噛み合わない会話‐福沢聖と湯島誠との電話‐
――Prrrrrrr
――Prrrrrrr
何度目かのコール音。無機質な電子音ががらんどうな私の頭に響く。携帯を持つ手が重かった。
――Prrrrrrr
――Prrrrrrr
コール音を耳にしながら、手首の時計に目をやる。時計の針は昼休みを告げている。ちょうど長針と短針が最も離れている一分間だった。互いに背を向け天と地、別々の方向を臨んでいる。淡いピンクゴールドの文字盤できらびやかに時を刻むその腕時計は、去年のクリスマスに誠くんがプレゼントしてくれたものだった。
誠くんの声は聞きたかったが、話はしたくない。そんな複雑な心境だった。コール音の向こう側に誠くんの姿が浮かび、電話に出て欲しい気持ちと、反面出て欲しくない気持ちがないまぜで自分の心がわからなかった。
駄目だ。電話をする前に固めた心構えが崩れていくのを感じた。こんな気持ちで誠くんと喋って平静でいられるわけがない。誠くんが電話にでる前に切ろう。
「もしもし? 聖」
突如消えたコール音に代わりに、耳に飛び込んできたのは他でもない、誠くんの声だった。心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、しかし、全身の血の気が引いてゆく。
ギュッと目を瞑り、深呼吸。
「お~い? 聖? あれ? もしも~し」
溢れる涙を声には出さぬよう気をつけ、口を開く。
「誠、くん?」
声が震えていないか、自分ではよくわからなかった。
「お! 聖? もしもし? 何、どしたの? 急に電話なんて?」
細身な体格の割に低く、電話などでは少し聞き取りづらい声。今までなんども聞いた誠くんの声だ。
「あ、うん。あのね、こないだの話なんだけどさ」
この声が聞きたくて、なんども夜更かししたっけ。昨日はずっと電話してたから今日昼間居眠りしちゃって先生に怒られた、なんて、懲りずにまたその晩電話したり。
「あ~、すまん。聖。実は今日はまだ、なんも聞けてないんだ。いや、あれだぜ、結構聞き込みしたんだけどさ、うん。マジで」
「そうなんだ。あ、でもそんなに気にしないでいいからね」
「いや、そうもいかないっしょ。堺さんだっけ? 近いんでしょ? コンクールの出展」
誠くんの口から嘘が漏れる。もちろん誠くんの嘘ではない。私が誠くんについた嘘だ。真実を混ぜて紡いだ嘘が押しつぶされそうな気持ちをさらに抉る。
堺さんは、私が通う美大の予備校で講師を勤めているフリーの映画監督だ。新進気鋭の映画監督の登竜門とも呼ばれているさるコンクールから招待枠を譲り受け、出展をしようと意気込んでいるのだが、いかんせん制作資金に難航し、撮影が中断している。ここまでは真実。
「資金援助の目処が立てば、堺さんを初め、制作関係者である美大のOBの人達と顔を繋ぐことができるかもしれないの。別に裏口で美大に入れるとかそんなんじゃないんだけどね、将来的にその業界へ進むことを真剣に考えているなら、そういったことがなにかの糧になるかも」
私は、そう言って誠くんを騙した。誠くんが私の夢を尊重してくれるのを知っていたから。実際は堺さんとは直接の面識どころか、授業で教わったことすらない。コンクール云々の話は講師室のすぐ脇にあるラウンジで小耳に挟んだだけの事だった。
そんな嘘にしかし、誠くんは喜んで協力を買って出てくれた。そしてそんな優しい誠くんを私はさらに騙した。
でね、最近いいお小遣い稼ぎがあるらしいんだ。そう切り出し、私は『自殺ネット』の合言葉探しを誠くんに頼んだのだ。
「ッツクんだよ! マジで! ネットに詳しいって話聞いてたんだけどな、その根岸ってやつさ。あれ? もしもし? 聖? 聞いてる?」
「うん。聞いてるよ」
「で~、えっとなんだっけ。あぁ、そうそう根岸の奴が……って違うな。聖に愚痴ってもしょうがなかったっけ」
「ううん。大丈夫だよ、誠くんの話聞いてて面白いもん」
そうだ。誠くんは本当に話が上手だ。とにかく話題が広い。昨日見たテレビの話から、美味しいバナナの選び方まで、いろんな話をしてくれる。絵を描く事しか能がなかった私の知らない世界を面白おかしく教えてくれたのだ。
「マジで!? そう言われると悪い気しないな~。……って違くね!? 先に電話かけてきたの聖じゃん! なんか用があったんだろう?」
