こえるように言った。
だが本命は最初からそこではない。
鍛えろ、と言っている。
朝立てとまで言っている。
つまり、男としても生活としても締め直せという意味だ。
押しつけられた、とは思わなかった。
むしろ、あの子は姉ならやれると見て置いたのだ、とすぐ分かった。
だったら受けるしかない。
返書は短く書いた。
受ける。
王子であろうが何であろうが、来るなら役に立つようにする。
半端な状態で寄越すなら、文句は受けない。
それだけで十分だった。
何枚も飾って送るような話ではない。
家へ入れる以上は使う。
使う以上は半端で困る。
それだけのことだ。
その後、王都で出立の日取りが決まったと報せが来た。遅らせる理由はない、とグレイシアは判断したという。王城に長く置く方がよろしくない、ご本人にとっても周囲にとっても、と。
それは正しい。
あの王城に長く置けば、また甘やかされる。
あるいは、自分で自分の情けなさを腐らせる。
どちらにせよ、こちらに来るなら早い方がいい。
だから、アストル・ゼルバートはすぐに来た。
迎えた日の空はよく晴れていた。館の前で待ちながら、ヴァルメラは軽く剣の柄を撫でた。緊張していたわけではない。だが、最初の一目が大事なのは分かっている。あの手の男は、最初の一息で相手を測ろうとする。
馬車が止まり、降りてきたアストルを見て、ヴァルメラはまず一つだけ思った。
ああ、見た目だけなら本当に悪くない。
背は高い。顔立ちも悪くない。肩の線も細すぎず、服を着て立てばまだ王子然として見える。だが、その足の置き方が頼りない。重心が上に浮いている。まず自分がどう見られるかを気にする人間の立ち方だった。
そして案の定、向こうの目がこちらを一瞬なぞるのも見えた。
小さい。
胸がある。
柔らかそうだ。
そういう目だ。
分かりやすい男だと思った。
だからヴァルメラは、わざと半歩だけ近づいた。鞘に入れたままの木剣を受け取り、肩に軽く乗せる。そこまでの動作だけで、アストルの目が変わる。
崩せる女ではない、とようやく分かった目になる。
「ようこそ。元第1王子殿下」
わざとそう呼ぶと、アストルの眉が少し動いた。
「いきなりそう呼ぶのか」
「いきなりそういう顔で来たから」
「どういう顔だ」
「まだ少し、自分で選べると思ってる顔」
むっとする。だが怒鳴らない。そこで少しだけ、王都にいた頃よりはましだと思う。
「……選べないのは分かってる」
「そう。なら入って。話はそのあと」
最初の対面は、それで終わりだった。
その日から、アストルは客ではなく、婿候補として置かれた。
部屋は与える。
席も与える。
だが、もてなして終わる気はない。
朝は早い。
食事はきちんと取る。
帳簿を見る。
領地を歩く。
人の顔を覚える。
剣も振るう。
逃げない。
最初の三日で、アストルは露骨に疲れた顔をした。
体力がないわけではない。けれど、毎日を積んで使う体ではなかったのだ。王都ではそこそこで済んでいたものが、ここでは済まない。
「朝、早すぎる」
四日目、食卓でとうとうそう言った。
ヴァルメラは湯気の立つ茶を一口飲んでから返す。
「普通よ」
「公爵家の普通がずれてる」
「王子の普通が緩いの」
言い返せない顔をする。
そこでヴァルメラはさらに一つ足した。
「それに、朝ちゃんと立てるといいですわね、ってグレイシアが言ったんでしょう?」
アストルは見事にむせた。
「お前、あれ聞いたのか」
「報せで届いたわ」
「最悪だ……」
「そう?」
ヴァルメラは口元を緩めた。
「私は気に入ってるけど」
その軽口に赤くなれるくらいには、まだ余裕があるらしい。
だが、鍛え直すとはそういう軽口だけでは済まない。
「これは何だと思う」
ヴァルメラが見回り記録を机へ置けば、アストルはまず字面だけを読む。
どこが遅れた。
誰が報告した。
何日分の不足がある。
そこまでは読める。
「違うわ」
「何が」
「この紙の向こうで、どこの足が止まって、どこの村に皺寄せが行くかを見なさい」
そう言われると、彼は黙る。
知らなかったのだ。
文書の意味は読めても、その向こうにいる人間を見る癖がない。
剣も同じだった。
