第一話 双角の儀
炎の匂いは、記憶よりもしつこい。
鼻の奥に刺さって離れず、ふとした瞬間に、あの夜の赤を連れてくる。
六年前。
空は、燃えていた。
家々は砕け、瓦礫は熱を孕み、地面はどこまでも濡れている。
それが雨か血か、幼い迅には判別できなかった。ただ、足が動かなかった。
目の前には――人の形をした“影”。
人間のように二本の腕と脚を持ちながら、そこにあるのは人間の重さではない。
空気そのものが沈み、肺が縮む。視界の端が暗くなる。
その影の前に、父が立っていた。
刀を握る手は、奇妙なほど静かだった。
全身は血に濡れ、息は荒い。それでも背筋はまっすぐで、立ち姿は揺らがない。
父は逃げない。逃げるという概念が、この人の中には存在しないように見えた。
少し後ろに、黒鉄がいた。
膝が笑い、肩で息をしながら、それでも立っている。
父が振り返る。
黒鉄の肩を、強く掴む。
「息子を頼む」
短い言葉。
命令に近い。だが、頼みでもあった。
黒鉄の目が揺れる。
「あなたはどうする!」
父は影から視線を外さない。
「俺はこいつを食い止める」
その声には、恐怖が混じっていなかった。
あるのは決意だけだ。燃える夜よりも、鋼よりも固い。
父が、ほんの一瞬だけ迅を見る。
温度が変わる。
優しくなる。
「行け」
その一言で、世界が動いた。
黒鉄は歯を食いしばり、迅を担ぎ上げる。
振り返らない。振り返ってしまえば、足が止まる。止まったら死ぬ。
背後で刀が抜かれる音がした。
次の瞬間、白い閃光。
爆音が夜を裂く。
迅の視界は炎に染まり、父の背中は――最後まで、そこにあった。
⸻
現在。
対魔育成学院、訓練場。
夕暮れの光が赤く、汗の匂いが地面に落ちている。
蓮の大剣が地面を叩き、乾いた衝撃が足元から響いた。
「……明日、双角の儀だな」
何気ない言い方のくせに、言葉の端に緊張が混じる。
明日で、人生が変わる。
迅は木剣を構えたまま、軽く笑ってみせた。
「急にどうした」
少し離れたところで、零が銃型の訓練器具を分解していた。
手つきは無駄がなく、視線は落ち着いている。焦りの気配がない。
「鬼に気に入られたら契約。刻印出なきゃ終わり」
淡々とした声。
言っている内容は残酷なのに、零の声は感情を煽らない。事実として置いていくだけだ。
蓮が肩を鳴らす。
「将鬼に選ばれりゃ上出来だろ」
零が視線を上げる。
「鬼の位は四つ。下鬼、戦鬼、将鬼、鬼王」
迅は思わず自分の手の甲を見る。
まだ、何もない。
刻印が浮かぶ手を想像すると、皮膚がむず痒くなった。
「選ばれる側、か」
零が、ほんの少しだけ肩をすくめる。
「選ばれなくても、終わりじゃないだろ」
その言い方が、妙に優しい。
慰めではない。叱咤でもない。
ただ、“事実の形を変えないまま”手を差し伸べてくる感じ。
蓮が踏み込む。
「そうそう。まだ決着ついてねーしな」
刃がぶつかる。
木剣と大剣が交差し、腕に衝撃が走る。
迅は踏ん張るが、剣筋は甘い。すぐに弾かれ、木剣が地面を転がった。
「引き分けだな」
言い訳のように言った瞬間――低い声が落ちた。
「まだ甘い」
空気が変わる。
黒鉄が立っていた。
一歩、踏み込む。
鈍い音とともに、足元の石畳がわずかに隆起した。
岩系統。地面そのものを動かす力。
「力任せに振るな」
黒鉄の視線が、迅を捉える。
ほんの一瞬。
その視線には、言葉にできない重さがあった。
「明日は双角の儀だ。浮かれるな」
それだけ言い、黒鉄は背を向ける。
背中は大きい。
近くにいるのに、遠い。
⸻
双角の儀。
広間の空気は張り詰め、誰もが息を浅くしている。
ここで選ばれれば前線へ。選ばれなければ後方へ。
努力の差ではなく、“適合”かどうかで分かれる。
一人目。紋陣に立つ。
刻印が浮かぶ。
「戦鬼、契約成立」
歓声が上がる。
喜びの声の下で、別の生徒の指先が震えている。
次の生徒。
沈黙。
「不適合」
崩れ落ちる音は、歓声よりもよく響いた。
蓮の番。
冷気が広間に染みる。
世界が白くなる。
『荒いな』
頭の奥に直接響く声。
蓮は笑う。強がりではない。
「うるせぇ」
短い沈黙。
冷たさの中に、わずかな肯定が混じる。
『悪くない』
刻印が浮かび上がる。
「将鬼、契約成立」
ざわめきが走る。
零の番。
風が止まる。
音のない空間。
呼吸の音さえ遠い。
『無駄がない』
零は目を閉じる。
そして、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……あなたも」
風が頬を撫でる。
刻印が光る。
「将鬼、契約成立」
そして迅。
紋陣の中央に立つ。
胸の奥がざわつく。手が冷える。
静寂。
声も、気配もない。
ただ、空虚。
「……不適合」
耳の奥で何かが壊れた気がした。
世界が遠のき、音が薄くなる。
⸻
中庭。
夕陽が赤い。
さっきまでの歓声が嘘みたいに静かだった。
迅は俯いたまま言う。
「……悪い」
零がじっと見る。
「別に。あんたが謝ることじゃないだろ」
少し間を置いて、零は言葉を足す。
その声音は変わらないのに、優しさだけが混じる。
「……ちゃんと立てる?」
蓮が笑う。
「まだ決着ついてねーからな」
その瞬間。
空気が裂けた。
結界に亀裂が走り、砕ける。
空に黒い穴が開く。
悪魔が降り注ぐ。
地獄が――戻ってきた。
(第一話 終)