「うん、えっとね。私もさ、色々調べたんだ、合言葉のこと。それでね。誠くんの学校、多分、二年生だと思うんだけど、「コウメイ」って人居る?」
「コウメイ?」
私は、件の自殺ネットに参加している人間に多数アプローチを取り、合言葉への糸口を探して得られた手がかりを誠くんに話す。
「そうコウメイ。正確にはKOUMEIってハンドルネームの人なんだけどね。その人が、自殺ネットに『合言葉教えます』ってトピックを立ててたりするみたいなの」
「え? でもさ、聖。その手のトピックやら情報交換みたいなのって、今どこでもやられてるじゃん。こんなこと言うのもなんだけど、そいつが知ってるのが本当の合言葉なのかわからなくない?」
「確かにそうだけど……。先々週の自殺者の人もその人から合言葉を手に入れたって噂があるのよ!」
合言葉の真偽を確かめるのは簡単だ。実際にその合言葉を書き込み、正当なリアクションが来るかを待てばいいのだから。
しかし、そんなことは口が裂けても誠くんには言えなかった。私は苦し紛れの言い訳をする。
「それに。それにね、誠くん! 合言葉の真偽は構わないの!」
「え!? 真偽は構わないって、聖。嘘の合言葉を売って金にするのか? それは流石に……、ちょっと、あれじゃないか?」
「そうじゃないよ誠くん! 詐欺とかそういうんじゃないの! 売るときには真偽はわからないけど、本当かどうかは、すぐわかるでしょ? 本当に、自殺の段取りが送られてるかで判断できるもの」
「まぁ……そう言えばそうかなぁ」
誠くんの声色には未だ少し得心がいってない様子が感じられた。
「そう、で、真偽がわかった段階でお金のやり取りをすればいいのよ!」
「それも……そっか、なぁ」
少しの間無音を乗せた電波が行き交う。私は努めて明るい声を出し、誠くんの背中を押した。
「そうよ。そのへんはまかせて!」
「あ!」
「え?」
誠くんの一段上がったトーンが急に耳に飛び込んできた。何か口を滑らし、不味いことを言ってしまっただろうか。携帯を握る手にかいた汗が増した気がする。自分の鼓動の音がうるさかった。
「そうだ! その辺も気になってたんだ。聖は合言葉がお金になるって言ってたけどさ、売買って言うか、相手とのやりとりはどうすんの?」
誠くんの発言は、私の嘘に気づいたものから発せられたものではなかった。安堵と共に、ここから先もボロは出せないと気を引き締め直す。
通話口に手をかぶせると、さっきから枯れることなく溢れる涙を大きくすすって、拭う。泣いては駄目だ。深く呼吸を一回。こちらの様子を悟られないように、何事もなく続ける。
「そのへんは私に伝があるんだ! 娯楽も少なくて噂好きの女子高の女の子の人脈はすごいんだから!」
一気呵成にまくし立てた。これ以上取り繕うのは無理だ。嘘も、涙声も。
「だから、誠くんは、気の向いた時でいいんだ。「コウメイ」って人とかの事を気にかけといてくれれば」
「お、おぉ。大丈夫だ! その辺は俺にまかせとけって! な?」
電話片手に、ドン、と胸を叩く誠くんの姿が浮かぶ。多分、本当にそんなポーズを取っているはずだ。
「うん。ありがとうね、誠くん」
人の気持ちがこんなに痛いなんて知らなかった。誠くんの笑顔が。電話越しで本当は見えてなどいないはずの笑顔が私の脳裏で私の心を刺す。
「…………」
全部を明かしてしまおうか。そんな衝動に駆られた。全部を明かしたら誠くんは私のことをどう思うだろう。慰めてくれるだろうか。気にするなと励ましてくれるだろうか。それとも。
私のことを嫌いになってしまうだろうか。
それだけは嫌だ。
嫌われることだけは嫌だった。でも。でもこれ以上嘘をついては、私には誠くんと話をすることすら許されなくなってしまうかもしれない。
「…………誠く」
「あ! やべっ! 聖ごめん! 先生が来た! なんかあったらメール頂戴! じゃ!」
唐突に切れた電話は救いか断絶か。校内で携帯を使ってるところを先生に見つかりそうになったのだろう。誠くんは矢継ぎ早に別れを告げると、電話を切ってしまった。
語の接ぎ穂を失った私の告白は尻切れトンボになってしまった。中空に放り出されようとした真実は受け止め手を見つけられずに消えていく。
通話を終え、待受画面に戻った携帯の画面を意味もなく見つめる。誠くんの声の残滓が未だ響き残っていた。