ヴァルメラは小柄だ。近くで見れば女らしい。胸元は厚く、腰は細い。黙って立っていれば柔らかく見える。だが、木剣を持って間合いに入ると話が変わる。
重心が低い。
肩が逃げない。
小さい分だけ近い。
近いからこそ逃がさない。
初日、アストルは三度転ばされた。
二度目までは悔しそうに立ち上がった。
三度目、背中から土に落ちたまま息を吐いて、空を見ながら呟く。
「……フェミナに似てるって言ったグレイシア、嘘つきだろ」
ヴァルメラは木剣を肩に担いで見下ろした。
「見た目の話でしょ」
「中身が違いすぎる」
「そこを間違えたから、ここにいるんじゃないの?」
アストルは顔を覆った。
否定しない。
それでよかった。
否定しないなら、まだ締め直せる。
ヴァルメラは空を見上げた。陽はまだ高い。やることは山ほどある。王子だろうが何だろうが、家へ入れる以上は役に立ってもらう。
「立ちなさい」
アストルが手をどけてこちらを見る。
「まだやるのか」
「当たり前でしょう。何のために来たの」
少しだけ間を置いて、ヴァルメラは薄く笑った。
「厳しいけど甘い、って言われてるんだから。甘いところまで行きたかったら、まず立ちなさいな」
その言葉に、アストルは一瞬だけ黙った。
意味はまだ半分も分かっていないだろう。
けれど、立った。
まずはそれで十分だった。
アストルが初めて自分から夜明け前に起きてきたのは、来領してから二十日ほど経った頃だった。
まだ空は薄青く、館の窓も半分ほどしか開いていない。厩舎の方から馬の鼻息が聞こえ、厨房では早番の女中が火を起こし始めている。その時間に、訓練場の脇へ出てみると、木剣を肩に乗せた男が一人、まだ体の固い足取りで立っていた。
ヴァルメラは少しだけ目を細めた。
「起こされずに来たの」
声をかけると、アストルは振り向いた。まだ眠気は抜けきっていない顔だが、以前のような拗ねた色は薄い。
「たまにはな」
「たまには、では困るのだけれど」
「それは分かってる」
返答が早い。言い訳も短い。そこは少し変わった。
来たばかりの頃のアストルは、まず疲れ方が甘かった。体を動かした日の疲れではなく、思い通りにならないことに拗ねた時の疲れ方をする。朝起きるのがつらい、歩くのが面倒だ、紙の字が多い、村の顔が覚えきれない。そういう愚痴を、本人なりに隠しているつもりで顔へ出していた。
ヴァルメラはそれを一つずつ潰した。
早く起きる。
食う。
歩く。
聞く。
見る。
剣を振るう。
その日のうちに眠る。
大層な修養ではない。人が人として整うための最低限だ。だが、そこそこ甘く育った男には、それがいちいち刺さる。
「貴方ね、疲れてるんじゃなくて、自分の思った通りに運ばないのが嫌なだけでしょう」
領内の視察から戻った夕方、玄関脇の階段へ腰を下ろしたアストルへ、ヴァルメラがそう言うと、彼は少しだけ顔をしかめた。
「そういう言い方をするか」
「するわよ」
「人の気力を削るのがうまいな」
「削れてるのは無駄な見栄だけでしょ」
そこで終わる。
余計な慰めは入れない。
慰めるほどの段階ではないからだ。
けれど、削るだけでもなかった。
出来た時は、出来たと分かる形で拾う。
大げさに誉めはしない。だが、見ていないふりもしない。
朝きちんと起きられた日は、その顔色を覚えていた。視察の帰りに弱音を吐かず歩き切った日も、自分から農具の傷みへ気づけた時も、帳簿の数字から村の負担の偏りを先に拾えた時も、ヴァルメラは何も言わずに受け取っていた。説明を一つ減らす日もあれば、茶が一杯多く出る日もある。
逃げた時だけ、逃がさない。立った時には、立った分だけ次へ進ませる。
その線の引き方だけは、最初から変えていなかった。
アストルは最初、その甘さの方が分からなかったらしい。
ある晩、帳簿を閉じるなり、ぽつりと漏らしたことがある。
「お前は、どこが甘いんだ」
ヴァルメラは燭台の火を指先で少し避けながら、ちらりとだけ彼を見た。
「誰の話?」
「お前の」
「私は甘いわよ」
「どこが」
「まだ分からないなら、その程度ってことね」
そう返すと、アストルはふてくされたように黙り込んだ。
あの時の顔を、ヴァルメラは少し面白く思い出す。分からないからといって怒鳴らず、ただ分からないなりに黙るようになっただけでも、最初の頃とは違う。
領地の空気に慣れていくにつれて、アストルは自分の足で見る量が増えた。
モルヴェン公爵領は、王都のように磨き上げられた言葉で人が動く場所ではない。麦の出来、道の傷み、倉の湿気、馬の脚の癖、見回りの遅れ、そういうものが生活と直でつながっている。人ひとりの判断が、そのまま次の朝の不便になる。
ヴァルメラは最初から、それを紙だけで教える気はなかった。
「行くわよ」
そう言って外套を投げる。
アストルは黙って受け取る。
昔なら「どこへ」とか「今日はもう」とか言っただろう。今はまず着る。
雨上がりの道はぬかるむ。
風の強い日は土埃が立つ。
村の集会所は王城の応接間ほど綺麗ではない。
それでもそこで人は生きていて、そこで公爵家は重さを持つ。
ある村で、水路の木枠が腐りかけていた。職人を回すほどではないと報告が寝かされていた案件だ。放っておけば、来月の水量で崩れる。
ヴァルメラはその場で木材の数と人足の組み方を決め、ついでに記録を寝かせていた担当の名も控えさせた。横にいたアストルが、その流れを見て問う。
「怒らないんだな」
「何に」
「記録を寝かせた奴に」
ヴァルメラは水路の縁へしゃがみ込み、湿った木肌を指先で押した。柔らかすぎる。完全に持たない。
「怒るだけなら簡単よ」
「じゃあ何する」
「次に寝かせられない位置へ置き直すの」
立ち上がる。
泥のついた手を布でぬぐいながら続けた。
「怒鳴って済むなら誰でもやるわ。使えるなら位置を変える。使えないなら外す。それだけ」
アストルはしばらく黙っていた。
それから、ほんの少しだけ低い声で言う。
「グレイシアみたいだな」
ヴァルメラは足を止めかけた。
だが止めない。
「逆でしょ。あの子が私を見て育ったのよ」
それを聞いたアストルは、否定しなかった。
王城にいた頃なら、婚約者の名前をこんな風に口にするだけでも、もう少し何か混じっただろう。後悔か、苦さか、あるいは自分を守る言い訳か。
今はただ、そうか、と受けるだけだった。
剣の方も、少しずつましになった。
最初の頃のアストルは、ヴァルメラを見ても「小さい女」以上のものを読めていなかった。近づけば崩せる、体格差で押し切れる、そういう甘さがそのまま足に出ていた。
けれど、何度も転がされるうちに、ようやく分かってきたらしい。
この女の怖さは、見た目の細さにはない。重心が低い。肩が逃げない。踏み込む距離が短い。小さい分だけ近く、その近さの中で相手の崩れる角度を拾ってくる。
柔らかく見えることと、弱いことは別だと、ようやく身体で覚え始めたのだ。
「遅い」
「今のは速かっただろ」
「速いだけで当たるなら、猪でも剣士になれるわ」
「言い方」
「優しく言ってほしいの?」
「……別に」
そのやり取りが、何度もあった。
けれど、ある日を境に、転がされる回数が急に減った。
踏み込みの前に一拍置くようになった。
目線で惑わされず、足元を見るようになった。
そして何より、負けたあとに拗ねない。
土に尻をつき、息を吐いてから、自分で立つ。
それだけのことが、最初の頃には出来なかった。
ヴァルメラはその変化を黙って見ていた。
黙っているが、見ている。
アストルもそれを、もう知っているらしい。
「今のは?」
稽古のあと、息を整えながらアストルが問う。
「まし」
「それだけ?」
「十分でしょ」
「お前、本当に誉める気がないな」
そこでヴァルメラは木剣を肩へ預け、少しだけ顎を上げた。
「誉めてるわよ。ましになった、って」
アストルはそこで、ようやく少し笑った。
その笑い方が、王都にいた頃よりずっと素直になっているのを、ヴァルメラはきちんと見ていた。
館へ戻れば、今度は家の中の位置を覚えさせる。
当主の机はヴァルメラのものだ。そこへ座ることはない。
だが、その横で書類を受け、整理し、必要な時に前へ出る位置はある。
家臣の視線は厳しい。最初は「王家から流れてきた男」を見る目だった。それが、少しずつ「女公爵の婿」を測る目に変わる。その変化を、アストル自身も感じているだろう。
ある夜、食後の執務机で、ヴァルメラが領境の報告を読んでいると、アストルが自然に灯りを一つ寄せた。
言われたからではない。
その位置の方が読みやすいと分かったからだ。
ヴァルメラは紙から目を上げずに言う。
「気が利くようになったじゃない」
「今のは褒めてる?」
「ええ」
「珍しいな」
「そうでもないわよ」
そう返しながら、ヴァルメラは少しだけ口元を緩めた。
まだ足りない。
でも、立てるかもしれない、と思うには十分な変化だった。
ただ、それでもまだ抱かない。
そこはヴァルメラの中では明確だった。
アストルはもう、女としての自分を意識している。近くで動けば目が止まるのも分かる。稽古のあと、襟元へ手をやっただけで一瞬だけ呼吸が浅くなるのも知っている。夜、廊下で鉢合わせた時、互いに少しだけ沈黙が長くなるのも感じていた。
だが、それだけで与える気はなかった。
欲を向けられることと、夫として迎えることは別だ。
使えるところまで来ていない男に、自分の初めてを渡すほど安くはない。
ある晩、稽古上がりに井戸水で首筋を流したあと、ヴァルメラが布で髪をぬぐっていると、アストルが少し離れたところから言った。
「お前は、平気なんだな」
「何が」
「……そういうの」
言葉を濁している。
女として見ていることを、まだまっすぐには言えないらしい。
ヴァルメラは布を肩へ掛けたまま、彼を見る。
「平気じゃなかったら近づかせてないわ」
「じゃあ」
「でも、まだ早い」
アストルの喉が小さく動く。
意味は分かったのだろう。
「何が足りない」
「色々」
「雑だな」
「あなたの父上みたいなこと言わないでくれる?」
そこでアストルは吹きかけて、結局苦く笑った。
返しが来る余地があるだけ、まだましだ。
「……分かった」
不満はある。
だが食い下がらない。
それならいい。
季節が一つ巡るころには、アストルは領内の主だった村の顔を覚えていた。視察の順路も、倉の配置も、誰が遅れやすいかも分かるようになった。帳簿を見れば、数字の揺れに先に気づくこともある。護衛や家臣と話す時の声の出し方も、以前よりずっと地に足がついてきた。
そして何より、ヴァルメラの横に立つことを怖がらなくなった。
ある日、来客の前で、ヴァルメラが意図的に一歩引いたことがある。
試したのだ。
その時、アストルは逃げなかった。
受け答えは完璧ではない。だが、誰かの顔色を窺って笑うことも、責任を横へ流すこともなく、自分の言葉で立っていた。
来客が去ったあと、ヴァルメラはしばらく何も言わなかった。
机の上に残った茶器を横へ寄せ、閉じた帳面の角を指先で揃える。部屋の中は静かだった。さっきまで人がいた空気だけが薄く残っている。
アストルもまた、余計なことは言わなかった。そういう沈黙が持つ重さを、少しは分かるようになったらしい。以前なら、何か気の利いたことを言おうとして滑らせるか、逆に妙に拗ねた顔で黙るかのどちらかだった。
今は違う。
立つべきところで立てるようにはなってきた。
言うべきことを、言い過ぎずに返せる時もある。
人の前で見栄だけを張る顔は、だいぶ減った。
そこまで思ってから、ヴァルメラは小さく息を吐いた。
困るのは、そういう変化を、自分がきちんと見てしまっていることだった。
役に立てば、それを見る。逃げれば、その分詰める。
それだけのつもりで置いた男だった。今も、そのつもりでいるはずだった。
なのに最近は、それだけでは済まない瞬間がある。
言われる前に灯りを寄せる手が目につく。自分が一歩引いた時に、逃げずに前へ出たことが胸に残る。呼べば来る、そのことに腹が立たない。むしろ自然だと思ってしまう。
使えるようになった、だけでは足りなかった。
横へ立つことを許してもいいと、自分の方が思い始めている。
それに、気づかないふりをしていただけで、まるで意識していなかったわけでもない。
稽古上がりに乱れた髪へ目が行くこともあった。夜の廊下で足を止める沈黙が、以前より長くなっていることにも気づいていた。近づけば息が変わる。その変化を、自分が面白いと思ってしまっていることも。
欲を向けられること自体は、どうでもよかった。
だが今は、それを向けてくる相手が、置き直しただけの男ではなくなりつつある。
なら、決めるのは自分の方でいい。
そこまで認めてしまえば、いつまでも「置いてやっている側」の顔だけをしている方が、たぶん不誠実だった。
ヴァルメラは立ち上がった。
迷いを断ち切るような勢いではない。もっと静かな、決めた者の動きだった。
その夜、ヴァルメラは自分からアストルを呼んだ。
執務は早めに切り上げた。館は静かだ。女中たちが奥の灯りを少し落とし、廊下の足音も遠くなる。
アストルは呼ばれて来た時点で、何か違うと分かった顔をしていた。
いつもと同じ部屋。
いつもと同じ卓。
けれど、そこに置かれた空気が違う。
「何だ」
「座って」
アストルは従った。
視線が揺れている。
そこまで分かりやすくなくてもいいのにと思うが、分かりやすいからこそまだましでもある。
ヴァルメラは自分の方から歩み寄った。
小さい。
柔らかい。
近づけば女の体温がある。
それでも、主導権を渡す気は最初からなかった。
指先で顎を上げる。
アストルがわずかに息を止める。
「使えるようになったわね」
その一言で、彼の目が少しだけ見開かれた。
「……それは」
「だから、いいわよ」
何が、と聞かせる気はない。
そこまで言ってから、ヴァルメラは自分から唇を重ねた。
アストルの肩がびくりと震える。
最初の反応だけで分かる。
覚悟していなかったわけではない。だが、向こうから来るとは思っていなかった。
そうだろう、とヴァルメラは思う。
王都にいた頃のお前なら、たぶん自分が抱く側だと思っていただろう。
でも違う。
主導を決めるのは自分だ。
受ける形を決めるのも自分だ。
そういう形でしか、今のこの男は受け取れない。
唇を離し、首筋へ手を回し、そのまま引き寄せる。
アストルの方が背は高い。肩も広い。けれど今は、その高さも広さも意味を持たない。体を預けさせ、崩す角度へ持っていくのはヴァルメラの方だった。
戸惑いも、熱も、全部感じる。
だがそこで緩めない。
初めてだった。
それでもヴァルメラは引かなかった。怖くないわけではない。だが、怖いから止まる程度なら最初から呼ばない。渡す相手くらい、自分で決める。その決めたあとに震える気はなかった。
近づき、触れ、向こうの息遣いが変わっていくのを確かめながら、少しずつ距離を詰めていく。アストルは途中で何度か、主導を取り返そうとするように手を伸ばした。だがそのたびに、ヴァルメラは小さく笑って逃がさない。
「違う」
「……何が」
「焦りすぎ」
その言い方に、アストルの息がさらに乱れる。
命じられている。
導かれている。
そして結局、自分の方が受け取る側へ置かれている。
それでも嫌ではない。むしろそこへ落とされるほど、熱が深くなるのが自分でも分かる。そんな顔をしていた。
ヴァルメラは最後まで、声を乱しすぎなかった。
苦しさはある。
痛みもある。
けれど、その全部を理由に主導権を渡す気はない。
細く息を漏らしながらも、体の向きも、距離の詰め方も、自分で決める。
アストルはそれに飲まれていく。
昼も夜も、やはり崩せない女だった。
どれだけ時間が過ぎたのか、あとになってもヴァルメラは正確には覚えていなかった。
ただ最後に、熱の奥で一つ大きく揺れたあと、身体の深いところがじんと痺れ、呼吸がほどけたのは覚えている。
静かになった部屋で、しばらくはどちらも動かなかった。
先に身じろぎしたのはアストルだった。何かを言いかけ、そこで止まる。視線が寝具へ落ちて、そのまま固まった。
布の上に、はっきりと血があった。
ヴァルメラはその視線を追って、ようやく自分でも見る。
見て、ああ、とだけ思う。
当然だ。
初めてなのだから。
だがアストルはそうではなかったらしい。こちらを見る目が、さっきまでとは違う驚きに染まっている。
「……初めてだったのに?」
その問いに、ヴァルメラは少しだけ眉を動かした。
「そうよ」
「そうよ、って」
「だから何」
返すと、アストルは言葉に詰まる。
衝撃が大きすぎて、怒るでもなく、喜ぶでもなく、ただ呆気に取られている顔だった。
「嫌なら受けなかったわ」
ヴァルメラは乱れた髪を指でかき上げた。頬は熱い。体も少し重い。けれど、声は崩さない。
「使えない男に渡すほど安くないもの」
そこまで言ってから、一拍置く。
「今日ならいいと思ったからよ」
アストルはしばらく何も言わなかった。
その沈黙の中で、ようやく何かが落ちたのだろう。
厳しいだけではない。
甘いというのは、こういうことかと。
やがて、少しかすれた声で言う。
「……グレイシアの言った通りだな」
「何が」
「厳しいけど甘い」
ヴァルメラはそこで、やっと小さく笑った。
「今さら?」
「今、分かった」
「遅いわね」
「言わないよりはましだろ」
その返しに、ヴァルメラは少しだけ目を見開いた。
その言い方は、妹に返した言葉のどこかを通っている。
「そうね」
短く答える。
それで十分だった。
その日を境に、二人の間の空気は変わった。
急に甘ったるくなるわけではない。
ヴァルメラは相変わらず朝起こすし、歩かせるし、帳簿も投げる。
アストルも相変わらず疲れるし、剣ではまだ負ける。
けれど夜を知ってから、昼の立ち方まで少し変わる。
最初の一度で何もかも変わったわけではない。
二度目はアストルの方が妙に気負って失敗しかけたし、三度目は逆にヴァルメラが笑ってしまって途中で流れが崩れた。そういう不格好な夜をいくつか重ねて、ようやく互いの癖が分かっていく。
アストルは最初の頃ほど焦らなくなった。触れればいいと思っていた男が、どこで力を抜けばいいか、どこで待てばいいかを少しずつ覚えていく。夜のあとのヴァルメラの機嫌も、少しずつ読むようになった。無理に抱き寄せれば嫌がられる。かといって離れすぎれば、それはそれで減点になる。水が欲しい時、黙っている方が楽な時、少しだけ髪へ触れられるのを許す時。その違いを、失敗しながら覚えていった。
ヴァルメラもまた、夜のたびに主導権を握り続けるだけではなくなった。任せていいところは任せる。だが、任せすぎて増長しそうになればきちんと止める。そういう線の引き方が、寝台の上でも少しずつ出来ていった。
その変化がいちばん分かりやすく出たのは、終わったあとの時間だった。
最初の頃は、互いに息を整えるだけで精一杯だったのに、何度か重なるうちに、アストルはヴァルメラの髪を黙って梳くようになった。乱れた寝具を先に直す日もあれば、水を持ってくる日もある。そういう小さな気の利かせ方を、ヴァルメラは言わずに見ていた。
見ていて、何も言わない日もあれば、たまにだけ「遅いけど、まし」と許すように言う。ときどきは自分から肩へ寄ることもあった。ほんの少し額を預ける、その程度のことをされるだけで、アストルが露骨に黙るのが可笑しかった。
厳しいだけなら簡単だ。
何度か夜を重ねたあとで、なお甘やかしすぎず、でも拒まない距離を取る方が、ヴァルメラにはよほど難しい。
そういう夜がいくつか過ぎて、ようやくヴァルメラは思うようになる。
ああ、この男はもう、ただ置き直しただけの元王子ではないのだと。
たとえば、家臣の前での位置取りが変わった。
以前のアストルは、ヴァルメラの横へ立つにも、半歩ぶんだけ迷いがあった。前へ出すぎると叱られる気がし、引きすぎれば役に立たない。その曖昧さが立ち姿にそのまま出ていた。
けれど、ある日からそれがなくなった。
ヴァルメラが口を開く前に、必要な書付を横へ差し出す。来客の前では一歩だけ後ろへ収まり、問われた時だけ自分の言葉で返す。出しゃばらず、逃げもしない。
その立ち方を見た時、ヴァルメラはようやく、夫として家の中へ納まってきたのだと思った。
やがて子どもが出来た。
最初の娘が生まれた時、アストルは恐ろしくぎこちなかった。抱き方が固くて、ヴァルメラに「落とさないでよ」と真顔で言われたほどだ。だが、そのぎこちなさごと愛おしいと思えるくらいには、もう夫になっていた。
二人目、三人目と増え、最後にようやく男の子が生まれる頃には、館の中はすっかり賑やかになった。
長女はよく見て、よく気づく。
次女は人懐こく、誰にでも寄る。
三女は声が大きい。
長男は父へまとわりつきたがる。
子どもたちが増えるたびに、アストルは地に足がついていった。
王子だった男ではなく、父になる。
それは案外、大きな矯正だった。
昼も夜も、少しずつ変わっていく。
最初は完全に抱かれる側だった男が、やがて返してくるようになる。
剣でもまだ勝てないくせに、夜だけはしぶとく食らいついてくる日もあった。そういう時の顔を、ヴァルメラは嫌いではなかった。
ある晩、いつものように抱き合ったあと、息を整えながらヴァルメラが思わず漏らしたことがある。
「……だいぶましになったわね」
するとアストルは、肩で息をしながらも口元を上げた。
「それ、今はどっちの話だ」
「両方」
「誉めてる?」
「ええ。珍しく」
そう返すと、アストルは目を閉じたまま笑った。
その笑い方が、もう王都にいた頃の軽いものではなくなっている。
来領したばかりの頃の男を思い出すと、たまに可笑しくなる。
背だけ高くて、中身の足りない男だった。
見た目と最低限の器用さだけで上へ立てると、どこかでまだ思っていた男だ。
それが今は違う。
朝は起きる。
子どもの声で起きても文句を言わない。
領地を歩く。
家の中で立つ。
必要な時に前へ出る。
そして夜も逃げない。
王には向かなかった。
それは本当だ。
だが、女公爵の夫としてなら、案外悪くない男になった。
元王夫妻が来ると報せが入ったのは、春の匂いが少し戻り始めた頃だった。
館の中が少しだけ慌ただしくなる。大掃除というほどではないが、客間の布が替えられ、子どもたちは服を合わせ直される。長女はもう落ち着いた顔で言いつけを聞くが、真ん中二人はそわそわして落ち着かない。長男などは、父について訓練場まで出ていこうとして止められていた。
ヴァルメラは廊下の窓際でその様子を見た。
庭ではアストルが木剣を長男へ持たせないように取り上げ、代わりに軽い棒へ替えている。怒鳴りもしないし、甘やかしすぎもしない。自分の横で学ばせる男のやり方になっていた。
その横顔を見て、ヴァルメラは静かに思う。
最初に来た時は、見せられたものではなかった。
王には向かなかった。
婿としても、最初はまるで使い物にならなかった。
けれど今は違う。
子の父で、家の中で立ち、昼も夜も逃げない。
だったらもう十分だ。
見せてやれる顔にはなったわね。
そう思ったところで、ちょうどアストルがこちらを見上げた。窓辺に立つヴァルメラへ気づき、少しだけ眉を上げる。
「何だ」
「別に」
「その顔は別にじゃないだろ」
「義父様たちがいらっしゃるのよ」
ヴァルメラは窓枠へ手を置いたまま言う。
「ちゃんとしなさいな」
アストルは呆れたように笑った。
「誰のせいでこうなったと思ってる」
「私の鍛え方が良かったのよ」
「はいはい」
その返事が軽いようでいて、ちゃんと返ってくる。
昔のように拗ねてもいないし、背負わされた顔もしていない。
それが何よりだった。
ヴァルメラは窓の外の空を見上げた。よく晴れている。来客の日としては悪くない。
館の中では子どもたちの足音がする。
外では夫が立っている。
遠くからは、門の見張りが人の来る気配を伝える声がした。
もう大丈夫だろうと思う。
あの断罪劇の夜、妹が投げて寄越した元婚約者は、今ではきちんと自分の夫になっていた。
だったら、見せてやればいい。
ここまで来たのだと。
王には向かなかった男でも、置く場所を変えれば立てるのだと。
ヴァルメラは小さく笑い、窓辺を離れた。
義父と義母を迎える顔としては、それで十分だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
本編で見えていた流れの裏側を、ヴァルメラの側から辿るとどうなるかを書いてみた一編でした。
妹への婚約打診が届いた時から、姉の側では姉の側の見え方で、すでに色々と始まっていたのだと思います。
ヴァルメラは厳しいですが、ただ厳しいだけではなく、ちゃんと見て、拾って、置くべき場所を決める女として書きたかった人物です。
そしてアストルは、王としては足りなくても、置く場所が変われば立てる男として着地させたかったので、そこが少しでも伝わっていれば嬉しいです。
本編を読んでくださった方に、別の角度からもう一度楽しんでいただけていたら幸いです。
ありがとうございました。




